カードアース
レナティア編 第五章 斜陽(2/3)
「たぬさんは、今日は何をしてました?」
「日課。あと、薬草を摘んで、港の迷子猫を三匹捕まえて、鶏に嫌われて、釣りで木箱を釣った」
「木箱」
「中身は空。夢がない」
「日記に書けますね」
「書ける。木箱、空。俺、泣く。三行いける」
狸は笑った。あたしも笑おうとした。けれど、その日あたしが日記に書けることは、レベルが上がった、敵をたくさん倒した、コルセットさんがすごかった、くらいしかなかった。三行にしても、同じ意味だった。
寝る前に日記を開いて、指が止まる。
今日の狩りは、速かった。
そこまで書いて、消した。速い、だけでは、何も残らない。砂漠の谷の夕日も、蠍の尾の光も、音使いさんの歌の旋律も、思い出そうとすると、全部が同じ色に混ざっていた。あたしは結局、こう書いた。
今日は、レベルが上がりました。
その一行だけが、白いページの上に、ぽつんと残った。
次の日も、その次の日も、似たような夜が来た。狸は待っていた。待ちながら、長靴の横に釣り竿を飾り、鶏の敵の称号を磨き、知らないナナシに「お前の相方、最近すごいな」と言われて、へらりと笑った。
「うん。すごいんだよ、レナちゃん」
あとで聞いた話では、そのたびに狸はそう答えていたらしい。
あたしは、その「すごい」が、すこしずつ重くなっていくことに、まだ気づかないふりをしていた。
「ほらほら、レナティアちゃん、ぼーっとしない。次、湧くわよ」
「……はい」
「返事は元気よく! ね、アタシといると、はかどるでしょ?」
はかどる。はかどるって、なんだったろう。
——アンデッドの狩場に連れて行かれたのは、その次の週だった。
古い戦場の跡。骨の兵隊と、さまよう鎧が、霧の中から際限なく湧く場所。経験値の効率は、砂漠の谷の倍。そのかわり、と、音使いさんが薄く笑った。
「ここ、精霊魔法との相性、最悪なんだよね。土地が死んでるから、精霊の乗りが悪い。……君の魔法、ここじゃ半分も出ないよ。知ってた?」
知らなかった。知らないままに連れてこられて、そして、あたしの役割は決まっていた。
「レナティアちゃんは、釣りやって」
「つり?」
「敵をまとめて引っ張ってくる係。ぐるーっと走って、骨たちを集めて、こっちに連れてくるの。あとはうちらが焼くから。ね、簡単でしょ」
簡単では、なかった。
精霊の力が半分しか出ない土地で、たったひとりで骨の群れの前に立つ。ユカちゃんの備えは薄く、タマちゃんの癒やしは遅く、あたしは、何度も、囲まれた。
一回目は、まだ「失敗」と呼べた。
霧の中に、折れた槍が立っている。それを目印に走って、骨の兵隊を三体だけ引く。三体なら、と思った。戻る途中で、霧の奥から、さまよう鎧が二体、のそりと混ざった。鎧は足が遅い。遅いけれど、腕が長い。背中を叩かれ、足が止まり、その足元に骨の剣が集まる。
「レナティアちゃん、そこで止まらない! こっち、こっち!」
「はい!」
返事をしたときには、もう遅かった。画面の端が赤く染まり、ユカちゃんの膜が紙みたいに裂けた。タマちゃんの蔓は、泥の上で黒ずんでいた。土地が死んでいる、という音使いさんの言葉が、急に実感になった。
二回目は、工夫した。
折れた槍ではなく、倒れた荷車まで回って、敵をばらけさせてから戻る。骨の兵隊は段差でひっかかる。鎧だけが先に来る。なら、先に鎧を——と思ったら、荷車の下から骸骨犬が出てきた。犬は速い。速いし、小さいし、足元で噛む。
「わんこは聞いてません!」
「聞かれる前に出るのが敵だからねえ」
音使いさんの返事だけが、妙にはっきり聞こえた。
三回目は、もう失敗ではなく、手順だった。
釣る。囲まれる。耐える。戻る。間に合わなければ死ぬ。復活地点から戻る。復活酔いのまま、もう一度釣る。コルセットさんは、最初だけ「ごめんね」と言った。次に「気をつけて」と言った。その次は「次」とだけ言った。
一度目に死んだとき、コルセットさんは「ごめんごめん、回復遅れちゃった」と笑った。
二度目は「あんた、走るの下手ねえ」と笑った。
三度目からは、もう、何も言わなかった。
死ぬと、身体に「復活酔い」が残る。視界がゆがんで、足がもつれて、魔法の出が鈍くなる。抜けるまで、しばらくかかる。その状態でまた「はい、次、釣ってきて」と送り出される。霧の中を走りながら、あたしは、ゆがんだ視界のすみで考えていた。
復活酔いの視界では、世界の輪郭が水に沈んだみたいに揺れる。骨の白さだけが、やけに強く浮く。あたしの足元の泥に、前に死んだときの倒れた跡が残っている気がした。もちろん、そんな跡は残らない。ゲームの世界は、都合よく片づく。片づくから、同じ場所で何度でも死ねる。
「今度は西側を大きく回って。湧きがいいから」
コルセットさんの声が、だんだん、地図を読む声になっていった。人に話しかける声ではなく、道具を置く場所を決める声。
