星猫くるるHOSHINEKO KURURU

カードアース

レナティア編 第五章 斜陽(1/3)

レナティア編 第五章 斜陽

 まずは、あたしたちの「いつも」の話をさせてほしい。

 このころのあたしと狸たぬきの一日は、こんなふうだった。

 朝、港の鐘が二回鳴るまえに、たまり場の指定席——談話室のいちばん窓ぎわのテーブルに集合する。指定席といっても誰かに認められたわけではなく、毎日座っていたら、いつのまにか誰も座らなくなっただけだ。ナナシのひとりが「そこは狸席」と呼んでいるのを、一度だけ聞いた。

 午前は日課。午後は、そのときのブームに費やす。

 ブームは、季節ごとに変わった。釣りの季節があった。家具の季節があった(談話室の窓ぎわに、あたしたちの寄贈した観葉植物がある)。いまの季節は、称号だった。

 称号というのは、なにかの条件を満たすと名前の下にくっつく、小さな飾りだ。竜殺し、みたいな立派なものから、どうかしているものまである。あたしたちは、どうかしているほうを集めていた。

 たとえば、ログインしたらまず、港の掲示板の前に並ぶ。

「本日のおすすめ称号。『早起きの貝拾い』『港の掃除屋』『鶏の友』。……レナちゃん、どれ行く?」

「早起きはもう失敗しています」

「ログインしたの昼だしね」

「掃除屋は、昨日たぬさんが途中で飽きて、箒を武器にしていました」

「あれは箒の可能性を探ってたんだよ」

「では、鶏ですね」

 掲示板の端には、誰が考えたのか分からない小さな注意書きがあった。

 称号は、強さに直結しないものもあります。気楽に集めましょう。

 直結しないもの「も」ではない。あたしたちが選ぶ称号は、だいたい直結しない。むしろ、直結からいちばん遠いところにある。だけど、朝から経験値効率の表を眺めるより、鶏小屋の場所を聞いて街をうろうろするほうが、あたしたちには向いていた。

 港の街の鶏小屋は、市場の裏にあった。青い海の画面と、焼き魚の看板と、鶏小屋の木柵が、仲良く同じ路地に詰め込まれている。白い羽根が風に舞って、足元を転がる。ニワトリは、どういう設計なのか、近づくと必ず一歩だけ逃げる。一歩だけなので、こちらも一歩進む。するとまた一歩逃げる。気づけば、なでるつもりが、街の端まで追いかけっこになっていた。

「これ、百回なでるより、百回逃げられる称号のほうが先に取れそうです」

「『鶏に嫌われし者』」

「ほしくないです」

「でもレアっぽいよ」

「ほしくないです」

 あたしが一羽ずつ、しゃがんで、そっと背中をなでる。羽根は画面越しなのに、ふわっとした光り方をした。なでられた鶏の頭上に、小さな音符が出る。狸はその音符を見て、まねをして、勢いよく手を伸ばした。

 鶏は、横に跳んだ。

 狸の手は、たまたま近くにいた別の鶏の首に当たった。

 ころん、と鶏肉とりにくが落ちた。

「たぬさん」

「待って。いまのは事故。俺は友好的な手を差し伸べただけ」

「鶏さんは、そう受け取らなかったようです」

 そういう日だった。そういう、だいたい役に立たないことで一時間が溶ける日だった。

「レナちゃん、取れた!? 『鶏の友』!」

「取れました! ニワトリを百回なでました!」

「よーし、俺も……あ、だめだ、俺なでる前に絞めた回数のほうが多いから『鶏の敵』になってる」

「たぬさん……」

 鶏の敵。ひどい称号もあったものだ。狸はしばらく落ち込んで、それから開き直って、その称号をつけて歩いた。港の食堂のおばちゃん(のNPC)に見せたら鶏肉をおまけしてくれたので、実利はあった。

