カードアース
レナティア編 第六章 黄昏(2/3)
「借り物は借り物。本人に合わせて仕立てるんだとさ。素材がえげつないよ。俺、あの鉱石、図鑑でしか見たことなかった」
「お金、かかりそうですね」
「かかる、っていうか、普通は見積もりの時点で笑って帰る額」
鍛冶屋はそう言って笑った。笑いながら、そこだけ耳打ちに切り替えた。
「まあ、ギルドの仕事だからな。でかいとこは違うよ」
でかいとこ。
うちの巣のことだ。あたしはその言葉に、変な感じを覚えた。CE7743は大きい。大きいけれど、あたしにとっては、窓ぎわの指定席と、長靴の飾り棚と、スウィートちゃんの前で自分を褒めるロロさんのいる場所だった。商会の木箱が積まれ、職人が何日も徹夜するような「でかいとこ」だと言われると、知っている家が急に役所になったみたいだった。
その夜、談話室でロロさんに聞こうとした。けれどロロさんは、影さんと奥の部屋で話し込んでいた。扉の前には、見張りではないけれど、見張りみたいに立っているナナシがいた。
「マスター、いま忙しいって」
「急ぎでは、ないです」
「なら、あとで」
あとで。
倉庫番さんの「あとでは、いつかではありません」という声が、頭の中で小さく鳴った。あたしはその声を聞いたのに、結局、あとでにした。
レベルの上がり方は、もっとすごかった。
この世界には、あとから始めた人ほど早く追いつける仕組みがある。始めて三十日の新兵には大きな追い風が吹き、同じ島で、その週に活動した人たちの到達レベルの中央値より低いほど、さらに風は強くなる。その追い風に、ロロさんと幹部級の護衛つきの、昼夜を分かたぬ狩りが乗った。影さんのレベルは、一週間でうちの中堅を抜き、二週間で幹部に並び、三週間で——この島の、いまの天井が見えた。年明けには天井そのものが上がる、という運営の告知も出ていたから、あの人の登り坂には、この先も終わりがないことになる。
あたしと狸は、一度だけ、その狩りを遠くから見たことがある。
夜の高原だった。ロロさんが釣り、幹部が焼き、コルセ……いや、あの人の話は後でする。とにかく大人数が、たった一人のために、流れ作業で経験値を注ぎ込んでいた。影さんは列の中心で、黙々と、剣を振っていた。表情は、遠くて見えなかった。
それから十日ほどして、もう一度、別の狩場で見かけた。
今度は、黒い湿地だった。腰まである葦のあいだから、泥の腕が伸びてくる場所。そこに、松明を持った一団が、きれいな列を作っていた。先頭が敵を起こす。二列目が足止めする。三列目が焼く。四列目が影さんの前に残った敵だけを流す。あまりに整っていて、狩りというより、工場の見学みたいだった。
影さんの背中には、見覚えのない剣が増えていた。鞘に銀の鎖が巻かれ、柄の先に青い石が埋まっている。見るからに高い。似合う似合わない以前に、値段の気配がする装備だった。
「あれ、先週はなかったですよね」
「なかったねえ。高そう」
「いくらくらいでしょう」
「俺が釣った長靴が、千個くらいかな」
「長靴換算、分かりにくいです」
あたしたちがそんな話をしている間にも、影さんの周囲では、経験値の光が何度も弾けた。光はきれいだった。きれいなだけに、そこに人の表情が見えないことが、少しだけ怖かった。
「……ねえ、レナちゃん」
「はい」
「あれ、楽しいのかなー」
「…………楽しく、なさそうです」
「だよねえ。俺も、そう見えた」
狸は、しましまの尻尾を、ぱたんと一度だけ振った。あの音を、あたしはいつかの深夜の、霧の狩場で聞いた気がした。
それから、独り言みたいに付け足した。
「新品のキャラでさ、履歴もなんにもなくて、いきなりみんなの宝と、巣のお金で作った最強装備で、飛び級で天井まで登るの。……ふつうはさ、恥ずかしくて、できないんだよ、ああいうの。あれができるのは、恥ずかしくない人か——見せたい人だね」
「見せたい、って、何をですか?」
「『どこから来たか分からないのに、いきなり誰より強い人』っていう名刺。……島じゅうに、配ってるんだよ、たぶん」
狸の言い方は、いつもどおり間延びしていた。間延びしたまま、忘れられない言い方だった。
「ま! 人の遊び方に、口は出さない! 帰って栗配ろ、レナちゃん」
「配ります^^」
——そう。あたしたちは、このころ、驚くほど呑気だった。
言い訳をさせてもらえるなら、巣は、表向き、ちっとも変わらなかったのだ。歓迎会は毎週あった。掲示板の依頼は回っていた。あたしの日課も、狸の串焼きアイテムも、窓ぎわの指定席も、ぜんぶいつも通り。マスターの恩人が急に強くなったって、それは、よその家の速い車の話みたいなもので。
ただ、依頼掲示板の色は、少しずつ変わっていた。