「あ、左、追加」
「はい」
「違う、そっちじゃない。……もういい、死んで戻って」
死んで戻って。
言葉としては短い。短いぶん、まちがいようがなかった。
音使いさんは、霧の端で歌いながら、こんなことを言った。
「すごいね。君、失敗しても空気が重くならない。普通、ここまで死ぬと誰か落ちるんだけど」
「落ちたら、みなさん困りますか?」
「困るというか、効率が落ちる」
「では、落ちません」
「……そこ、まじめに返すんだ」
音使いさんは苦笑した。あたしは、まじめに返したつもりだった。困らせたくなかった。効率を落としたくなかった。けれど、その「困らせたくない」は、いつのまにか、遊んでいる人の気持ちではなくなっていた。
これは、狩りなんだろうか。
あたしの経験値は、たしかに増えていた。死んで、減って、それでも釣った獲物のぶんで、差し引き、増える。レベルの数字だけを見れば、あたしは毎日「強く」なっていた。中身のともなわない、盛られた数字。この世界の身体と、おんなじだ。ただ、胸の偽乳は笑えたのに、レベルの偽乳は、ちっとも笑えなかった。
「ほらあ、また死んだ。……ねえ音使い、あの子、囮の才能だけはあるわよねえ」
「才能っていうか、死に慣れてきてるだけでは。ある意味、成長ですけど」
二人の笑い声が、霧の向こうで聞こえた。
——その帰り道の噴水前で、コルセットさんは、あたしに「親切」をひとつ、くれた。
「あ、そうだ。レナティアちゃん、これ見た?」
差し出された画面には、匿名掲示板、と呼ばれるものが映っていた。あたしが直接は見に行かない、外の世界の板。
「読んだげるね。えーと——『二鯖の名前つき女、まだいるの?』『目立ちたがりが囮やらされてて草』『あれ絶対おっさんだって』——だって。やあねえ、匿名って」
「…………」
「ね、レナティアちゃん。名前、ナナシにしちゃいなよ。そしたらこういうの、書かれなくなるからさ。アタシ、あんたのためを思って言ってんの」
あたしのために。
あたしは、ゆがみの残る視界のまま、まっすぐコルセットさんを見た。それから、生まれてはじめて、この人の言葉を、正面から断った。
「——いやです」
「……は?」
「名前は、変えません。それから、掲示板を読み上げるの、やめてほしいです。あたし、あれを読まないって、自分で決めてるので。読まないものを、耳から入れられるのは、いやです」
コルセットさんの顔から、すうっと、表情が引いた。
最初に会ったときに一度だけ見た、値踏みの目が、そこにあった。値踏みして、今度は——値切りに失敗した顔を、した。
「……ふうん。そう。よかれと思って言ったのに。……ま、いいわ。あんたがどうなっても」
その日から、コルセットさんの「親切」は、来なくなった。
かわりに来たものの話を、次にする。
——数日後の談話室で、ナナシたちの吹き出しが、妙なざわめき方をしていた。
ざわめきには、前兆があった。
最初は、ただの「ウザい」だった。
「あの名前つき、またてるてるで歩いてる」
「目立つんだよな」
「でもバフくれるぞ」
「じゃあ、ちょっとだけ許す」
次の日には、いじりに変わった。
「てるてる、今日、雨止めて」
「できません」
「できないのかよ」
「あしたなら、がんばります」
「天気予報か」
あたしが市場を歩くと、知らないナナシが「おはてる」と言った。挨拶なのか、あだ名なのか、悪口なのか、判断に困ったので、とりあえず「おはようございます^^」と返した。相手は、しばらく黙ってから「返すんだ」とだけ言った。
そういう曖昧な距離が、あたしには、少しだけ楽だった。近すぎない。けれど、石を投げられているわけでもない。ナナシの海は、いつも黒く見えるわけではない。小さな吹き出しが、潮の泡みたいに、ふっと出て、ふっと消える。
「なあ、掲示板見た? 例の、名前つきの」
「見た見た。『あいつ、中身は男だよ。知り合いだから知ってる』ってやつでしょ」
「まじかよ。オッサンだったのか」
「証拠は? って聞かれて、『見れば分かる』だってさ」
出どころの分からない(分かるけれど)書き込みが、板に落とされたのだった。名前を出して、女です、と生きているあたしへの、いちばん安い牽制。……あとから思えば、あれはあたしへの意地悪というより、「値打ちを下げておく」ための、手際のいい仕事だったのだと思う。
狸は、めずらしく本気で怒った。
「レナちゃん、これ、ひどいよ。反論しよ? 俺、書き込み方調べる」
「たぬさん」
あたしは、串焼きの食事モーションをしながら、首を横に振った。
「あたし、たしかに、おっさんかもしれませんよ?」
「……へ?」
「だって、証明できないですし。あたしが女の子だってこと、この世界の誰にも。……でもそれ、偽乳と同じです。ほんとかどうかを騒ぐほうが、負けなんです。あたしはあたしで、レナティアはレナティアです。それでおしまい」
