カードアース
タクト編 第八章(1/2)
タクト編 第八章
二〇一二年、春。
新しい島の朝は、蕎麦のアイコンから始まった——という報告書を、俺は割と気に入っている。
五鯖。例の移住優遇キャンペーンとともに、三月一日に開いた新設の島。開拓妻ならぬ開拓民たちに、うちは引っ越し特典として記念アイテムを配った。企画会議で「引っ越しといえば?」「蕎麦でしょう」という雑な決まり方をした「引っ越し蕎麦(使用すると一時間、家具の設置速度が上がる)」は、なぜか島の名物になり、新入りが来るたび、先住者が蕎麦を茹でるエモートで振る舞う文化が自然発生した。
巡回スタッフの報告書は、こう続く。
『移住者の定着率、九割超。島の空気は良好。良好すぎて、新規移住者が畑(生産区画)を勝手に割り当てられる、世話焼きの行きすぎが散見される。「まだ家も決めてないのに大根の種を渡された」との相談一件。対応: 大根アイテムは便利だったとのことで、相談は取り下げ』
村社会である。だが、悪くない村だ。ナナシ統一の通達に馴染めなかった人、祭りのあとの白けに疲れた人——あの冬に巣からこぼれて、それでも「春までは」と持ちこたえてくれた何千人が、この蕎麦の島で、新しい「ただいま」を始めていた。
巡回スタッフは、楽しそうに続報を書いてきた。
『中央広場で「引っ越し蕎麦品評会」発生。つゆの見た目と効果名で軽い論争。関東風、関西風、なぜかカレー風。荒れるかと思われたが、最終的に全員で大根をすりおろすエモートを出して解決』
『新規移住者がログイン直後に「どこへ行けばいいですか」と発言。三十秒で五人が迎えに来る。うち一名はレベルが低すぎて案内中に狼に噛まれる。移住者に助けられ、以後その二人で狩りに行くようになった模様』
『旧二鯖民同士で、名前を戻す儀式が流行。「ナナシ」から元の名前へ変更した瞬間、周囲が拍手する。泣いているプレイヤーあり』
報告書に「泣いているプレイヤーあり」と書くスタッフは、たいてい本人も少し泣いている。俺はそういう報告書を、消さずに保存することにしている。数字だけでは、出口の灯りがどのくらい暖かいかは分からない。
カミエさんは、蕎麦品評会のログを読んで、珍しく笑った。
「二鯖の板では、五鯖は運営の犬の島ということになっています」
「犬は蕎麦を食わないでしょう」
「大根は食べるかもしれません」
「そこはどうでもいいです」
どうでもいい会話ができる島は、まだ大丈夫だ。俺たちは、そういうものを作りたかったのだと思う。
出口の灯りは、点けておいてよかった。
だが、俺の仕事は、まだ半分だった。灯りに歩ける人は、灯りで救える。問題は——檻の中に残った島のほうだ。
——二鯖の観測報告を、毎朝カミエさんと読む日々が続いていた。
数字は、素直だった。人口、三割減。経済、停滞。新規流入、ほぼゼロ。あの島はいまや「CE7743-2」——影派の一枚看板で、キャラクター名はナナシに統一され、板の空気だけが元気だった。
そして、板では、新しい祭りが始まっていた。標的は——うちだ。
『運営が二鯖を殺した』
『移住優遇とかいう住民追い出し施策』
『五鯖は運営の犬の島』
『俺たちは棄てられた』
例の、文体の狭い、間隔の規則正しい、深夜の束。影の反撃だった。営業妨害としては、教科書どおりの手口。何年か前のうちなら、炎上していただろう。
効かなかった。
理由は三つある、とカミエさんは分析した。第一に、燃やすための薪——本物の不満が、島の外に少ない。五鯖の移住者は現に快適で、蕎麦を食っている。第二に、うちは開店からこっち、告知と謝罪を先回りで出し続けてきた。祭りは薪がないと燃えない。薪になりそうな不手際を、こちらが先に拾って公表してしまえば、板には燃えかすしか残らない。第三に——
「第三に、水増しが、雑になっています」
カミエさんは、抽出データを俺の机に置いた。
「書き込みの間隔が短くなり、文体の使い分けが崩れています。『俺も』『俺も俺も』の連投比率が異常値です。……焦っている、と読みます。世論工作は本来、時間をかけて染み込ませる技術です。それが今は、量で殴っている。職人が、腕を落としています」
焦る理由は、こちらの打った次の一手にあった。
——修羅の解放、である。
説明しよう。CE2のレベル九十九は、物語の終点だ。二月末に配信されたメインストーリーの最終章は、レベル九十九で読み終わる。大多数のプレイヤーはそこで満足する。その先——レベル百は、尋常でない経験値と専用の試練を越えた者だけが踏み込む別世界で、うちの社内ではこの層を「修羅」と呼んでいた。