 午後は、釣り竿を持って防波堤に座った。

 釣りは、戦闘よりむずかしい。少なくとも、狸はそう主張していた。

「見て、レナちゃん。魚はね、殴れないんだよ」

「たぬさんは、だいたいの問題を殴ろうとしますね」

「殴れない敵は強敵」

「魚を敵にしないでください」

 竿先の浮きが、青い海に小さく揺れる。遠くで帆船はんせんが行き来して、波止場の柱に海鳥が並んでいる。あたしの隣では、狸が真剣な顔で浮きを見つめていた。戦闘中より真剣だった。たぶん、魚のほうが読めないからだ。

 釣れた魚は、半分を料理人のナナシに渡して、半分を談話室に持って帰った。談話室には、あたしたちが寄贈した観葉植物のほかに、いつのまにか狸の釣った長靴が飾られていた。誰かが勝手に札をつけている。

 狸氏、海より靴を得るえる。

「捨てましょう」

「待って、レナちゃん。これはもう家具だよ。俺たちの冒険の証」

「長靴がですか」

「長靴が」

 夜、観葉植物に水をやって、長靴の向きをなおして、串焼きアイテムを使った。日記には、鶏のこと、魚のこと、狸が長靴に尊厳を見出したことを書いた。たぶん、強くなる話ではない。けれど、ページはすぐに埋まった。

 夜は、たまり場で料理を並べて、気が済むまでおしゃべりしたら、解散。それだけの毎日だった。

 それだけの毎日が、どれくらい上等なものだったか。あたしはこのあと、いやというほど知ることになる。

 ——変化は、装備から始まった。

 あたしたちのレベルは、七十を超えていた。日課をこつこつ回していれば、レベルはちゃんとついてくる。この世界はそういうふうにできている。問題は、レベル七十台の装備だった。

「……たぬさん。あの、これ、お店の人が出し間違えたと思うんです」

「どしたの」

「レベル七十二の、祈り手の正装、って書いてあるんですけど……布が、たりません」

 鏡の中のあたしは、たいへんなことになっていた。肩は出る。背中は開く。お腹の横は、どうしてだか、ひし形に切り抜かれている。丈の短いスカートの横に、意味の分からない鎖。これで「正装」。しかも性能は、いままでのローブの倍。

「あー、これね。高レベル装備ほど布が減る法則。この世界の七不思議」

「どうしてですか!?」

「偉い人いわく、『強さの証は、素肌で防御を語れる余裕』なんだって」

「語れません! あたしの素肌は無口です!」

 結局あたしは、その正装の上から、旅用の白いマントをすっぽりかぶった。フードまでかぶると、鏡の中に、まるっこい白い影ができた。

「……レナちゃん、それ、てるてる坊主」

「てるてる坊主でいいです。あした天気にしてやります」

 てるてる坊主の中身の話も、ひとつしておく。ある晩、狸が例のにやにや顔で言ったのだ。

「しかしあれだね、正装のレナちゃん、その、おっきいよね。むね。ぐへへ」

「まあ、偽乳ぎにゅうですけど?」

「ぎにゅう」

「この世界の身体は、そういうふうに『盛って』あるんです。ほんもののあたしは、もっとつつましいです。……なんですか、その顔」

「いや、堂々としてて、いっそ清々しいなって」

 盛られた分は、あたしのものじゃない。あたしのものじゃないものを、恥ずかしがるのも自慢するのも、なんだか違う。だからあたしは、この話題ではぜんぜん動じない。動じないでいられることが、のちのち、思わぬところで役に立つ。

 ——さて。困りごとは、装備のあとにやってきた。

 レベル八十で受けられる「上級試験」。それに挑む前の、腕試しの狩場でのことだ。砂漠のふちの、蠍と大蜥蜴の谷。あたしたち二人には、少し背伸びの狩場だった。

 そこで、あたしの回復が、追いつかなくなった。

 最初におかしいと気づいたのは、一匹目の蠍を倒したあとだった。

 砂漠の谷は、遠くから見ると、赤い岩肌に日差しが照り返す、きれいな場所だった。近づくと、足元の砂が深くて、歩くだけで速度が落ちる。岩の影には大蜥蜴が腹ばいになっていて、尻尾だけを砂の上に出している。尻尾を踏むと跳ね起きる。踏まなくても、狸は踏む。

