カードアース
タクト編 第五章(1/2)
タクト編 第五章
二〇一一年、八月八日。
その朝の俺は、自社の新作のログイン画面を、会議室の大型モニタで見つめていた。開始ボタンの上で、カウントダウンの数字が減っていく。会議室には開発チーム全員がいて、誰も喋らなかった。五年前、ラピスラズリの復活祭の朝も、こんな空気だった。あのときとの違いは、人数が三十倍で、予算が三千倍なことくらいだ。
カードアース2、オープンベータ開始。
無料で遊べる試食期間——とはいえ、世間から見れば、これが「開店」だ。正式サービスのパッケージ(六千九百八十円、三十日ぶんの遊び賃つき)が並ぶのは十日後の八月十八日だが、客が最初にドアをくぐる日は、今日だった。
八時ちょうど、モニタの向こうで門が開いた。数字が滝になった。同時接続の桁が、一分ごとに繰り上がっていく。誰かが泣き、誰かが叫び、俺はといえば——妙に静かな気分で、五年前のドット絵の門と、七年前のヤエスの雑踏を、順番に思い出していた。
開店である。
俺の二度目の、そして桁違いの、開店だった。
——ここに至るまでの二年を、駆け足で書く。
オブザーバー時代の俺は、月に数日、先方の会議室に座る客分だった。それが月に十日になり、週三日になり、約束の二年が満ちた二〇一〇年の暮れ、正式にフルタイムへ移った。肩書きは「企画運営部・シニアディレクター」。ラピスラズリの運営は後任に引き継ぎ(社長はいまだに自分のゲームの畑に引っかかっている)、俺は家から一時間の本社に通う身分になった。服装は、初日にスーツで行って浮いて以来、楽なものに落ち着いている。
初日に、俺の教育係を名乗る女が現れた。
「カミエです。CE1のときから運営やってます。よろしく」
背筋のまっすぐな、目つきの鋭い、俺より少し年上の人だった。名刺を交換して、席に案内されて、着席した瞬間に、彼女は言った。
「先に言っておきますね。あなたの要望フォーム、CE1時代のぶん、全部私が読んでました」
「…………あー」
「『どうやって全員を納得させるかを考えるのがデザイナーの仕事だろう。俺は客だぞ』」
「一言一句暗記してるのやめてもらえます?」
「忘れられると思います? 月に四十通ですよ、あなた」
カミエさんは、CE1の「運営」の中の人だった。俺が七年間、罵倒と正論を投げつけ続けた、あのテンプレ返信の向こう側にいた人だ。彼女は無表情のまま、湯呑みを俺の机に置いた。
「歓迎します。いちばん厄介だった客がこちら側に来るのが、いちばんの補強なので。……ちなみにあの頃、あなたへの返信テンプレには、社内で名前がついてました。『タクト用』」
「専用テンプレだったのか、あれ」
この人とは、うまくやれる気がした。実際、うまくやることになる。
——CE2の設計思想を、内側から見た話をしよう。
会議で最初に俺が面食らったのは、レベルの話だった。CE2は、リリースの時点で、内部にはレベル百までの全部が作り込んであった。
「隠し玉じゃないんですか、上限開放って」
「うちは隠しません」と設計主任。「CE1でレベル百に届いた人間は、ゼロです。廃人の頂点ですら九十で止まった。……今度のゲームは、全員が百に届きます。毎日コツコツ遊べば、誰でも。物語の最終章を、全員が読める。それが今度の設計です」
メインストーリーは章立てで配信され、最初のエンディングまでは、ひと月半。攻略に必要なレベルは低めで、日課を回していれば誰でも間に合う。そこから先は、季節ごとに章とレベルの上限が足されていって、物語の完結は年明けの、さらに先——都合半年がかりの長編になる。ネトゲの熱狂は、半年で一山。その一山の全部に、物語を敷き詰める設計だった。経験値は、奪い合いの荒野からではなく、一人ひとりに用意された「今日のぶん」から出てくる。
通常依頼では、狩場の席取りも、横殴りも、原理的に存在しない。
料金も、その思想に合わせて組んだ。入口でパッケージ代を取る。三十日ぶんの利用券をつける。そのかわり、継続の月額は千五百円まで下げる。毎月、満腹になるほど大きな更新を出せるわけではない。薄い月もある。なら、月額三千円で「今月は何もなかった」と言われるより、最初に世界を買ってもらい、あとは長く居てもらうほうがいい。パッケージと月額の、どっちつかずではない。長編小説の単行本を買わせて、連載の場代を少しずつもらう、という設計だった。
「……CE1が七年かけて殺し合ってたものを、全部、仕様で埋めたんですね」
「埋めました。対人要素は、遊び尽くした人向けの余興です。本編は、万人の物語」
俺は頷いて、それから、ひとつだけ注文をつけた。注文というより、これは俺がこの会社に呼ばれた理由そのものだと思っていた。