修羅たちのために、うちは三月一日、二つの扉を同時に開けた。
ひとつは、「怨恨」。レベル百専用の、対人エンドコンテンツだ。どの島からでも参加できる、完全ランダムマッチの戦場。装備の格差もレベルの端数も戦場側で平されるから、勝敗を決めるのは、腕と、読みと、その日の連携だけ。報酬は最強の武器——ではなく、専用のコスチュームと、勝者の名が刻まれる石碑。つまり、名誉だ。九十九までの世界がテーマパークなら、怨恨は、あえて用意した果たし合いの庭である。殺し合いたい客の、最後の、行儀のいい受け皿として。
もうひとつが、移住優遇の本格版——例の、抽斗の企画書の完成形だ。
告知文は、三回書き直した。
一稿目は、真面目すぎた。『過疎サーバの活性化を目的として』などと書いてある。誰が読むのか。二稿目は、煽りすぎた。『古い島の猛者たちよ、新天地で名を刻め』。カミエさんに「タクトさんの中の高校生が出ています」と言われ、没にした。
三稿目で、ようやく落ち着いた。
『レベル百到達者のみなさまへ。対人エンドコンテンツ「怨恨」を解放します。あわせて、二鯖および五鯖への移住費用を期間限定で減免し、装備倉庫の移送も支援します。これまで戦う相手に飢えていた方は、どうぞ』
「最後の一文、煽ってませんか」
「事実です」
「事実で殴るのがいちばん痛いんです」
その通りだったが、残した。
狙いは単純だ。一鯖には、解放からほどなくレベル百へ駆け上がる化け物が、最速組だけでも数十人いる。かたや二鯖は、あの内紛の冬で育成が止まり、レベル百どころか、九十九の主戦力すら痩せている。怨恨で腕の鳴った修羅たちに、うちはもう一枚、地図を見せた。——二鯖には、都市がある。酒場の看板と世界地図に名前の載る、ゲームが公式に認めた名誉の領土が。いまの持ち主は、数だけ多い「統一王朝」。……どちらが勝つかは、七年前に一鯖の頂点だった男として、考えるまでもなかった。
「えげつない施策ですね」とカミエさんが言った。「匿名の王国に、名前つきの強者を入植させる」
「人聞きが悪い。人口調整です。ついでに言えば、七年前にCE1で同じことが起きてたら、俺は喜んで移住した側だ」
説明会も開いた。一鯖のレベル百たちは、案の定、質問の方向がおかしかった。
『二鯖の人間を倒したら板で悪口を書かれますか』
「書かれるでしょうね」
『運営は守ってくれますか』
「規約違反なら対応します。悪口だけなら、自分で勝って黙らせてください」
『五鯖は蕎麦が出ると聞きました』
「出ます」
『二鯖は?』
「出ません」
『では五鯖に行きます』
戦争目的ではなく蕎麦目的で移住先を決める修羅が、実際に数名いた。怨恨はどの島からでも入れるから、それで何も困らないのである。人間は合理的ではない。だからゲームは面白い。
別の男は、こう聞いた。
『名前は変えなくていいんだな』
「変えなくていい。むしろ、その名前で来てください」
『なら行く』
その短い返事が、俺にはいちばん頼もしかった。匿名の島に、名前を背負った人間が入る。こちらが用意したのは移住費の割引と戦場だけだが、実際に風を吹かせるのは、そういう連中だった。
結果は、報告書の数字が語った。一鯖の有名どころ——名前を出して戦うことを恐れない、板の世論などまるで気にしない鉄砲玉たち——が、レベル百の条件を満たすそばから二鯖へなだれ込んだ。狙いは、都市戦。この島に最初からあった、看板と地図の取り合いだ。CE7743-2は「全島統一」の看板を掲げて迎え撃ち、そして、負け続けた。水増しの世論は、レベル百の斬撃を一ミリも減らせなかった。板で「あいつは実は弱い」と千回書かれた移住者が、戦場で千回勝った。
ログは、痛快なくらい残酷だった。
『都市戦・関東の中核都市。移住者連合、CE7743-2の守備隊を撃破。酒場の看板、掛け替え』
『都市戦・旧倉庫街。防衛側、三度目の撤退』
『関東圏三都市の支配権、名前つきギルドへ移動。世界地図、更新』
数だけなら、影派のほうが多い。だが、数が多いだけの軍は、統率が切れるとただの渋滞になる。一鯖の修羅たちは、渋滞のすき間を知っていた。かつてヤエスで人間の群れを相手にしてきた連中だ。回復役を見つけ、指揮役を潰し、逃げ道を塞ぐ。戦場の勝ち方が、板の勝ち方と違うことを、彼らは毎晩のように証明した。
板では、すぐに言い訳が並んだ。
『一鯖廃人は運営に優遇されている』
『あいつら装備がおかしい』
『人数が少ないから負けたわけではない。たまたま』
たまたまは、十七回続くと、だいたい実力である。