前は、いろんな札が混ざっていた。迷子の護衛、薬草集め、釣り大会の人数合わせ、家具職人の木材運び、よく分からない称号の条件検証。くだらない札ほど、狸が食いついた。
「『三日連続で橋の下に座る』称号。レナちゃん、これ行こう」
「三日かかります」
「三日かける価値があるかもしれない」
「称号名は?」
「『橋の人』」
「やめましょう」
そういう札が、少しずつ端へ押しやられた。かわりに、影さんの装備素材を集める依頼、影さんの狩りの護衛、影さんのための職人手配、影さんが使う消耗品の補充、そんな札が中央に増えた。誰かが悪いことをしているわけではない。重要な依頼が中央に来るのは、自然なことだ。強い人をもっと強くするのは、ギルド全体の利益だ、と言われれば、そうなのかもしれない。
でもある日、「橋の人」の札が剥がされているのを見たとき、狸が少しだけ黙った。
「まあ、橋の人は、たしかに要らないんだけどさ」
「はい」
「要らないものが貼ってある場所って、大事だったんだねえ」
要るものだけで埋まった掲示板は、立派だった。立派で、少しだけ、息苦しかった。
「なんか、ギルドの雰囲気、ちょっとヘンじゃない?」と、たまに新人に聞かれた。
「そうですか? ……そうかも、しれません。でも、あたし、楽観主義なので、心配はしないのです^^」
楽観主義。便利な言葉だ。あのころのあたしの楽観は、九割が「見ていなかった」の言い換えだったのに。
最初に変わったのは、挨拶の数だった。
三日前まで、談話室に入ると「ただいま」が三つ重なって、「おかえり」が五つ返ってきた。次の週には、「ただいま」が二つになった。返事は一拍遅れた。さらに次の週には、吹き出しだけが浮かんで、中身が「ノ」になった。手を挙げる記号だけの帰宅。便利ではある。便利ではあるけれど、家に帰ってきた感じは、少し減る。
「最近、みんな忙しいですね」
「年末だからねえ」
狸はそう言った。あたしも、そう思うことにした。
次に変わったのは、噂の置き場所だった。
前は、噂話も談話室の真ん中で転がっていた。「あの狩場まずい」「あの屋台の焼き栗は見た目が黒すぎる」「ロロさんまたスウィートに話しかけてる」。くだらない噂は、くだらないまま、みんなで笑えた。
それが、だんだん壁際に寄った。二人だけの吹き出し。すぐ消える短文。誰かが近づくと、話題が装備の話に変わる。装備の話は便利だ。どんな秘密も、「この鎧、布が少ないですね」で隠せる。
「レナちゃん、今の、なんの話だったんだろ」
「鎧の布の話では、なさそうでした」
「だよねえ」
それでも、あたしたちは通り過ぎた。通り過ぎられてしまうくらい、変化は小さかった。
歓迎会も、なくなったわけではない。
ただ、乾杯の数が減った。ロロさんは毎回ちゃんと回ろうとしたけれど、途中で誰かに呼ばれる。「影さんの狩り、人数足りないです」「素材商人が来てます」「板でまた話が」。ロロさんは「ごめん、すぐ戻る」と言って席を立つ。すぐ、は、だいたい戻らない。
残された新人は、串を持ったまま、どうしていいか分からない顔をした。あたしが代わりに話しかける。
「職業は、何を?」
「盾です」
「いいですね。盾の方は、いつも助かります」
「でも、影さんの狩りには、もう盾足りてるって」
「……そうですか」
「じゃあ、何をすればいいんですかね」
その質問に、あたしはすぐ答えられなかった。前なら、なんでもいいですよ、と言えた。迷子を拾っても、橋の下に座っても、栗を配っても、ここでは居場所になると。けれどそのころの巣では、何をすれば役に立つか、という問いのほうが強くなっていた。
狸が、横から串を一本差し出した。
「とりあえずバフ入れよ。盾は、体力上げないと重いの持てないから」
新人は、少しだけ笑って、串を受け取った。
狸のそういうところは、最後まで変わらなかった。変わらないものがあると、人はそれを灯りだと思う。思うから、まわりの暗さに気づくのが遅れる。
たとえば、あたしは見ていなかった。挨拶の減りかたを。談話室の「ただいま」「おかえり」の間隔が、少しずつ、間遠になっていたことを。
たとえば、あたしは数えていなかった。人を。
「……そういえば、たぬさん。倉庫番さん、最近見ませんね。ほら、巣の物品をぜんぶ諳んじてる、几帳面な」
「んー? ああー、そういえば。忙しいのかねえ」
その倉庫番さんが、消えていた。理由を、あたしは知らなかった。
知ったのは、後だ。倉庫番さんは、金庫の装備が影さんに渡ったとき、まっさきに、まっとうな不満を言ったのだ。「なんで新入りに、みんなの宝を開けるんです」と。ギルドの会議室で、一度だけ。
その晩から、外の板に、倉庫番さんのスレッドが立った。
