カードアース
レナティア編 第六章 黄昏(3/3)
コルセットさんは、あたしと目が合うと、にっこり笑って、小さく手を振ってきた。勝ち誇るでもなく、こじれた相手への気まずさもなく、ただの「おひさしぶり」の手の振り方だった。あの人の中で、あたしと狸はもう、棚から下ろした古い荷物なのだ。それはそれで、なんだか、少し寂しかった。
——巣の空気は、こうして、音もなく変わっていった。
挨拶が減った。談話室の吹き出しが、短くなった。誰かの噂話は、囁きになった。「ただいま」に「おかえり」が返るまでの一拍が、伸びた。新しい人は相変わらず入ってくるのに、古い人が、静かに欠けていく。名前のない人たちは、いなくなるときも、名前がないままだった。
ある夜、影さんが狩りから戻った。
談話室の扉が開いて、影さんが入ってくる。すると、吹き出しが一斉に浮いた。
「おかえりなさい」
「おつかれさまです」
「今日も早かったですね」
「素材、倉庫に入れておきました」
影さんは、短く「ん」とだけ返した。それで、みんな満足したようだった。返事が短いほど価値がある、みたいな空気すらあった。
その少し後、歓迎会で盾ですと言っていた新人が、同じ扉から入ってきた。
「ただいま」
吹き出しは、三つだけ浮いた。あたしと狸と、串を焼いていた料理人のナナシ。
「おかえりなさい^^」
「おかえりー。盾、重かった?」
「肩が死にました」
「盾職の第一歩だねえ」
新人は笑った。笑ったけれど、影さんの周りにできた輪を、ちらりと見た。見て、すぐに目をそらした。
そのとき、あたしはようやく少しだけ分かった。巣はまだ、「ただいま」と言える場所だった。ただ、声が返ってくる量に、差ができはじめていたのだ。
ロロさんは、その差に気づいていたのだと思う。影さんの輪を抜けて、新人の席に来て、「盾職いいねえ、俺のマントも盾みたいなもんだから仲間だね」と、ぜんぜん仲間ではないことを言った。新人は笑った。ロロさんも笑った。けれど、すぐまた誰かがロロさんを呼んで、笑いの余韻だけが、串焼き台の赤い光の上に残った。
串焼きアイテムは、一定時間が過ぎるとバフの効果が落ちる。前なら、効果が落ちる前に誰かが使っていた。皿に残った串の数まで、あたしはその夜、なんとなく数えてしまった。数えたくないものほど、あとからよく思い出す。焼き台の赤い光が消えたあとも、誰も取らなかった串だけが残っていた。祭りの終わりに、少し似ていた。
あたしはその皿を片づけた。誰の串だったのか、分からないまま。誰のものでもない串が増えることを、そのころのあたしはまだ、ただの片づけ残しだと思っていた。記録に残すほどのことではない、と、ほんとうに。
あたしは、それでも半分、楽観の側にいた。だって、決定的なことは、なにも起きていない。誰も殴られていないし、誰も追放されていない。帳面の穴だって、マスターの判子がある。マスターが、ロロさんが、うんと言ったことなのだ。ロロさんがうんと言ったなら——
その、ロロさんが。
ある晩、あたしと狸だけを、談話室の奥の小部屋に呼んだ。
入っていって、あたしは、ロロさんの顔を見て、息を呑んだ。へらへらが、なかった。金の縁取りのマントの、軽薄で、調子がよくて、誰にでも「キミ」と言う人の顔から、へらへらだけが、削げ落ちていた。
「……ごめんね、夜に。その、さ」
ロロさんは、何度か言いよどんで、それから、マスターではない声で言った。
「うちの巣、ちょっと、おかしいかもしれない」
あたしと狸は、黙って待った。
「帳面のこと、二人はもう気づいてるでしょ。……あれね、俺の判子だけど、俺、半分くらい、押した覚えがないんだ。それから、倉庫番の件。あれも、俺、誰にも処分なんて頼んでない。なのに、板が勝手に動いて、あの人は消えて、巣の連中は俺が動かしたと思ってる。……最近、俺の知らないところで、俺の巣が、決まっていく」
「ロロさん。……影さんに、聞いたんですか」
「聞いたよ」
ロロさんは、笑った。へらへら、ではない、へたくそな笑い方だった。
「そしたら、あの人、なんて言ったと思う? ——『巣が大きくなるってのは、そういうことだ』って。『お前は看板でいろ。それが一番、巣のためだ』って。……ね、レナティアさん、狸さん。俺は、看板なのかな。この巣、まだ、俺の巣なのかな」
小部屋の窓から、港の灯りが見えた。もう、夜だった。
思えば、日はとっくに傾いていたのだ。収穫祭のあの日から、少しずつ、少しずつ。あたしが楽観という雨戸を閉めて、見ないでいた間に。
狸が、口を開いた。いつもの間延びした声で、けれど、まっすぐに。
「ロロさん。ひとつだけ、確認させて。——ロロさんはさ、この巣、どうしたい?」
「……守りたい。誰が来ても、ただいまって言える巣のまま。……それが借り物の言葉でも、この四か月、あの看板の下にいた連中の『ただいま』は、全部、本物だったから」
「よし」
狸は、ぱん、と手を打った。
「なら、俺たちは、ロロさん派だ。ね、レナちゃん」
「はい。……あたしたち、幹部ですから。巣の世話係です。マスターの世話も、係のうちです^^」
ロロさんは、しばらく黙って、それから、袖で顔をごしごしやって、いつもの声の八割くらいの声で言った。
「……ありがと。ふたりとも、その、あれだ。……今夜のことは、スウィートには内緒ね。かっこわるいから」
「たまに弱音を吐くから、いいんですよ。毎日だと日課になっちゃうので」
「それ、俺の理屈だー……」
——こうして、あたしたちの呑気な秋は、終わった。
なにが始まるのかは、まだ、誰も知らなかった。ただ、帳面には知らない商会の名前があり、板の底では文体の似た書き込みが増え続け、談話室の中心には顔を思い出せない人が座っていて、その隣で、白レースのコルセットの人が笑っている。
黄昏、という言葉の語源は「誰そ彼」——あれは誰だ、と問う時刻のことだと、いつか古い本で読んだ。
顔の見えない時刻が、あたしたちの巣に、来ていた。