カードアース
レナティア編 第六章 黄昏(1/3)
レナティア編 第六章 黄昏
秋の話から、始めさせてほしい。
まだ、なにもかもが平和だった頃の話だ。
その年の収穫祭は、当たり年だった。コーベの港に何十という屋台が出て、山の段々畑からは新酒と焼き栗が届き、たまり場の談話室は連日、祭りの戦利品の持ち寄り会場になった。
戦利品、と言っても、半分は食べ物アイテムで、半分は「どうして買ったんですか」と聞きたくなる飾りだった。麦の穂で編んだ冠。南瓜をくり抜いた灯り。山羊乳の石けん。巨大な木べら。狸は木べらを見つけるなり、真顔で言った。
「レナちゃん、これ、武器にならないかな」
「なりません」
「でも、敵を叩いたら、いい音しそう」
「戦闘を楽器にしないでください」
屋台の焼き栗は、ほくほくと甘かった。そして袋の底に、必ず一つだけ黒いものが入っていた。仕様なのか偶然なのか分からない。狸はそれを「当たり」と呼び、あたしに押しつけた。あたしは黒い栗を、ロロさんに押しつけた。ロロさんは「マスターは全部受け止めるものだからね」と言って使用し、三秒後に苦い顔のエモートを出して水場まで走った。
持ち寄り会の料理台では、毎晩なにかしら事件が起きた。新人のひとりが「香辛料を入れると高級っぽい」と言って、すべての鍋の見た目を赤くした。別の新人は、魚を焼くつもりで干物をさらに干し、板みたいなオブジェクトを作った。誰かがそれを談話室の飾り棚に立てかけたら、倉庫番さんが「食品を備品に混ぜない」と即座に没収した。
「これは食品ですか?」
「元は食品です」
「元は、という分類はありません」
そんな声が、祭りのあいだ、毎晩聞こえた。
あたしと狸は、幹部として——というのは建前で、九割は趣味として——新人歓迎会の幹事をやっていた。
「はい、新人さんはこっちのテーブルー。串は一人三本まで! 栗は……栗はまあ、無限にあるので好きなだけ」
「レナティアさん、この帳面、なんですか?」
「ともだち帳です。書きたい人だけで、いいですよ。この島、そういうのを気にする人が多いので……あ、でも、ギルドの連絡網には入ってくださいね。迷子になったとき、拾いに行けるので」
新人は、月に十人も二十人も入ってきた。うちの巣は、この島でいちばん大きくて、いちばん敷居が低い。掲示板で燃えて焼け出された人も、他所の島から流れてきた人も、今日はじめた人も、看板の下をくぐれば「ただいま」と言っていい。それがロロさんの決めた、たったひとつの家訓だった。
歓迎会で最初にやるのは、自己紹介ではなかった。
自己紹介は、みんな苦手だからだ。名前を名乗りたくない人が集まる島で、「では順番にお名前を」は、だいぶひどい。だからロロさんは、いつも大皿の前に立って言う。
「はい、まず食事モーション! 口が動いてるあいだに、言いたいことだけ言う! 職業でも好きな屋台でも、昨日落としたアイテムへの恨みでもいいよ!」
食事モーションというのは、器をかかえて口をもぐもぐさせ続ける、あの長いやつだ。一皿ぶん勝手に動きつづけて、チャットを打っても止まらない。つまりアバターの口がふさがっているあいだは、何を書いても「食べながらの独り言」ということにしてもらえる。あらたまった自己紹介ではなく、もぐもぐの余白に、ぽろりとこぼす。ロロさんの発明だった。
すると、不思議と誰かが喋り出す。
「昨日、最初の洞窟で迷いました」
「あそこは全員迷う。歓迎だね」
「スキル振りを間違えた気がします」
「まだ取り返せる。だいたい三十までは人生じゃない」
「栗を五百個買いました」
「それは取り返せない。配ろう」
そうして話が転がりはじめると、あたしと狸の仕事が始まる。迷った人には地図に印をつけ、スキル振りで泣きそうな人には同職のナナシを呼び、栗五百個の人には皿を配る。誰も名前を覚えない。けれど、誰が何で困っているかは、みんな少しずつ覚える。
ある新人は、初日に荷物を持ちすぎて、談話室の入り口で動けなくなった。重量制限というものを知らなかったらしい。本人は無言で、吹き出しに「たすけて」とだけ出した。狸が駆け寄り、荷物を一つずつ受け取った。
「石、石、石、石……なんで石こんなに持ってるの」
「売れるかと思って」
「売れない石もあるんだよ。人生の序盤は、だいたい売れない石を拾う」
「深いですね」
「いや、浅いよ。ダンジョンの序盤で拾う石だけに」
あたしが笑うと、その新人も、吹き出しに小さく「w」と出した。そういう瞬間が、うちの巣にはたくさんあった。名前のない人が、ちょっとだけ輪郭を持つ瞬間。ロロさんはそれを見つけるのがうまかった。
「おかえりー! ようこそCE7743へ! 俺がマスターのロロだよー」
ロロさんは歓迎会のたび、全員と乾杯して回った。回りながら、新人ひとりひとりの名前(ナナシだけれど)と職業と好きな屋台アイテムを聞いて、ぜんぶ覚えた。あの人のそういうところを、あたしはずっと、すごいと思っていた。
