星猫くるるHOSHINEKO KURURU

カードアース

レナティア編 第七章 薄暮(1/3)

レナティア編 第七章 薄暮

 その冬のことを、あたしは、あまりうまく書けない。

 うまく書けないまま、書く。書いておかないと、あの冬は「そういうこともあった」に薄まってしまうから。薄めていいものと、薄めてはいけないものが、世の中にはある。

 ——始まりは、遠くの祭りだった。

「なあ、聞いた? 関東のギルマスの話」

 談話室の吹き出しが、その話題で埋まった晩のことは、よく覚えている。関東——この島の東側を束ねる大手ギルドの連合があって、その盟主のマスターが「やらかした」のだという。

 二鯖の地図は、ただの地図ではなかった。都市の上に、支配ギルドの名前が載る。酒場の看板が掛け替わる。転送門の横に、領主ギルドの旗が立つ。一鯖なら投票と街への貢献で選ばれる世話役が、ここでは戦場の勝敗で決まる。だから「関東の盟主」という言葉は、ただ強い人たちの集まり、というだけではなかった。地図の東側に、彼らの名前が並んでいる、という意味だった。

 何をやらかしたのかは、聞く相手によって違った。ギルドの金を使い込んだ、と言う人がいた。女性メンバーに手を出した、と言う人がいた。過去の発言のログが掘られた、身内を優遇していた、話し方が偉そうだった——数えるほどに罪状は増えて、そして誰も、一次の証拠を見ていなかった。

「板で祭りになってる。すごいスレの伸びだよ」

「へえ。……ほんとの話なんですか、それ」

「さあ? でも、火のないところに何とやらでしょ」

 火のないところに煙は立たない。あの冬、あたしはこの諺を百回聞いた。百回目には、こう思うようになっていた——煙を焚く機械があれば、火はいらないのだ、と。

 あたしは板を読まない。読まないと決めている。それでも毒は、空気から入ってくる。噂話の温度から。談話室の笑いの、笑い方から。「あいつらしいよな」という、誰も本人を知らないのに言われる「らしさ」から。

 関東の盟主は、二週間で失脚した。副官たちが次々に「あの人には失望した」と表明し、連合は割れ、東側は、頭を失った。

 失脚までの二週間、談話室は毎晩、同じ話題を別の形でなぞった。

「新しいログ出たって」

「どこ?」

「板の二十七番目のまとめ」

「二十七もあるの?」

「多いほど本当っぽいじゃん」

 多いほど本当っぽい。誰かが笑いながら言ったその言葉は、冗談の形をしていた。けれど、冗談で終わらなかった。翌日には「まとめが三十を超えたから、もう確定でしょ」と言う人が出た。次の日には「東の人間も認めてるらしい」と言う人が出た。その「東の人間」が誰なのかは、誰も知らなかった。

 ときどき、関東のギルドから来たらしい人が、談話室に顔を出した。

「あの、うちのマスター、そこまで悪い人じゃ」

 そこまで言うと、吹き出しがいくつも浮く。

「身内だから庇うよな」

「証拠見てないの?」

「じゃあ、反論まとめ作れば?」

 反論まとめ。言うのは簡単だ。けれど、火のついた板に、一人で水桶を持っていくようなものだ。関東から来た人は、二晩目には来なくなった。

「やっぱ反論できないんだ」

 誰かがそう言って、話は終わった。反論する人を追い払ってから、「反論がない」と言う。あとから考えると、あまりにも分かりやすい手口だった。分かりやすい手口でも、その場にいると、手口ではなく空気に見える。

 あとから思えば。

 ぜんぶ、開戦の準備だったのだ。

 ——「東西統一戦」という言葉が、いつ、誰の口から出はじめたのか、あたしは特定できない。

 気づいたときには、それは「みんなが言っていること」になっていた。曰く、東の連合は腐っている。曰く、頭を失った今がその証拠。曰く、この島に二つの勢力はいらない。曰く、西の俺たち——CE7743が、島をひとつにするべきだ。

