カードアース
レナティア編 第七章 薄暮(2/3)
平原の向こうで、東軍の旗が揺れた。旗の数は多かった。けれど、揺れ方がそろっていなかった。伝令が走り、走った先で立ち止まり、別の方向へ走り直す。あたしたちの列の前では、ロロさんが手を上げて、まだ動くな、と合図した。
二分目。
東軍の左翼が、前ではなく、内側へ向いた。最初は陣形の組み替えに見えた。次の瞬間、矢が飛んだ。敵ではなく、東軍本陣へ。
三分目。
歓声と悲鳴が、同時に上がった。どちらの声か分からなかった。西軍の後方で「裏切った!」「いけるぞ!」という吹き出しが弾ける。あたしは、ユカちゃんを呼ぶ手を止めた。誰に備えを渡せばいいのか、分からなくなった。
四分目。
東軍中央の指揮旗が倒れた。倒したのは、東軍の中の誰かだった。旗が倒れると、人は自分の足元を見る。次に、隣を見る。隣もこちらを見ている。誰も前を見ていない軍列に、西軍の先頭が突っ込んだ。
五分目。
逃げる人が出た。逃げる人を、味方が押し戻そうとした。押し戻された人が転び、転んだ人を踏んで、また誰かが転んだ。戦争の音は、剣戟より、足音のほうが大きかった。
六分目から先は、数える意味がなかった。
会戦は、なかった。東軍の左翼が、開戦と同時に、東軍の本陣に向かって矢を放ったのだ。中央の指揮系統は開戦前から麻痺していた——指揮官の何人かが、前夜に「失脚」していた。板で。例の、火のない煙で。残った東軍は、指揮を失った群衆で、群衆は、軍隊には勝てない。
あたしの見た「歴史に残る会戦」は、逃げる人の背中を、追う人が刈っていく風景だった。
「……たぬさん。これ、戦争、ですか」
「————いや」
狸は、剣を、一度も抜かなかった。あたしも、杖を構えたまま、誰にも祈れなかった。祈る相手が、いなかった。うちの軍列の後方から歓声が上がるたび、あたしは自分の足元の地面が、少しずつ薄くなっていくような気がした。
あとになって、狸が調べて分かったことがある。東軍の左翼——最初に裏切ったあのギルドの幹部は、秋のころにうちの巣へ「新入り」として出入りしていた顔ぶれと重なっていた。西のあちこちの弱小ギルドが、この「統一」の過程で、抵抗の間もなく吸収されて消えた。潰されたのは、東の悪者ではなかった。スパイの行き届かなかった場所が、潰されたのだった。
島は、統一された。
祝賀の花火が三日続いて、板には「歴史的勝利」のスレッドが躍り、あたしは三日間、ログインする気になれなかった。
——年が明けてからは、もっと速かった。
統一の祝賀が冷めないうちに、巣の中に、新しいギルドタグが現れはじめた。
CE7743-2。
公式のサブギルド、という触れ込みだった。本体が大きくなりすぎたので、精鋭を分ける、運営効率のためだ、と。設立者の欄には、誰とも交流履歴のない、真新しいキャラクターの名前——ではなく、ナナシがあった。作られたばかりの、装備も何もない、けれど誰もが「あの人でしょ」と囁くナナシが。
影さん本人は、何も言わない。何も言わないまま、巣の景色が、変わっていく。
最初に移ったのは、コルセットさんだった。
「アタシ、あっち行くわね」
驚くほど、あっけらかんとしていた。白レースの背中は、迷いなくサブギルドのたまり場へ歩いていって、その晩から、あちらの談話室の中心で笑い声を上げていた。強い男の隣。あの人の玉座は、いつも、そこにある。率先して移った古参、というのは巣の連中への効果が大きかった。ああ、あの人が行くなら、あっちが「本流」なんだ——。
そして、板が動いた。
『ロロ派だったけど、俺、影さんのほうに行くわ』