「殺し合いたい客も、一定数、必ずいます。CE1の匿名掲示板の連中——ああいう、名無しの群れで騒ぎたい文化圏は、消えません。行き場を用意しないと、本編の島に染み出しますよ」
「提案は?」
「島を分けましょう。遊び方ごとに」
俺はホワイトボードに、丸を四つ描いた。
「一つ目は、本編の島。大多数の受け皿です。ここはさっきの設計のまま、戦争は足さない。ただし、都市の箱だけは置きます。街ごとに、世話役のギルドが立つ。投票と、クエスト貢献と、初心者案内の実績で選ばれる。できることは、露店手数料を少し下げる、転送費の割引日を決める、祭りNPCを置く、酒場の壁に初心者向けの掲示を出す——その程度。国取りではなく、自治会です。……二つ目は、配信の島。実況者と、実況されたい人だけの島。ここは逆に、名前の非公開を許さない。画面に映る人間の全員が、名前と実績を背負っている島なら、映り込みも、権利も、行儀も、筋が通る。対人をやるなら、この島のは『競技』になる。観客の前で、名前を懸けてやる喧嘩は、荒れない。……荒れたら、人気が落ちるので」
「三つ目は?」
「地域の島。リアルの都道府県を入れて遊ぶ島です。——これは元々、うちの妻の企画書でして」
大学を出て、在宅でCE2の衣装システム(プレイヤーが服をデザインして登録できる仕組み——ラピスの鉱脈の、正式な採掘場だ)の立ち上げに関わっていた瑠璃は、企画書の隅にこう書いていた。『ゲームで出会って、現実で家族になる人が、もっと増えたらいいと思います。わたしたちみたいに』。……この無邪気な一枚がのちにどんな騒動を呼ぶかは、いずれ書く。今日のところは、幸せな企画書のままにしておく。
「で、四つ目が」
「匿名の島です」
俺は、四つ目の丸を、少しだけ濃くなぞった。
「先に言っておくと、名前が『ない』島ではありません。全員に、名前はある。ただし、表に出すかどうかを本人が選べる。出さなければ、頭の上の表示は、全員共通の——そうですね、『ナナシ』。掲示板の連中には、いちばん馴染む響きだ。そこだけ対人を解禁して、わざと殺伐に調整します」
「それだけだと、ただの無法地帯では?」
「なので、遊びの軸を置きます。——都市です」
「都市?」
「都市の取り合い。CE1で、俺たちは、都市を取る仕組みなんかひとつも無いのに、都市を奪い合いました。運営がくれたのは果たし状——喧嘩の合意の窓口、あれ一枚きり。宣戦布告の使い方も、連合も、徹夜の防衛戦も、街の値打ちそのものも、全部プレイヤーが勝手に作ったんです。ルールのないところに、人間は勝手に国を作る。……なら今度は、仕組みごと用意してやればいい。一鯖で投票と貢献で決まる世話役を、二鯖では戦場の勝敗で決める。十月に政治と戦場を開けて、十一月に直接のギルド戦を開ける。ギルドが都市を支配できる。支配したギルドの名前が、酒場の看板に掲げられる。世界地図に、名前が刻まれる」
「一鯖の自治会と違って、二鯖で都市を奪う報酬は? 税でも取らせますか」
「取らせません。一鯖の世話役と同じ恒常的な実利を、戦争の勝者へは渡さない。せいぜい都市バフの色が変わる、転送費の割引枠を一日ぶん持てる、訓練場の看板に名前が出る、そのくらい。看板と、地図と、見栄。名誉だけでいい。名誉のためなら、人は徹夜で戦争をします。俺は知ってます。やったので」
会議室が、少し笑った。笑ったが、反対は出なかった。
匿名で、殺し合えて、都市が取れる島。隔離、と言ってしまえばそれまでだが、あの文化には、あの文化の楽園が要る。——これが、のちに「二鯖」と呼ばれる島の設計書の、一行目である。ホワイトボードに描いた順は、正式な鯖番号ではない。サービス開始時には、本編の一鯖、匿名・対人の二鯖、地域交流の三鯖、配信・競技の四鯖という順に並べ直された。
——それから、ドラゴンの話をしなければならない。
初心者の港街の、鉱山の奥に置く、最初のインスタンスボス。その調整会議が、俺のいちばんの思い出だ。
「強すぎます」と若手が言った。「テストだと初見の勝率が三割を切ってます」
「三割でいい」と俺は言った。「むしろ、下げてもいい」
「は?」
「初見は、負けるのが正解なんだ。床が光る。火が来る。ボスには手順がある——それを、負けて覚える。で、二、三日レベルを上げて、装備を整えて、もう一回来る。今度は勝てる。勝てるように、こっちが全部、裏で調整してある。……いいか、プレイヤーが『俺は成長した』って感じる瞬間ってのは、九割が、こっちの接待なんだよ」
言ってから、自分の言葉に、自分で少し、ぞっとした。
