カードアース
レナティア編 第七章 薄暮(3/3)
名前の禁止。あの巣の、最後の家訓の、ちょうど裏返しだった。
談話室に寄ったあたしは、隅の椅子が空になっていることに、気づいた。
スウィートちゃんが、いなかった。いつから居ないのか、誰に聞いても分からなかった。誰も、あの子がいなくなった瞬間を見ていない。ただ、椅子だけが、ぽつんと残っていた。……それが、あの日のあたしの、唯一の、ほんのかすかな救いだった。ロロさんの手元に、何かひとつくらいは、残ったのかもしれない、という。
ロロさんとは、港の石段で、最後に会った。
装備は、いつもの豪華なやつだった。マントの金は、夕方の光で、少しだけくすんで見えた。
「よ。二人とも。……ごめんね、いろいろ。世話係に、世話かけっぱなしだった」
「ロロさん。これから、どうするんですか」
「んー。旅にでも出よっかな。ほら、俺、実は強いって、バレちゃったし。武者修行? 的な?」
軽い。最後まで、軽い。この人の軽さが、開門からずっと、何百人の「ただいま」の屋根だったのだ。
「……ひとつだけ、聞いていい?」と狸が言った。「ロロさんは、後悔してる? 巣、作ったこと」
「するわけないでしょ」
即答だった。あたしがいつか、お嫁さんの話を断ったときと、同じ速さの。
「借り物の言葉で始めた巣でもさ。あの『ただいま』はぜんぶ、ほんものだった。前の夜の、あの声、聞いたでしょ。……あれ聞けたんだから、俺の五か月、勝ち逃げだよ」
ロロさんは立ち上がって、リュック(意外と小さかった)を背負い直して、それから、思い出したように振り返った。
「あ、そだ。レナティアさん」
「はい」
「キミ、最初に会った日、俺に聞いたよね。マスターでも名前を隠さないといけないんですか、って。……あのときの答え、覚えてる?」
「——名前がないと、呼べないから」
「そ。……だからさ、最後に、呼んでよ。はなむけに」
あたしは、息を吸った。夕方の港に、ちゃんと届く声で。
「ロロさん! ——お世話に、なりました! お元気で!」
「ん。いい呼び声。……ばいばい、レナティアさん、狸さん。いってきます」
ただいまの巣の主は、最後に、いってきますと言って、夕暮れの街道を歩いていった。あたしたちは、その背中に「いってらっしゃい」を言った。「おかえり」を言える日が来るのかは、誰にも分からないまま。
——あたしと狸は、その週のうちに、巣を出た。
名前を捨てろという通達は、巣の中の決まりだ。巣を出れば、届かない。あたしは、あたしの名前と一緒に、タグを外した。狸も、なんの未練もない顔で外した。未練もない顔ができる狸は、未練のあるとき、そういう顔をするのだ。
コーベを離れる人は、あたしたちだけではなかった。
港の転送所には、連日、街を出る人の列ができた。影派の島になったコーベに、居場所をなくした人たち。ナナシ統一の通達に馴染めない人。祭りのあとの白けに気づいた人。ただ疲れた人。行き先は、ばらばらだった。東の焼け残った街。山あいの小さな村。ログインしなくなる、という行き先を選ぶ人も、いた。
料理人のナナシと、転送所で行き合った。影派の炊き出しは、三日でやめたのだという。
「盛り付けの順番まで、板で決められるんだ。息が詰まってさ」
屋台ごと、東の街へ移るらしい。串焼き台が、荷車に縛りつけられていた。
「向こうでも、炊き出しですか」
「バフは要るからね。どこでも」
「焦げ栗は?」
「当たりとして持っていく」
盾職の人は、盾を三枚背負って、山の村の防衛依頼を受けに行くと言った。
「重くないですか」
「肩が死んでからが本番なので」
「まだ言ってるんですか」
「言い出しっぺの狸さんに責任を取ってもらいます」
狸は「俺、そんな教育したかなあ」と首をかしげていた。したと思う。
橋の人は、行き先を聞いても「橋のあるところ」としか言わなかった。この島に、橋のない街はない。それが答えなのだと、少し遅れて分かった。