『俺も。ロロさん好きだけど、もう限界っしょ、あの人』
『俺も俺も』
『俺も』
夜ごと、その手の書き込みが、束になって流れた。文体の分散の狭い、書き込み間隔の規則正しい、あの束が。板だけじゃない。板の外の、短い呟きを流す場所にも、同じ束は湧いた。捨てられるために作られた名前たちが、何十、何百と、同じ方向を向いて囁く。
あたしは、それが偽物だと知っていた。知っていた側の、はずだった。
それでも——白状する。ある夜、談話室で、周りの吹き出しがぜんぶ「移籍」の話をしていたとき、あたしは一瞬、本気でこう思ったのだ。「もう、みんな、決めてしまったんだ」と。
偽の多数派は、本物の孤独を作る。
一人で百人を演じる誰かの声は、百人の中で黙っている本物の一人に、「黙っているのはお前だけだ」と思わせる。それがあの手口の、ほんとうの恐ろしさだった。数字はただの飾りじゃない。数字は、勇気の値段を吊り上げるのだ。
善良な人ほど、よく騙された。あたしの知っている、気のいいナナシたち——歓迎会で串を焼いてくれた人、称号集めを笑ってくれた人、宴会で「おかえり」を叫んだ人たちが、ひとり、またひとりと、タグを変えた。悪意じゃない。「みんなが移ってるらしいから」。ただ、それだけの理由で。
串焼きの料理人は、最後まで迷っていた。
「ごめん、レナティアさん。俺、あっちの炊き出しに行くわ。人数多いほう、バフ回さないと」
「はい。……串、効果が切れないうちに、配ってください」
「うん」
料理人は、泣きそうな顔で笑った。泣きそうな顔で笑える人は、悪い人ではない。悪い人ではないから、止める言葉が見つからなかった。
盾職の人は、もっと実務的だった。
「ロロさんのことは好きです。でも、影派のほうが防衛線が広いです。盾が必要です」
「必要なところに行くんですね」
「はい。……それが、盾なので」
そう言われると、あたしはうなずくしかなかった。盾は必要なところへ行く。正しい。正しすぎて、悲しかった。
橋の人は、何も言わずにタグを変えた。翌日、橋の下に座っているのを見かけた。
「称号、取れました?」
「取れませんでした」
「戦争が終わったら、ですね」
「はい。橋は逃げませんから」
それだけだった。敵味方の話は、しなかった。橋の人は、橋の下に座っていた。どちらの岸にも、近すぎない場所で。
「レナティアさんは、行かないの?」と、移る人のひとりに聞かれた。
「はい。あたしは、ロロさんの巣の、世話係なので」
「……そっか。ごめんね」
謝らなくていいのに、と思った。騙されることは、罪ではない。罪でないから、こんなにも、防げない。
——ロロさんが削られていく過程を、あたしは、そばで見ていた。
最初は、ゲームの中のことだった。サブギルドとの「調整」会議が、毎晩、深夜まで続く。本体の金庫は、例の借金の清算で、動かせない。幹部は減る。決めたことが、翌朝には板で「ロロの独断」に書き換わっている。
次に、ゲームの外のことになった。
ある朝、板に、一本のスレッドが立った。タイトルは書かない。中身は、ロロさんの——中の人の、本名だった。住んでいる県。仕事の業種。昔のコテハン時代の、消したはずの書き込みの数々。そして「これ、本人の自撮りらしい」という、真偽も分からない写真。
狸が、めずらしく声を荒らげた。
「なんで、そんなものが板に出るの。誰が知ってたの、そんなこと」
答えは、聞くまでもなかった。
ロロさんが、ぽつりと言ったのだ。
「……俺が、教えたんだ。昔。板の時代に。……あの人だけには、話してたんだ。本名も、仕事も。だって、恩人だったから」