ヤエスで辻バフを配っていた頃の俺は、自分の強さを疑ったことがなかった。効率も、勝率も、頂点も、全部自分の腕で掴んだと思っていた。……その「腕」が通用する舞台を、誰かが裏で、こういう会議で、こうやって作っていたのだとしたら。
その考えは、まだ芽のままで、俺は机の抽斗にしまった。抽斗を開け直すのは、もう少し先の話になる。
「あと、最後にひとつ。討伐後、ドラゴンの死体を、前方に倒すようにしてください」
「死体を? なんでです?」
「勝った瞬間がいちばん油断するからだよ。棒立ちで拍手してる新人の頭に、質量が落ちてくる。戦いは、勝利画面まで終わらない——って、一生覚える。安い授業料だ」
「性格悪いですね、シニアディレクター」
「客としても悪かったらしい。テンプレがあった」
……のちにこの倒れ込みダメージが、どこかの島の、どこかの狸を潰して、どこかの誰かの「強くなりたい」の引き金を引くことになるのだが、それはさすがに、俺の知るところではない。
——開店初日に、話を戻す。
各サーバは、その日のうちに軒並み満員になった。俺は運営端末で、稼働を始めた四つのサーバを順に見て回った。
一鯖——本編の島は、王道の混雑。初心者の街道が、芋洗いになっていた。いい名前は、この島から先に埋まっていく。
三鯖——地域の島は、初日から自己紹介が飛び交って、文化祭の教室みたいだった。
四鯖——配信の島では、さっそく誰かが実況の看板を立てていた。名前を背負った連中の、行儀のいい喧嘩が始まろうとしていた。
そして二鯖——俺の設計した匿名の島は、静かだった。静かに、しかし確実に、掲示板の文化圏がなだれ込んできていた。頭上の「ナナシ」の群れが、港街コーベの広場を埋めていくのを、俺は複雑な気分で眺めた。都市の看板は、まだどこも空欄のままだ。この空欄を、これからナナシたちが奪い合う。楽園の完成である。楽園、のはずである。
数週間後、二鯖の巡回スタッフから、妙な報告が上がってきた。
「二鯖に、名前を出してる新人がいるらしいです。酒場で『勇者様募集』って叫んだとかで、ちょっと話題に」
「名前つき? あの島で?」
報告書には、経緯は書かれていない。書かれていないが、設計者には見当がつく。一鯖のいい名前は、開店の週に狩り尽くされた。配信の島は、実績のない新人を入れない。地域の島は、リアルを出したい人の島だ。……つまり、呼ばれたい名前がひとつあるだけの子に、この設計は、匿名の島しか残さないのだ。四つも島を作って、名前を大事にする子の席だけがない。設計者としては、頭を抱える動線だった。
念のため報告書をさかのぼると、名前を出して匿名の島に降り立った子は、その子ひとりではなかった。数えるほどだが、いた。ただ、大半は最初の広場の空気で察して、他の街か他の島へ移るか、数週間でナナシに改名して沈んでいた。名前を掲げたまま、酒場で勇者様を募集しつづけているのは——報告書の上では、ひとりだけだった。
俺は少し笑って、報告書に短くメモを返した。
『放っておくこと。ただし、悪目立ちして狩られるようなら気にかけてやって。——ああいうのが、匿名の島の空気を、いつか変える』
——GMデビューの話もしよう。
九月アタマ、正式サービス最初の記念イベントで、俺は初めてCE2のプレイヤーの前に立った。金色の縁取りのGM装束。頭上には【GM】タクト。中央広場に転移した瞬間、何が起きたかというと。
撫でられた。
「GMだ! 本物!?」
「触れる! 触れるぞ!」
「よしよしされとる」
「エモートやめなさい。運営です。威厳があります」
「【GM】タクト:ちなみに威厳は課金アイテムですか?」
「自分で言うな」
プレイヤーというのは、運営が思うより運営が好きで、運営が思うより運営に容赦がない。俺は撫でられながらイベントの口上を述べ、記念のスクリーンショットに写り込み(五百人の整列に二十分かかった。どこの世界も同じである)、隣のカミエさん——【GM】カミエは、その間ずっと、直立不動の塩対応を貫いた。
「カミエさんも何か一言」
「【GM】カミエ:規約を守って楽しく遊んでください」
「かたっ」
「テンプレの人だ」
「【GM】カミエ:テンプレは正義です。七年の実績があります」
このコンビ芸は、思いのほか評判になった。サービス過剰のタクトと、塩のカミエ。以後、公式イベントの司会は、だいたいこの配役になる。
——そして、ブーメランの話である。
開店から一か月。祭りが日常になった頃、俺の朝は、問い合わせと要望のフォームを開くことから始まるようになった。
その数、毎朝、数百通。
『付術師の弱体化を撤回しろ。俺は金を払っている客だぞ』
『どうやって全職のバランスを取るかは運営の仕事だろう。客に考えさせるな』
『対応が遅い。誠意を見せろ』