全員が、きれいに別れを言えたわけではない。影派に残る人と、街を出る人が、転送所で隣り合ってしまうこともあった。気まずい沈黙。短い会釈。言いかけて飲み込む吹き出し。
「……向こうで、元気で」
「そっちも」
それだけの会話が、いちばん多かった。責める言葉は、思ったほど出なかった。みんな、責める力が残っていなかったのだと思う。
列のどこかで、噂がひとつ、回っていた。運営が、春に、新しい島を開くらしい。これから始める人のための、生活の島を。引っ越しの優遇も、つくらしい——。ほんとうかどうかは、誰も知らない。それでも、疲れた人たちの間を、その噂だけが、小さな灯りみたいに回っていた。
「春かあ」と、誰かが言った。「春までは、がんばるか」
春までは。その言い方が、あたしは、嫌いではなかった。
あたしと狸も、荷物をまとめた。まとめた荷物と一緒に、港の宿を転々としながら春を待った。三月一日、新しい島の門が開くと、あたしたちは最初の引っ越し船に乗った。
最後の晩は、二人きりの安宿で、取っておいた最後の串焼きアイテムを使った。観葉植物は、鉢ごと荷物に入っている。窓ぎわの指定席も、知らない顔ばかりになった談話室も、ここからは見えない。「ただいま」を言う場所は、もう、あたしたちの側にはなかった。
持っていけるものと、持っていけないものがあった。
観葉植物は、持っていけた。長靴は、狸が最後まで悩んだ。
「これ、冒険の証なんだよねえ」
「新しい街で、また釣ればいいです」
「同じ長靴は、二度と釣れないんだよ」
「長靴に一期一会を感じないでください」
結局、長靴は巣を出る日に談話室へ残してきた。飾り棚の札も、そのままにした。
狸氏、海より靴を得る。
誰が読むのかは分からない。読まれなくてもいいのだと思った。場所には、そういう意味のない札が、少しくらい残っていたほうがいい。
友達帳は、持っていけた。けれど、灰色になった名前は、灰色のままだった。ロロさんの欄も、倉庫番さんの欄も、スウィートちゃんの欄もない。そもそも書いていない人が多すぎた。名前を聞かないことは、やさしさだった。やさしさだったけれど、別れるときには、呼ぶ言葉が少なすぎた。
「……行こっか、レナちゃん」
「はい」
転送の光の中で、あたしは一度だけ振り返った。倉庫の上の、白いペンキの看板。CE7743。カードアース名無しさん。誰が来ても、ただいまって言えたはずの巣。
新しい街は、島の西の外れの、小さな港町だった。新しい島にも、コーベも、ほかの街もある。地図の形は、どの島も同じなのだ。でも、コーベの噴水を見たら、あたしはきっと、いろんなものを思い出してしまう。だから、地図のいちばん西の端を選んだ。静かで、風が乾いていて、空がすこし広かった。コーベの噂も、板の祭りも、ここまでは届かない。届かないだけで、消えたわけではないことを、あたしたちは知っていたけれど。
「新しい島、名前を登録し直すんだって。俺、何にしよう」
「たぬき、でいいんじゃないですか」
「安直」
「じゃ、昔のポンタに戻すかな」
「それも安直です」
「じゃあ間を取って、たぬポン」
「何と何の間ですか」
「採用ー。……でもレナちゃんは、たぬさんって呼ぶんでしょ」
「もちろんです」
こうして、新しい島での表示名だけが決まった。呼び方は、ひとつも変わらなかった。
あたしたちは、二人に戻った。
二人で始まって、二人に戻った。それだけ聞けば、黎明の頃と同じに聞こえる。でも、違うのだ。あの頃の二人は、これから増えていく二人だった。いまの二人は、たくさんのものを、置いてきた二人だった。
薄暮、というのは、黄昏よりもっと遅い、灯りのともる直前の時刻のことだと、古い本にあった。
いちばん暗い時刻の名前が「灯りの直前」であることを、あたしは、この冬の名前として、覚えておくことにする。