星猫くるるHOSHINEKO KURURU

カードアース

シックス編 第六章後編

シックス編 第六章後編

「みなさんこんばんは、シックスです。十一月のセックは——温泉です」

「十一月に節句はない。だが温泉に文句のあるやつはいない」とサナナ。「以上、企画意図の説明を終わる」

『説明放棄』

『でも正しい』

『温泉に文句のあるやつはいない(名言)』

 会場は、山あいの温泉地インスタンスだった。紅葉が谷を埋め、湯けむりが立ちのぼり、木造の湯宿が軒灯をともしている。露天風呂は湯浴み着で入る仕様で、お湯は本物の温度——といっても、この世界に火傷はない。熱すぎれば熱すぎるなりに、気持ちよさの上限で止まるようにできている。親切な世界である。

 入る前から、温泉地はすでに強かった。

 宿の入口に浴衣レンタルがあり、全員で柄を選ぶだけで十五分溶けた。マイは紅葉柄もみじがらを選び、翼を出すためのスリット位置で衣装係とチャットを始めた。アーネさんは藍の流水柄を選び、着た瞬間に若女将になった。俺は大きいサイズの浴衣を出してもらい、帯を締めたところでコメント欄に『旅館の用心棒』と書かれた。もう何を着ても用心棒らしい。

 サナナは、白地に赤い金魚の浴衣を選んだ。本人は「無難だろ」と言ったが、金魚が歩くたびに袖で泳ぐので、無難ではなかった。

『かわいい』

『ミイラからの落差』

「うるさい。温泉で包帯はさすがに湿る」

 宿には、配信用の脱衣・入浴フィルタも用意されていた。湯浴み着に自動で切り替わり、肌の出る角度は配信側で補正される。マイが「配信って面倒だね」と言い、サナナが「その面倒を全部引き受けてるのが編集だ」と胸を張った。胸を張ったあと、たぶん自分で墓穴に気づいて少し黙った。

 今日の配信には、もうひとつ新しい表示が出ていた。『体感共有: OFF / 参加者のみ / 弱め』。初期設定はもちろんOFFだ。PCやスマホで見ているリスナーには、湯けむりとコメントだけが届く。参加状態で、対応デバイスの安全確認を通した人だけが、足湯の温度や湯上がり牛乳の香りを、ほんの少しだけ受け取れる。何でもかんでも共有できる世界ではなく、共有しすぎないためのボタンが、画面の端に並んでいる世界なのだ。

 湯へ向かう廊下には、足湯もあった。標準デバイスのマイは「足があったかい気分」と言い、手袋勢のサナナは手を突っ込んで「手湯だ」と言い張った。足湯に手を入れるな、と宿の案内板に小さく書いてあった。書いてある側だった。

 さて、入浴である。

 まず、俺。全身インプラントの体感勢が、紅葉の露天に、肩まで沈む。

「…………極楽」

『出た』

『体感勢の本気』

『声が漏れてる』

「極楽って、声に出るものなんだな。知らなかった。肩から指の先まで、ぜんぶあったかい。湯が、その、皮膚の上を、こう、ゆらゆらと。……あと、これ、言ってもいいのか分からんが、湯に重さがある。腕を持ち上げると、ちゃんと湯が抵抗してくる。この重さは、たぶん俺にしか来てない」

『語彙が戻ってきた』

『こっちまで気持ちよくなってきた』

『ずるいぞ体感勢』

『共有弱めONにした。手首だけぬるい』

『それ足湯じゃなくて手湯では?』

 次に、サナナ。触覚デバイスは手袋型——つまり、感触が返るのは、手だけである。

 サナナは湯船のふちに正座して、両手だけを、そっとお湯に沈めた。

「……ふう。極楽だな」

「お前それ、手だけだろ」

「手だけ極楽だ。文句あるか」

『絵面がひどい』

『湯もみの練習かな?』

『手湯という文化はある。あるが』

「うるさい! いいんだよ、指十本ぶんの秋を、オレは今、全力で味わってんの!」

 マイは標準デバイスなので、感触はゼロ。それでも湯に浸かって「気分は出る」と主張し、濡れた翼が重くなって浮けなくなり、湯の中でばたばたしていた。渡り鳥、水鳥ではないらしい。