「…………レナちゃんは、つよいねえ」
「つよくないです。慣れました。ほら、あたし、名乗った日から、ずっと言われてますから。最初は『ウザい』で、つぎは『写真見せろ』で、こんどは『おっさん』です。……ふふ。だんだん、雑になってきてます」
実際、板の祭りは、三日も、もたなかった。
あたしが動じないからだ。反論もしない。証明もしない。いつもどおり日課をやって、いつもどおり挨拶をして、いつもどおり、てるてる坊主で歩いている。燃やす燃料を、あたしは一滴も出さなかった。
しまいには、談話室の吹き出しが、こう言った。
「例の男疑惑、どうなったの」
「どうもなんも。本人、ふつうに薬草摘んでたわ」
「またあのオッサンか。……もういいだろ、あのオッサンは、ああいう生き物なんだよ」
「オッサン呼び、定着してて草」
「悪口っていうか、もう、あだ名だなあれは」
あのオッサン。ひどい呼ばれようである。ひどい呼ばれようなのだが——その響きには、もう、棘がなかった。町内の名物みたいな扱いだった。あたしはナナシの海で、敵ではなく、風景になったのだ。
誰かを引きずり下ろすための書き込みは、引きずり下ろしたい誰かが「上」にいないと、成立しない。あたしは上にいない。ただ、いつもの場所に、いつもどおりいるだけ。……コルセットさんの手際のいい仕事は、それで、空を切った。
——そして、狸の話をしなければならない。
この章のほんとうの主役の話を。
あのアンデッド狩場の日々のあいだ、狸のレベルは、上がり続けていた。
からくりは単純だ。あたしが釣って、死んで、経験値を落とすあいだ、パーティーの討伐ぶんの経験値は、生きている側に入り続ける。コルセットさんはときどき、思い出したように狸を狩りに混ぜた。「ほら、たぬきも来なさいよ。あの子が釣るから、あんたは殴るだけでいいわ」——狸が殴り、あたしが死に、狸のレベルが上がる。
レベル七十八。七十九。そして、八十。
上級試験に手が届く高さまで、狸の数字は、押し上げられていた。狸は、その数字の話を、一度もしなかった。試験の話も、一度も。
あたしが気づいたのは、深夜のことだ。眠れなくて、たまり場に戻ったら、窓ぎわの指定席に狸がいなかった。友達帳を開く。所在——古い戦場跡。あの、アンデッドの霧の中に、ひとりで。
駆けつけたあたしが見たのは、奇妙な光景だった。
狸が、骨の群れのまんなかに、棒立ちしていた。
避けない。ポーションも飲まない。剣も抜かない。囲まれて、削られて、倒れて——復活して、また、群れのまんなかへ歩いていく。
「たぬさん!? なにして——」
「……あ。レナちゃん。見つかっちゃった」
狸は、てへ、と笑った。てへ、じゃない。
「なにしてるんですか! 死んでます! さっきから、何回も!」
「うん。レベル、下げてるの」
……この世界では、死ぬと経験値が減る。減りすぎると、レベルそのものが下がる。狸は、それを、わざと繰り返していた。八十まで盛られた数字を、一段ずつ、自分の手で崩していた。
「どうして……どうしてですか! せっかく、上がったのに! 試験だって、受けられるのに!」
「うん。せっかく上がったんだけどね」
狸は、霧の中で、いつもの間延びした声のまま、言った。
「——こんなことで上がったレベルは、いらないんだ」
あたしは、何も言えなかった。
「あのね、レナちゃん。俺、ずっと考えてたんだ。あの狩場で、レナちゃんが走って、囲まれて、倒れるたびに、俺の数字が増えるの。……あれ、俺、一回ごとに、自分がきらいになる音がしたんだよね。ぴこん、って。経験値の音って、あんなに嫌な音だったんだなあ」
「たぬさん……」
「コルセットはさ、昔っから、ああなんだよ。人を、強いか弱いかで棚に並べるの。で、俺は、弱いほうの棚。ずーっとね。それは別にいいんだ、事実だし。……でも、あの子の棚の並べ方に付き合ってると、俺まで、レナちゃんを数字で見そうになる。それが、いちばん、いやだった」
狸は、骨の兵隊をひらりとかわして——今度はちゃんとかわして——あたしの前に立った。
「だから、降りる。コルセットの狩りからも、棚からも。……レナちゃん、俺と、ここから上り直そう。日課で。ゆっくり。寄り道しながら。俺たちの上り方で」
狸のレベル表示は、七十五で止まっていた。あたしと、おんなじ高さ。
あたしは、うなずいた。うなずいて、それから、霧の中なのをいいことに、ちょっとだけ泣いた。てるてる坊主のフードは、こういうとき、便利だった。
——コルセットさんとの、直接の幕引きは、あっけなかった。
数日後の噴水前。「気が変わった? また詰まってるんでしょ」と寄ってきたコルセットさんに、狸は、いつもの調子のまま、はっきり言った。