宴の締めは、いつも同じだ。ロロさんが談話室の隅のスウィートちゃんの前に立って、今日もがんばったなあ、と自分を褒める。スウィートちゃんは、たまーに「おつかれさま」と言う。ほんとうに、たまにだ。
「ロロさん、今日は喋りませんでしたね、スウィートちゃん」
「うん。でもそれでいいの。たまに喋るから、ありがたいんだよ。毎日聞けたら、褒美じゃなくて日課になっちゃうでしょ」
「ふふ。なんですか、それ」
なんですかそれ、と笑ったこの理屈を、あたしはのちのち、いろんな場面で思い出すことになる。
そのころの倉庫番さんのことも、ここに書いておく。
倉庫番さんは、古参のナナシだった。名前は最後まで知らない。けれど、たまり場の誰もが「あの倉庫番さん」と言えば通じた。ギルド倉庫の鍵を預かり、棚の位置と中身を、全部、頭に入れている人だ。
「釘は?」
「東棚三段目、右から二箱目。細釘が百二十七、本。太釘が四十一。本当は四十二だったけど、昨日ロロが看板を直すのに一本持っていきました」
「ロロさん、返してないんですか」
「返す釘という概念があるなら返してほしいですね」
倉庫番さんは、几帳面で、口うるさくて、でも意地悪ではなかった。新人が装備を借りに来ると、目的を聞き、レベルを聞き、返却期限を書かせて、ついでに「この盾は見た目より重いから、階段で転ぶ」と注意してくれる。実際、その盾を借りた新人は、階段で転んだ。
「どうして分かるんですか」
「これまでに五人転びました」
「統計ですね」
「経験です」
収穫祭の最終日、あたしは倉庫番さんといっしょに、持ち寄り品の片づけをした。焼き栗の袋が二十七。使い残しの紙皿が六百枚。誰かが買った巨大木べらが一本。狸がまだ諦めていなかったので、倉庫番さんは木べらに札をつけた。
調理器具。武器としての持ち出し不可。
「たぬさん、だめだそうです」
「札に書かれたら、もうだめだねえ」
倉庫番さんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「物には場所があります。場所を決めておけば、なくなったときに分かります。人も、まあ、似たようなものです。いつもの場所にいる人がいないなら、誰かが気づかないといけない」
あたしはその言葉に、はい、と返事をした。
返事をしたくせに、あたしはこのあと、その人がいつもの場所から消えたことに、すぐには気づけなかった。
——さて。
あの人が来た日のことを、書かなくてはいけない。
冬の入口の、よく晴れた昼だった。噴水前の広場で、ロロさんが誰かと立ち話をしていた。それ自体は、めずらしくもない。ロロさんは巣のマスターで、立ち話が半分仕事みたいな人だ。
めずらしかったのは、ロロさんの立ち方だった。
背筋が、伸びていた。両手が、行き場をなくして袖の横に揃っていた。あの、へらへらと軽薄で、誰にでも「キミ」と言うロロさんが——かしこまっていた。
相手は、なんの変哲もない冒険者に見えた。頭の上はナナシ。装備は、始めたばかりみたいな初期装備。背は高くも低くもなく、顔立ちは……思い出せない。ほんとうに、思い出せないのだ。何度か見たはずなのに、あの人の顔を、あたしはいまでも描けない。
「——ん、レナティアさん! ちょうどいいところに」
ロロさんが、あたしを手招きした。
「紹介するよ。俺の、その、前の時代からの知り合いでね。このたび、うちに入ってくれることになった。……影さん、って呼んでる。俺だけの、あだ名だけど」
影さん、と呼ばれたその人は、あたしを見て、ちいさく会釈をした。
「よろしく」
声は、低くも高くもなかった。それだけだった。それだけの挨拶で、その人は噴水前から立ち去った。ログに、一行だけ流れた。
『ナナシが、ギルド「CE7743」に加入しました』
うちの巣には毎日流れる、ありふれた一行だった。
「ロロさん、いまの方は?」
「ん? んー……恩人、かな。俺がこの名前を名乗る前からの」
ロロさんは、それだけ言って、いつものへらへらに戻った。戻ったけれど、その日の締めの「今日もがんばったなあ」を、ロロさんはスウィートちゃんの前で言わなかった。あたしがそれに気づいたのは、ずっとあとになってからだ。
——ここで、あたしの知らなかった話を挟む。
ずっとあとに、本人の口から聞いた話だ。だから、これはロロさんの目で書く。
*
ロロには、板の時代があった。
ゲームを始めるより前。匿名掲示板の、ネトゲの話題の板に、ロロは入り浸っていた。名無しの海の中で、ロロは名前を名乗る側——コテハンだった。目立ちたがりで、口が達者で、祭りがあれば先頭で踊る。板の連中には、愛されもしたし、定期的に燃やされもした。
燃やされたある晩、火消しに現れたのが、影だった。