信頼は、渡した瞬間に、武器の形をしている。渡した相手が引き金を引くまで、誰もそれに気づかない。
晒しのあと、ロロさんは三日、ログインしなかった。四日目に現れたロロさんは、少し痩せて見えるアバターで(アバターは痩せないのに、そう見えた)、それでも樽の上に立って、残った巣のみんなに言った。
「心配かけたねー。大丈夫大丈夫。ほら、俺、顔はいいからさ、晒されても得しかない」
誰も笑わなかった。ロロさんだけが笑っていた。
——内乱のことを書く。
影派の「吸収」の最後通牒——本体とサブギルドの「統合」、実質の乗っ取り案が幹部会議に出された夜、ロロさんは、はっきり言った。
「やだね」
軽い、いつもの言い方だった。
「この看板は、俺が預かったんだ。でっかい巣を作れって。誰が来てもただいまって言える巣を。……言われたとおり、作ったんだよ、俺。開門の日から、休まず。だから——巣ごと誰かにあげるのは、預かった俺の、仕事じゃない」
年明けからの二週間、巣は、二つに割れて戦った。
この島の仕組みの中でできる、あらゆる形で。拠点の取り合い。物資の停止。決闘。示威行進。あたしと狸は、ロロ派の先頭にいた。そして——あたしは、初めて見たのだ。ロロさんが、本気で戦うところを。
最初の拠点は、港の倉庫だった。
倉庫番さんのいなくなった、あの倉庫。そこを影派が押さえようとした。物資を押さえれば、ロロ派は動けなくなる。理屈は分かる。分かるから、腹が立った。
あたしは入り口の石段に、ユカちゃんの膜を三重に置いた。狸はその前で二刀を抜き、片方を肩に担いだ。
「レナちゃん、ここ、絶対抜かれたくないやつだねえ」
「はい。倉庫には、巨大木べらがあります」
「それは守らないと」
冗談を言って、少しだけ息ができた。
影派の先頭が来た。名前はナナシ。装備はよく、動きもよかった。けれど、倉庫の入り口は狭い。数の多さは、そのまま詰まりになる。狸が一人目の足を払う。二人目をロロさんが正面から受ける。金のマントが、夕方の火みたいに翻った。
「悪いね、ここ、俺の巣の台所なんだ」
ロロさんの剣は、飾りの多い長剣だった。軽薄な剣だと思っていた。けれど、振られると、飾りが光を拾って、相手の目を一瞬だけ奪う。その一瞬で、ロロさんは相手の武器を弾き、肩で押し返し、石段から落とした。
「マスター、つよ」
盾職のナナシが、思わずそう言った。
「いまさら? 俺、顔だけじゃないんだよ」
「顔も、そんなに」
「そこは乗ってよ!」
笑いが起きた。笑いながら、あたしたちは倉庫を守った。
二つ目の拠点は、橋だった。
橋の人の称号を取り損ねたナナシが、橋の中央に座り込んでいた。
「三日連続は無理でしたけど、一日ならできます」
「いま称号の話ですか!?」
「橋を守る話です」
敵が来る。橋は狭い。あたしはタマちゃんの蔓を欄干に沿わせ、足を取る輪を作った。狸は敵を斬り倒すより、剣の腹で欄干の外へ押し落とした。川に落ちれば死にはしない。けれど、濡れて戻るまで時間がかかる。戦場でいちばん大事なのは、相手を倒すことではなく、相手の時間を奪うことなのだと、その日知った。
ロロさんは橋の端で、ずっと笑っていた。
「いいねえ、橋の人! 今日はキミが橋そのものだ!」
「称号、いま取れますかね」
「運営に聞いて!」
戦闘では、勝っていた。少なくとも、あたしたちの目に見える場所では。
金の縁取りのマント。ぴかぴかの肩当て。飾りの多い長剣。あの、軽薄の記号みたいだった豪華装備は、飾りではなかった。開幕の拠点防衛戦で、ロロさんは先頭に立って、影派の突撃を三度、一人で受け止めて返した。古参が息を呑んだ。「マスターって、強かったんだ」と誰かが言った。強かったのだ、ずっと。強さを見せびらかさない巣を、作りたかっただけで。