 誰が言い出したのでもなく、みんなが言っている。

 その「みんな」の正体を、あたしはもう、知っていたはずだった。倉庫番さんのときに。関東の盟主のときに。文体の似た書き込みが、夜の板を埋める速度で。それでも、巣の中の空気は膨らみ続けた。祭りの前の、あの浮ついた膨らみ方で。新入りは連日増えた。板から、外の島から、「歴史的な戦いに参加したい」人たちが、名無しさんの旗の下に集まってきた。うちの巣は、島の半分を呑む大きさになっていた。

 戦支度いくさじたくは、最初は楽しかった。

 楽しかった、と書くことを、ためらわないでおく。あの空気の危うさは、そこにあったのだから。

 倉庫の前には、武器を研ぐ列ができた。料理人のナナシは「戦場でも使いやすい串」を開発した。片手で使用できて、移動中でもバフが切れにくい。試作品を狸たぬきが使って、「戦場じゃなくても使いやすい」と言った。料理人は、それを褒め言葉として受け取った。

 盾職の新人は、もう新人ではない顔で、木箱を運んでいた。

「盾、重いですか」

「慣れました。最近は、肩が死んでからが本番だと思っています」

「それは、慣れていいんでしょうか」

「狸さんに言われました」

「たぬさん」

 狸は遠くで、知らないふりをして串の食事モーションをしていた。

 掲示板の依頼は、戦争一色になった。偵察、物資、鍛冶支援、地図写し、集合時間の確認。橋の人の札も、鶏の友の条件検証も、どこにもない。みんなが必要なことをしている。必要なことをしているだけなのに、必要でないことをする余白が消えると、場所は少しずつ固くなる。

 夜には、作戦ごっこが始まった。

 新入りたちが地図を囲み、「俺、関東の連中を三十人倒すわ」と言う。隣のナナシが「三十は少ない。俺は百」と言う。百を倒せる人は、たぶん、百を倒すとは言わない。けれど、誰も冷やさない。冷やすと、自分が臆病者みたいに見えるからだ。

「狸さんは、何人倒します?」

「俺? 俺はねえ、できれば誰も」

 場が、一瞬だけ黙った。

 狸は串を回しながら、いつもの調子で続けた。

「だってさ、倒したら倒したで、あとで誰が串使うの。客は多いほうがいいよ」

 料理人のナナシが「それはそう」と言って、場が笑った。笑いになったから、助かった。けれど、あの一瞬の沈黙を、あたしは覚えている。浮ついた空気の中で、誰も倒したくない、という当たり前の言葉だけが、少し浮いていた。

「……ねえ、たぬさん。この戦争、誰が始めたんでしょう」

「んー。……誰も始めてない、が答えな気がするねえ。誰も始めてないのに始まる。それが、いちばん質たちの悪い始まり方」

 ロロさんは、開戦の音頭を取らされた。

 取らされた、と書く。壇上のロロさんは「でっかい巣の、でっかいマスター」の顔で拳を上げ、群衆は沸いた。でも、壇を降りたロロさんの背中を、あたしと狸は幹部席から見ていた。あの人は音頭のあいだ、一度も、影かげさんの座る席の方向を見なかった。見ないようにしている、という見方だった。

 音頭の前には、三度、集会があった。

 一度目は、情勢説明という名目だった。ロロさんが地図の前に立ち、東の連合が割れたこと、周辺の弱小ギルドが保護を求めていること、これ以上混乱を放置すると島全体が荒れることを話した。どれも、言葉としては間違っていなかった。間違っていない言葉を並べると、間違った結論まで、まっすぐ道ができることがある。

 二度目は、決起集会になった。

 新入りの誰かが「ロロさんがやるならついていきます」と言った。次の誰かが「CE7743が島を守るんだ」と言った。拍手が起きた。ロロさんは笑って、手を振って、「いやいや、俺ひとりじゃ何もできないよ」と言った。その謙遜に、また拍手が起きた。