影は、板の有名人だった。何年も前からいるのに、素性を誰も知らない。書き込みは短く、正確で、そして影が「こうだろ」と書くと、なぜか流れがそうなった。祭りを起こすのも、鎮めるのも、自在。名無しの海の、目に見えない海流みたいな存在だった。
その影が、燃えているロロのスレッドに一行だけ書いた。
『こいつは玩具にするには惜しい。飼っとけ』
火は、その一行で消えた。
以来、ロロは影に、憧れとも恐れともつかない感情を持った。板の片隅で、ときどき言葉を交わした。ロロが「ネトゲで一旗あげたい」と書くと、影は『向いてる』と返した。ロロが「一鯖のタクトって人、美少女プレイヤーと結婚したらしいぜ。俺もいつか、でかいギルド作って嫁を見つける」と書くと、影は『いいんじゃないか』と返した。
そして、新しいカードアースが始まるという夏、影はロロに、一通だけ長い文を寄越した。
『新作に、匿名の島ができる。板の連中が移る。受け皿がいる。——CE7743の看板を、お前が継げ。でかい巣を作れ。誰が来ても、ただいまと言える巣を。俺は、しばらく行けない』
誰が来てもただいまと言える巣。
その言葉は、影がくれたのだ。ロロの家訓は、はじめから、借り物だった。
ロロは島の開門と同時に看板を掲げ、言われたとおりに、でかい巣を作った。影は、来なかった。開門の日にも、正式版の祭りの日にも、収穫祭にも。ひと月経っても、ふた月経っても。ロロは正直、忘れかけていた。ギルマス生活は忙しくて、充実していて、新人は毎月増えて、幹部には自慢の二人ができて、談話室にはスウィートがいた。
だから——開門から四か月目の冬に、初期装備の影が噴水前に立ったとき。
ロロの胸に最初に湧いたのは、警戒ではなく、歓喜だった。
来てくれた。約束の人が、俺の巣を見に来てくれた。俺はこの巣を、あの人に見せるために作ってきたんじゃなかったか——。
その歓喜が、どれほど高い値札のついた感情だったか。ロロが知るのは、まだ先のことだ。
*
——あたしの話に戻る。
影さんの装備が、変わりはじめたのは、加入の翌週だった。
二鯖の都市には、支配ギルドだけが使える修練所と職人窓口があった。といっても、特別に強い装備がただで出るわけではない。素材を持ち込み、金を払い、ギルド単位で予約枠を押さえると、普通より少し早く、少し確実に仕上がる。その程度だ。けれど、その「少し」は、上位のギルドには大きい。都市の看板に名前を出すこと、訓練場の壁にギルド旗を掛けること、倉庫の素材を誰に回すかを決めること。名誉だけの仕組みは、いつの間にか、名誉を守るための会計を生んでいた。
初期装備が、一夜で幹部級になった。その次の週には、うちの倉庫の「ギルドの宝」——歴代の攻略で手に入れた、金庫預かりの最上級装備が、影さんの背中にあった。
最初の貸し出しのときだけ、あたしは倉庫にいた。
幹部の判子が必要だったからだ。倉庫番さんは、いつもの帳面を広げ、影さんを上から下まで見て、なにも言わずに棚の奥へ入っていった。出てきたとき、腕に抱えていたのは、青い布に包まれた剣だった。何度か名前を聞いたことがある。秋の大規模攻略で落ちた、ギルドの記念品みたいな武器だ。
「貸出期間は」
倉庫番さんが聞いた。
ロロさんは、少しだけ笑って言った。
「とりあえず、影さんが使うあいだ」
「期限欄に『とりあえず』はありません」
「じゃあ、未定で」
「未定は返却予定ではありません」
ロロさんは、困った顔をした。影さんは黙っていた。あたしは判子を持ったまま、どうしていいか分からなかった。倉庫番さんはしばらく帳面を見つめてから、貸出期限の欄に、小さく「要確認」と書いた。
「レナティアさん。あなたも幹部なら、あとで確認してください」
「はい」
「あとで、は、いつかではありません」
「はい……」
あたしは、その言葉にも返事をした。
返事だけは、本当によくした。
「マスター権限の貸与だってー」と、事情通のナナシが言った。「マスターの古い恩人なんでしょ? ま、いいんじゃないの、飾っとくよりは」
さらにその次の週、職人通りでも影さんの名前を聞くようになった。
港の北側には、鍛冶屋と裁縫屋と細工師の工房が並ぶ細い通りがある。昼は炉の熱で空気が揺れ、夜は窓の奥で青い火がちらちら光る。あたしは狸の剣の柄を直してもらうために、その通りへ行った。
「また折ったんですか」
「折ってないよ。曲がっただけ」
「剣は曲がったら、だいたい重傷です」
鍛冶屋の前には、見慣れない木箱が積まれていた。金具に商会の印が入っている。大きい。重そう。中から、布ではない、石でもない、もっと冷たいものの気配がした。職人のナナシたちが、箱の周りを行ったり来たりしている。
「影さんの新装備だって」
柄を見ていた鍛冶屋が、世間話みたいに言った。
「新装備? もう、いい剣を借りていましたよね」