戦闘では、勝っていた。数字の上でも、拠点の数でも、ロロ派は勝っていた。
負けたのは、票だった。
板の世論は、最初から最後まで、影派のものだった。「ロロの私物化」「老害」「あの晒しの件で人間性は分かったろ」——水増しの束は昼夜なく流れ、中立だった巣の連中の心を、一晩ずつ削った。戦闘に勝つたび、板では「ロロ派の暴力」になった。守るための決闘が「粛清」と呼ばれた。あたしたちは戦場で勝って、空気で負け続けた。
倉庫を守った翌朝、板にはこう書かれていた。
『ロロ派、物資倉庫を私物化』
『新体制の共有化を妨害』
『入り口で初心者を袋叩き』
初心者。あの入り口にいたのは、よく動く、よく準備した影派の前衛だった。けれど、板の中では初心者になった。あたしたちが三重に張った備えは「過剰防衛」になり、狸が足を払ったことは「一方的な暴力」になり、ロロさんの「俺の巣の台所なんだ」は「俺の私物だという発言」に書き換わった。
「レナちゃん、これ、訂正する?」
狸が聞いた。
あたしは、しばらく考えた。訂正したかった。けれど、訂正するには、あの板に入らないといけない。入れば、名前を出しても出さなくても、書き込みの海に足を入れることになる。
「……しません」
「うん。俺も、しないほうがいいと思う」
「でも、しないと」
「しないと、嘘が残るね」
狸は、そう言って、尻尾を一度だけ揺らした。
「すると、嘘に餌をあげることになる。どっちも、きついねえ」
橋を守った翌朝は、もっとひどかった。
『ロロ派、退路を塞いで逃亡者を川に落とす』
『橋の通行料を取っている』
『橋の人とか名乗る異常者がいる』
橋の人は、それを見て、しばらく黙った。
「異常者、ですか」
「違います」
「でも、橋の下に三日座ろうとしてたので、あまり反論できません」
本人がそう言って笑ったので、あたしたちも笑った。笑ったあと、誰も続けなかった。
勝つたびに、勝った場所の名前が汚れた。倉庫。橋。広場。談話室。守りたい場所ほど、板の上で悪い場所にされていく。あたしたちは、場所を守るために戦っているのに、場所の意味を削られていった。
そして、決定打は、巣の中から来た。
残っていた古参の一人が——悪意のない、疲れ切った顔で——幹部会議で言ったのだ。
「マスター。もう、いいよ。……ロロさんじゃ、もう、この巣は守れないよ。あんたが憎いんじゃない。あんたの名前に、もう、みんな疲れたんだ」
ロロさんは、その言葉には、言い返さなかった。
言い返さないロロさんを見て、あたしは、終わったのだと分かった。
——譲渡の日のことを、書いて、この章を終わりにする。
一月の半ばの、曇った日だった。
形式は、あっけなかった。ギルドマスターの権限が、ロロさんの手から、あの真新しいナナシへ移る。システムログが、一行流れる。それだけ。五か月の巣の相続が、井戸の桶ひとつ引き継ぐくらいの手数で終わった。
あとになって、狸が帳面の続きを調べて、ひとつ分かったことがある。あの外部の商会の貸し付け——最強装備の穴を埋めていた、あの借金は、新体制がギルドの資産ごと、そっくり引き継いでいた。作った借金で巣を弱らせ、弱った巣を、借金ごと丸ごと取る。あの帳面の入金は、最初から、買収の頭金だったのだ。……あたしたちが読んだのは出納の数字で、あの人が書いていたのは、筋書きだった。
新体制の最初の通達は、その晩のうちに出た。
『ギルドメンバーは今後、キャラクター名を「ナナシ」に統一すること』