 三度目には、もう、ロロさんの言葉ではなかった。

 影さんの隣にいたコルセットさんが、誰より先に立ち上がって拍手をした。

「ロロさん、かっこいい! ね、影さん。こういうとき、前に立てる人って、必要よね」

 影さんは答えなかった。答えない影さんの沈黙が、拍手の許可みたいに扱われた。ロロさんは、樽の上で軽く笑っていた。軽く笑いながら、拳を上げる角度を、ほんの少しだけ迷っていた。

 あたしはその迷いを見た。見たのに、何も言えなかった。壇上の人に「降りてください」と言うには、壇の下の拍手は大きすぎた。

 ——開戦の前夜のことを、書く。

 この章で、あたしがいちばん覚えていたい夜のことを。

 その晩、たまり場は、歴史上いちばん賑やかだった。

 明日出る者、残る者、新入り、古参、談話室に入りきらない人があふれて、倉庫の前の石段まで宴会になった。誰かが樽を開け、誰かが串を焼くエモートを出し、掲示板の依頼書の上に「本日休業・全員宴会」の紙が貼られた。

 倉庫の扉は、開け放たれていた。中にはもう倉庫番さんはいない。それでも、誰かが勝手に棚を荒らすと、別の誰かが「戻しとけよ」と言った。あの人の口うるささは、人がいなくなったあとも、少しだけ残っていた。

 巨大木べらは、倉庫の壁に立てかけられていた。狸がそれを見つけて、手に取った。

「レナちゃん、これ、今日だけは武器として許されないかな」

「倉庫番さんに怒られます」

「いないのに怒られるの、強いなあ」

 狸は木べらを壁に戻した。戻すとき、いつもより少しだけ丁寧だった。

 スウィートちゃんの椅子の周りにも、人が集まっていた。ロロさんが乾杯の合間に、椅子の前へ行って、「今日もがんばったなあ」と言った。スウィートちゃんは、その夜、短く「おつかれさま」と返した。たった一言だったのに、周りの何人かが本気で拍手した。

「ほらね」とロロさんは言った。「たまにだから、いいんだよ」

 その言葉も、あたしは忘れない。

「ただいまー!」

「おかえり!」

「ただいま帰りましたー!」

「おかえりおかえり!」

 あの夜の「ただいま」は、ぜんぶに「おかえり」が返った。一拍の遅れもなく。三か月まえ、あたしが「勇者様はいませんか」と叫んで、しんとさせた、あの同じ酒場で。

 あたしは幹部として、出陣する人たちに、備えの祈りを配って回った。ユカちゃんの光を、一人ずつに。行列ができた。冗談みたいだけれど、本当に、行列が。

 列には、見覚えのある人たちがいた。

 収穫祭で栗を五百個買ったナナシは、腰に栗袋を下げていた。

「戦場で配るんです」

「栗を?」

「甘いもの、大事なので」

「焼き栗は、焦げていないものをお願いします」

「焦げは当たりです」

 その後ろには、橋の人の称号を取り損ねたナナシがいた。結局三日連続で橋の下に座る時間が取れなかったらしい。

「戦争が終わったら、取りに行きます」

「橋は、逃げませんから」

「俺が逃げなければ」

「逃げても、いいと思いますよ」

 あたしがそう言うと、その人は少し困った顔で笑った。

 料理人のナナシは、行列の途中で串アイテムを配っていた。盾職の人は、両手を出して祈りを受けるまえに「盾、置いたほうがいいですか」と聞いた。狸が横から「肩が死ぬ前に置こう」と言った。

 あの夜の行列は、戦争の準備であると同時に、名簿でもあった。名前のない人たちの、顔ではなく、癖の名簿。焦げ栗を当たりと言う人。橋の下に座りたかった人。盾を置くタイミングが分からない人。あたしは一人ずつに光を渡しながら、この人たちが明日、敵の数として数えられたり、味方の数として数えられたりすることを、まだうまく想像できなかった。