いわく、あいつは倉庫の物品を横流ししている。いわく、新人への態度が横柄で、辞めた人間が何人もいる。いわく、俺も見た。俺も俺も。みんな迷惑してる——。
書き込みは一晩で百を超え、文体はどれも少しずつ似ていて、倉庫番さんは三日、反論して、四日目から書き込みが途絶えて、五日目に、ログインしなくなった。
巣の中で、その話をする人は、いなかった。ただ、倉庫の鍵の管理が「新体制」になった、という告知が一行だけ出た。あたしはその告知を、日課の帰りに、ぼんやり読んだ。読んで、忘れた。忘れられたのだ、あのころは、まだ。
——あたしが最初に「数字」で異変を見たのは、十二月下旬の、師走の棚卸しだった。
幹部の仕事のひとつに、ギルド金庫の出納帳の確認、というのがある。仕事とは名ばかりで、誰も読まない。開門からこっち、四か月ぶんの入出金がだらだら並ぶだけの、巻物みたいな帳面だ。狸は三行で寝る。あたしも、いつもは、末尾の残高だけ見て判を押していた。
その日に限って、ぜんぶ読んだのは、ほんとうに、ただの気まぐれだった。ぜんぶ読む、はあたしの数少ない特技なのだ。薬草の葉っぱの裏を、一枚ずつめくるみたいに。
読んで、あたしは、帳面の前で、しばらく動けなくなった。
金庫の残高は、末尾だけ見れば「いつも通り」だった。でも、途中の頁が、おかしかった。この三週間、桁のちがう出金が、十数回。名目のほとんどは「装備新調」——最高級の素材の買い付けと、島いちばんの職人たちへの依頼料。あたしにも分かる。あれは、影さんの背中の、あの一式だ。金庫の宝を貸すだけでは足りず、あの人ひとりのための最強装備を、巣のお金で、一から仕立てていたのだ。巣が四か月かけて貯めたものが底をつく金額を、承認印は、ぜんぶマスター。そして、大きな出金のたびに、別の口から同じくらいの入金があって、残高だけが、取り繕われていた。入金元の名義は——あたしの知らない、外部の商会だった。
「たぬさん。これ、見てください」
「んー? ……んん?」
狸は、三行で寝る男のくせに、数字の異変は三秒で分かる男だった。しましまの尻尾が、ぴん、と立った。
「……出てったお金で、影さんの装備と狩りを回して。足りない穴を、外から借りて埋めてる。うちの巣、借金してるよ、これ」
「誰に、ですか?」
「分かんない。分かんないけど——巣の金庫に、外の誰かの手が入ってるってことだよね、これ」
あたしたちは、顔を見合わせた。楽観主義の在庫が、このとき初めて、目に見えて減った。
——コルセットさんの話を、しておかなくてはならない。
あの人が巣に出入りするようになったのは、影さんのレベルが天井に届いた頃だ。
ある日、談話室の中心に、見慣れた白レースの背中があった。コルセットさんは、影さんの隣の席で、それはそれは楽しそうに笑っていた。
「やだ、影さんってば、もう天井? はっや。やっぱり本物は違うわねえ。アタシ、強い人って、ほんと尊敬しちゃう」
影さんは、何も答えない。答えないのに、コルセットさんは平気だった。平気どころか、翌日も、翌々日も、隣にいた。狩りには「アタシ、ヒーラーやったげる」と付いていき、装備は日ごとに、緑の布と白いレースと宝石の方向に気合いが入っていった。あの人の「正装」理論の、最上級というか、最前線というか。
次の週には、コルセットさんの席が、ほとんど固定された。
影さんの右隣。テーブルの角。誰かが先に座っていると、コルセットさんは笑顔のまま「そこ、アタシの席みたいなものだから」と言った。言われたほうは、たいてい黙って立った。文句を言うほどのことではない。席くらい、譲ればいい。そういう小さな譲歩が、いちばん譲りやすい。
コルセットさんは、影さんに飲み物を置いた。食事も置いた。影さんは、飲むこともあれば、飲まないこともあった。礼は言わない。コルセットさんは、それでも気にしない。
「影さんって、無口よね。でも、そういうの、分かる人には分かるから。いちいち説明しない強さっていうか」
あたしには、説明しない強さなのか、説明しないだけなのか、分からなかった。
コルセットさんの装備は、昼と夜で変わるようになった。昼の狩りでは白い羽飾り。夜の談話室では、胸元に宝石のついた黒い服。どれも性能が高いのだろう。たぶん。あたしは性能より、倉庫番さんならこの服をどの棚に置くのだろう、と考えてしまった。防具なのか、衣装なのか、交渉材料なのか。
「……たぬさん。コルセットさん、その、なんというか」
「うん。新しい棚の、新しい一番上を、見つけたんだねえ」
狸の声は、怒っても呆れてもいなかった。ただ、疲れていた。
「前に言ったでしょ。あの人は、人を強い弱いで棚に並べるの。で、一番強い男の隣が、あの人の玉座なの。……昔は俺なんかでも、棚の端っこに置いてもらえたんだけどね。今の棚は、レートが高いや」