「いまのは罠だよね」

「ただの尻尾です」

「罠っぽい形をしてた」

 大蜥蜴の突進を、狸が剣で受けた。あたしはユカちゃんを呼んで、狸の身体の外側に、薄い緑の膜を重ねる。いつもなら、それで一呼吸ぶんの余裕ができる。タマちゃんの蔓が足元に広がって、傷を少しずつ縫い、狸が笑って「いけるいける」と言う。

 その日は、膜が割れる音のほうが、タマちゃんの光より早かった。

「あれ」

「たぬさん、下がって!」

「下がりたいんだけど、砂が、砂が俺を離してくれない」

 狸の足元が、砂に沈む。蠍の尾が横から伸びて、剣の上をすべって肩を刺した。状態異常の紫の小さな印が、狸の名前の横に灯る。あたしは解除の祈りを唱えた。唱え終わる前に、大蜥蜴の二匹目が岩陰から出てきた。

 ユカちゃんをもう一度呼ぶ。薄い膜。すぐ割れる。タマちゃんの癒やし。遅い。あたしの手元の魔法一覧は、光っているものが少なかった。強くなったはずの祈りは、こういう乱暴な数の前で、思ったより融通がきかなかった。

「ポーション飲みます!」

「飲む! ……あ、これ最後だ」

「最後!?」

「昨日、釣り餌つりえさを買いすぎた」

「魚より命です!」

「その通りすぎる」

 狸が最後のポーションをあおった瞬間、蠍の針がまた光った。あたしは氷を足元に張って、蠍をすべらせる。すべった蠍に大蜥蜴がぶつかり、岩に頭をぶつけた。ふだんなら笑うところだった。けれど、あたしたちは笑う余裕もなく、谷の入り口へ走った。

 逃げながら、狸が何度も振り返る。敵の注意を自分へ引きつけて、遅いあたしを先に逃がすためだ。あたしは、遅い癒やしを重ねる。間に合わない祈りを、間に合わないと分かっていて唱える。

 谷の外へ転がり出たとき、狸の残り体力は、ほんの細い赤い線だった。

 街へ戻るまで、あたしの癒やしは一度も傷に追いつかなかった。ほうほうのていで談話室へたどり着いて、あたしは自分の魔法の一覧を、ながいこと見つめた。

 中級の司祭さまの言葉を、思い出していた。

 ——道を選ぶとは、選ばなかった道を手放すこと。あなたの祈りは深くなるが、狭くもなる。いつか、それを思い知る日が来るでしょう。

 あたしの祈りは「備え」の祈りだ。時間をかけて、死なない身体を組み上げる。そのかわり、浅く速い癒やし——次から次へ傷が来る狩場で求められる、ぱっと傷を消す力を、あたしは精霊使いへ進むときに手放していた。

 二人きりの旅は、レベル八十の壁の前で、はじめて、本当に詰まった。

「んー。……まあ、あれだね。ちょっと、人手がいるね」

「はい。……ヒーラーさんが、いれば」

 その言葉を、待っていたみたいな間合いで、その人は現れた。

「あっれー? 二人とも、こんなとこで悩んでるの?」

 白レースのコルセットの人——コルセットさんが、音使いさんを連れて、噴水のふちに座っていた。

「聞いたわよ、砂漠で詰まってるんだって? だっっから言ったのに、アタシがまた誘ったげるって。……ヒーラー、要るんでしょ?」

 ——最初の何日かは、正直に言えば、助かった。

 コルセットさんの回復は、圧倒的だった。あたしが三十秒かけて組む備えを、この人は三秒の閃きで上書きする。ユカちゃんを呼ぶより先に狸の傷が消え、タマちゃんが蔓を伸ばすころには、狸はもう次の敵を殴っている。音使いさんの歌は、剣と祈りをほんの少し軽くして、砂漠の谷の敵がみるみる溶けた。