「祈り手いのりてさん、俺にも」

「はい^^ どうぞ、ご武運を」

「あんたのそれ、もらうと縁起がいいって聞いた」

「誰が言ったんですか、そんなこと」

「みんな」

 みんな。その言葉が、いいほうに使われることも、まだあった。列の後ろで狸が「俺の嫁……じゃなかった、俺の相棒、人気者ー」と適当な野次を飛ばし、列が笑った。ずっと昔、遠い島の駅前で、誰かがこういうふうにバフを配っていたのだと、あたしはあとから知る。この夜のあたしは、ただ、手元のログが光で埋まっていくのを見ていた。

 宴もたけなわ、ロロさんが樽の上に立った。

「諸君! 明日、俺たちは歴史に残る! ……多分! 残らなかったら、まあ、それはそれ!」

 どっ、と笑い。

「乾杯の音頭は、うちの家訓でいく。——誰が来ても、ただいまって言える巣に! 明日もあさっても、その次も! ただいまー!!」

「「「おかえりーーー!!」」」

 三百の「おかえり」が、港の夜空にぶつかって弾けた。

 あの声を、あたしは忘れない。あれが、あの巣の、いちばん高いところだった。

 宴が少し静かになってからも、人はなかなか帰らなかった。

 明日が早いから寝たほうがいい。誰もが分かっていた。分かっていても、席を立たない。料理人は最後の串を焼くエモートを出し、盾職の人は盾を椅子にして寝落ちし、橋の人は談話室の敷居に座っていた。敷居も橋の一種、らしい。

「それ、称号に関係ありますか」

「気持ちの問題です」

「気持ち」

 あたしは笑った。笑いながら、明日のことを、少しだけ忘れた。

 ロロさんは、全員の席を回っていた。乾杯した人にも、していない人にも、残る人にも、行く人にも。言うことは毎回だいたい同じだ。

「無理しないでね」

「勝つんじゃないんですか」

「勝つよ。勝つけど、無理は別。帰ってこない勝ちは、家訓に反する」

 帰ってこない勝ちは、家訓に反する。

 その言葉に、何人かが笑い、何人かが真面目な顔でうなずいた。あのとき、ロロさんは本当にマスターだった。借り物の言葉を、自分の声で言い直していた。

 影さんの席は、空いていた。

 いないことに気づいたのは、狸だった。

「主役級の人、いないねえ」

「忙しいんでしょうか」

「そうかもねえ」

 狸は、それ以上言わなかった。言わなかったけれど、あたしはその空席を、あとから何度も思い出す。みんながただいまを叫んだ夜に、ただいまとも、おかえりとも言わなかった人の席を。

 解散の直前、あたしは鞄の中を確認した。回復薬、予備の杖、ユカちゃんとタマちゃんの触媒、非常食の栗。栗は、いつのまにか誰かが入れていた。黒くないものだった。そういう小さな善意だけが、鞄の底の一覧に、明日の怖さと一緒に並んでいた。あたしはそれを、使わずに戻せる明日を、まだ信じていた。戻ってきて、笑いながら、誰が入れたんですかと聞ける明日を。だから、鞄の窓を、少し丁寧に閉じた。閉じる効果音は、思ったより小さかった。誰にも聞こえないくらいの音だった。だから余計に、あたしだけが覚えている。今も、はっきり。栗のアイコンの位置まで。鞄のいちばん下、まだ明日のものだった。

 ——戦争の話を、しなくてはいけない。

 短くしか、書けない。短くしか書けない種類のものだった。

 決戦は、年の暮れの、東の平原で行われる予定だった。両軍合わせて数千。この島の歴史で最大の会戦。あたしと狸も、幹部として西軍の一翼にいた。

 開戦の銅鑼が鳴って、十分で、終わった。

 一分目。