 そして、アーネさん。

 アーネさんが湯に身を沈めた瞬間、湯面が、きらりと光った。

 湯浴み着の裾から伸びていたはずの足が——虹色の鱗の、大きな魚の尾になっていた。

「……あら」

『!?』

『人魚!!』

『そういえばマーフォークだった』

「ふふ。水に入ると、こうなるのよねえ。温泉でも、なるのねえ。初めて知ったわ」

 アーネさんは、優雅に尾で湯面をひと叩きして、紅葉の露天を一周した。人魚の泳ぐ露天風呂である。風情なのか事件なのか判断のつかない光景に、コメント欄は『人魚の湯』『ご利益ありそう』『この宿、名物にすべき』と沸いた。以後この配信内で、あの露天は「人魚の湯」と呼ばれることになる。

 ——事件は、俺に起きた。

 極楽、極楽と長湯をしていたら、視界のふちが、ゆらりと波打った。画面に見たことのない表示が出る。『のぼせ注意。休憩してください』。身体がふわふわして、立ち上がると、世界が半拍遅れてついてきた。

「おい、俺、のぼせたぞ。のぼせまで再現すんのか、この世界」

「体感勢だけの特権だな」

「特権の使い方を間違えてる気がする」

「ちなみにそれ、本物ののぼせの手前で止めてある。ふらつきが一定を超えると、システムが先に湯から上げる。酔いと転倒は、この世界がいちばん気を使ってる領域だからな」

「介護されてる気分だ」

「されてろ。倒れられたら配信が事故る」

 ついでに言うと、いま俺がのぼせてふらついた感覚は、配信には乗っていない。共有を弱めでONにした参加リスナーに届いているのは、足湯ぶんの、気持ちいい側の温度だけだ。サナナいわく「気持ちいいとこだけ配る。しんどいとこは配らない。編集ってのは、切ることより、配らないことを決める仕事なんだよ」とのことである。俺ののぼせは、こうして電波に乗る前に編集長にカットされた。ライブなのに。——いや、正確に言おう。映像も音も感覚も、見る側に届くのは六秒から九秒ほど後だ。感覚だけに十秒がもう一つ足されるわけではない。その共通の猶予のあいだに、システムが危険の旗を立て、編集長が用意してあった心地よさに差し替える。差し替えが間に合わなければ、危険側はシステムが勝手に消す。

 出す側が、映像、音、触覚、温度、味と匂いを別々に選ぶ。サーバが安全な強さへ変換する。受け取る側も、「触覚は弱め」「温度は切る」と、自分のボリュームを決められる。最後に、その人が使う認証機器にも、出していい強さの上限がある。実際に届くのは、その四つの上限のうち、いちばん弱いものまで。こちらの足元がふらついたからといって、知らない誰かの部屋まで揺らすことはない。仕事が早いだけでなく、だいぶ用心深い配信だった。

『のぼせ(仮想)』

『贅沢な悩みすぎる』

『手だけ勢はのぼせません(勝利)』

 のぼせは強制休憩で、縁側に出されて、湯上がり処で回復を待つ仕組みだった。そしてこの「湯上がり処」が、今夜の後半の舞台になる。

 まず、温泉卵が出た。

 半熟の白身が、つるりと匙に乗る。だしのきいたつゆ。口に入れると、白身がほどけて、黄身のこっくりした甘さが、つゆと混ざって喉を落ちて、腹の底に、ほわりと灯る。

「……うまい。温泉卵というのは、卵の、いちばんいい瞬間を止めたやつだな」

『食レポの本気』

『腹減ってきた』

『こっちは深夜なんだが?』

 それから、瓶の牛乳である。腰に手。一気飲み。ぷは。この作法はサナナに教わった。味の分からないサナナが作法だけ完璧に実演し、味の分かる俺が中身を味わう。二人で一人前の牛乳飲みだった。