「ね? こういうことなのよ。役割って、噛み合うと楽でしょ」

「はい。すごいです」

「すごいのは当たり前。すごくなるように組んでるんだから」

 コルセットさんは、あたしの立ち位置まで直した。そこだと回復の線が通らない。半歩右。敵を引きすぎ。狸を見すぎ。自分の体力も見なさい。指示は正しかった。正しいから、返事をするしかなかった。

 音使いさんは、正しさに飽きると、あたしに皮肉を投げた。

「君、精霊に名前つけるタイプなんだ。ユカちゃん、タマちゃん。かわいいね。次はポチかな」

「ポチは、火の精霊にいいかもしれません」

「……いや、採用しなくていいです」

「では、候補に入れておきます」

 コルセットさんが小さく笑った。

「この子、ほんっと、刺さらないわねえ」

 刺されていないわけではなかった。ただ、刺されたことに気づく場所が、少しずれていたのだと思う。音使いさんの嫌味より、谷の敵が倒れる速さのほうが、ずっと大きかった。速い。速いけれど、見ている景色の輪郭が、どんどん薄くなる。敵の名前も、岩の形も、夕日の色も、日記に書くまえに過ぎていく。

 二日目には、コルセットさんがスタミナ回復の薬を取り出した。

「はい、飲んで。まだいけるでしょ」

「でも、今日はもう、日課も——」

「日課なんてあとでいいの。いま効率が出てるんだから。効率出てるときに止まるの、いちばんもったいないわよ」

 薬を使うと、桃色の光が喉元から胸へ落ちるエフェクトが出た。疲労の印が消える。消えたから、まだ戦える。戦えるから、止まる理由がなくなる。

 助かった。助かったのだ。助かったはずなのに——狩りを終えるたび、あたしの日記のページは、また白くなっていった。

 狩場は、コルセットさんが決める。時間も、コルセットさんが決める。休憩の長さも、あたしの装備も(「てるてる坊主は効率が悪いわ。マント脱ぎなさいよ、せっかく盛れてるのに」)、ぜんぶ。

 そして、狸の扱いが、目に見えて雑だった。

「たぬきはさあ、まだレベル足りてないんじゃない? 悪いけど、今日の谷は連れてけないわ。足手まといになっちゃうと、可哀想だし」

「あー……うん、そだね。じゃ、俺、日課やっとくよ。レナちゃん、いっといで」

 いつかの、あの言い方だった。へらりと笑う、うまい笑い方。

 あたしは、思い出していた。ひと月まえ、この人は言ったのだ。狸さんは強いから、少しくらい引き離してもすぐ追いつく、と。あのときの口が、いまは、足手まとい、と言う。強い、も、弱い、も、この人の口の中では、たぶん同じ用途の道具なのだった。そのときどきで、あたしと狸を切り分けるための。

 あたしは狩場で経験値を積みながら、窓ぎわの指定席にひとりで座る狸のことばかり、考えていた。

 その夜、たまり場に戻ると、狸は本当に窓ぎわにいた。

 テーブルの上には、焼き魚が二皿と、冷めたスープが二つ。それから、長靴の下に敷くための小さな木の台が置いてあった。家具職人のナナシに頼んで作ってもらったらしい。長靴は、もう壁際の飾り棚から、独立した展示品に格上げされていた。

「おかえり、レナちゃん。今日、長靴に台座ついたよ」

「ただいまです。……長靴、出世しましたね」

「うん。俺たちより先に幹部になるかも」

 狸は、いつもと同じ調子で言った。言ってから、あたしのレベル表示を見て、ほんの一瞬だけ、目を細めた。

「上がったねえ」

「はい」

「すごい」

「……すごい、でしょうか」

「数字はすごいよ」

 数字は、という言い方だった。

 あたしは椅子に座って、焼き魚をつついた。冷めた魚は、味がしなかった。もちろん、この時代の食事は味を再現しない。味がしないのは、仕様だ。なのに、その夜だけは、味がしないことが、妙にさびしかった。