 マイも、温泉卵を(味はしないまま)ちゃんと二つ食べた。うん、と俺は思った。うん、それだけである。誰も何も言わなかったし、アーネさんがおかわりをよそっただけだった。そういうことは、そういうふうに、静かに戻っていくのがいい。

 湯上がり処には、卓球台もあった。

 温泉と卓球の関係は分からない。分からないが、置いてあるならやる。これもまた、セックとは心の持ちように近い何かである。

 最初は俺とサナナで打った。俺は全身で球の跳ねを感じ、サナナは手袋でラケットの角度だけ妙に正確に拾う。結果、ラリーは続いた。続いたが、俺が気持ちよく打ちすぎて、三球目で窓の外へ飛ばした。

『体感勢、力加減が下手』

『全身で空振りする男』

「今のは湯上がりで身体が軽かった」

「言い訳が温泉」

 マイは羽でバランスを取りながら妙に強かった。翼は卓球に向いているらしい。アーネさんは尾ではなく足に戻っていたが、ラケットを持つ姿が優雅すぎて、球が遅くても誰も文句を言えなかった。検証の人は「卓球台の摩擦係数」を調べはじめ、試合をしなかった。

 サナナが勝った。手だけ極楽の女は、手だけスポーツでも強かった。

「感覚が少ないほうが、余計な情報が入らないんだよ」

「それ、ちょっとかっこいいな」

「だろ。……でも、温泉は全身のほうが勝ちだ。そこは認める」

 勝ち負けの分類が細かい。

 ——そして、縁側である。

 湯上がりの四人と、途中から合流した検証の人(温泉の効能表示の検証を三十分やって満足していた)が、縁側にだらりと並んだ。庭の紅葉もみじ。ししおどしの音。湯冷ましの風。

 誰も、何も、しなかった。

 企画もない。ゲームもない。クイズもない。ただ、だらだらと、とりとめのない話をした。ししおどしは何のためにあるのか(鹿をおどすため、と検証の人が真顔で解説した)。紅葉はなぜ赤いのか。牛乳はなぜ腰に手なのか。コメント欄も、流れがゆっくりになって、『いいなあ』『実家みたいだ』『寝る前に見るのにちょうどいい』と、囁きみたいな文字が、ぽつり、ぽつりと流れた。

「……なあ、シックス」

 隣のサナナが、庭を見たまま言った。

「ん」

「……いや。なんでもない」

「なんだよ」

「なんでもないったら、なんでもない。——ただ、あれだ。……こういう回が、いちばんむずかしいな、って思っただけだ」

「むずかしい?」

「盛り上げるのは、企画でどうにでもなる。でも『何もしないで、いい時間』ってのは、作れない。……積み上がってないと、無理なんだ。一年ぶんの、こういうの、ぜんぶが」

 サナナは、それきり黙って、湯上がりの牛乳(二本目)の作法を、また完璧に実演した。俺も、何も返さなかった。返さなくていい会話というものを、俺たちはこの一年で、ずいぶん覚えたのだった。

 ししおどしが、こん、と鳴った。

 ——配信を締めたあと、サナナが数字を見て、変な声を出した。

「……おい。今夜、ハロウィン超えてる」

「は? 何もしてないぞ、今夜」

「何もなにもしてないのにだよ! 仮装も企画もドッキリもなしで、過去最高って、お前……オレの一か月の企画会議は何だったんだ……」

『何もしない配信が一番伸びるの法則』

『わかる。作業用に流してた』

『ししおどしのASMR』

『人魚の湯は企画では?』

 頭を抱える企画担当と、湯冷めしない程度に笑う俺たちで、十一月のセックはお開きになった。

 来月は、十二月。クリスマスである。……その前に、俺にはひとつ、やっておきたいことがあった。一年間、うちの配信のこぼれ球を全部拾ってきた誰かさんを、そろそろ、まとめて労う番なのだ。

 企画名は、まだ秘密である。ネタは、言った瞬間に死ぬので。