面白かったのは、五鯖にも修羅が流れたことだ。そちらでは、怨恨帰りの血まみれの連中が蕎麦を食わされていた。戦場で相手を三十人倒した男が、広場で「大根、いります?」と聞かれて固まる。報告書には「修羅、村社会に敗北」とあった。俺はその一文に丸をつけた。
支配というものは、勝ち続けることでしか維持できない。関東圏——あの島の中枢部の支配権が剥がれ落ちるまで、ふた月かからなかった。
そのふた月の間に、レナティアの記録で「コルセット」と呼ばれていた女——報告書ではアカウント識別子で記された彼女——のことも、何度か出てきた。以後ここでは、俺たちが知る呼び名で書く。
最初は、影派の集会での発言だった。『影さんの判断は正しいと思います』。次は、都市戦で影派の回復役として。さらに次は、板で、妙に影の言葉に近い言い回しを使う支援書き込みとして。
「この人は、影に近づいていますね」
カミエさんはそう言った。
「規約上は」
「何もありません。強い派閥に寄ることも、掲示板で褒めることも、恋をすることも、規約違反ではありません」
「恋なんですか」
「さあ。ただ、特別な相手になりたがっているようには見えます」
特別になりたい。強い誰かの隣に立ちたい。ゲームの中では、珍しくもない欲望だ。珍しくない欲望だから、厄介でもある。珍しくないものを、運営は止められない。
コルセットは、戦場では相変わらずうまかった。回復の切り替え、逃げるタイミング、負け戦から価値のあるログだけを拾って帰る嗅覚。彼女がいる戦線は、影派が負けても、負け方が少しだけ綺麗になった。本人は、その綺麗さを手柄として、影に見せたかったのかもしれない。
——そして、あの事件が起きる。
最初の報せは、通報窓口だった。
『匿名掲示板に、個人情報を晒すスレッドが立っています。対象は……「影」です』
俺とカミエさんは、顔を見合わせた。これまで晒しに遭ったプレイヤーたちが、黒幕として何度も挙げてきた名前だった。けれど、その名前自身が晒しの標的になるのは、初めてだった。
スレッドには、こうあった。本名とされる氏名。年齢。居住地域。職歴。そして、書き込み主の言葉——
『ソースは本人。会った女が喋った』
……調査班の報告と、板の流れを突き合わせて、経緯はこう再構成された。
影は、この冬から春までの間に、一人の女性プレイヤーと、ゲームの外で会っていた。会って、その、つまり——男女の仲になっていた。相手は、影派の中枢に出入りしていた、回復職の女性。報告書は職業柄そっけないが、俺には、板の古い書き込みの海から、その人の輪郭が拾えた。強い男の隣を、渡り歩いてきた人。いつも、その時々の王の隣で笑っていた人。
その人は、会えたのだ。誰も会えなかった匿名の王に。顔を見て、名前を聞いて、たぶん、本人確認までした。王のほうも、魔が差したのか、王座の孤独のせいか、それを許した。
そして彼女は——自慢した。
悪意ですらなかったのだと思う。ただ、言いたかったのだ。あたしは特別なのだと。あの影に、会ったのだと。閨の中の睦言みたいな細部を、ごく親しい(と彼女が思っていた)数人に。数人は数十人に囁き、数十人の中に、影に恨みを持つ者がいて、板にスレッドが立った。
匿名の王の権威は、その日から、音を立てて崩れた。
力学は、単純だった。影は、誰だかわからないから、王だったのだ。実体のない声だから、百人にも千人にもなれた。夜の板の海流そのものだから、逆らえなかった。それが——氏名と年齢と職歴を持った、一人の中年男(とスレッドは断じていた。真偽は最後まで不明だ)に、なった。
人間になった王に、板は容赦しなかった。
これまで影に潰されてきた者たちの怨嗟。事実か作り話か判別のつかない暴露。文体分析ごっこ。「あの書き込みも影」「この書き込みも影」——影が磨き上げた祭りの手口が、そっくりそのまま、影に向いた。水増しの群れは主人を守らなかった。当然だ。あの群れは最初から、一人だったのだから。
影の書き込み(と観測される癖)は、日に日に減った。
最後の観測は、春の終わりの深夜。二鯖関連のスレッドに、短い書き込みがひとつ。
『もういい。全部、くだらん』
文体は、長年の観測と一致した。それきり、あの癖は、板からも、島からも、二度と観測されなかった。ゲーム内の関連アカウント群は、ログインが途絶え、規約どおり、順に休眠へ落ちた。
CE7743-2は、王を失って空中分解し、看板は下ろされ、あの島の関東は、いまは名前つきの移住者ギルドが治めている。……CE7743の名を継ぐ小さなギルドが、島の隅で細々と続いているという報告もあるが、それはもう、俺たちの観測対象ではない。
——コルセット、と呼ばれていたその女性の後日談も、報告書には載っていた。
板の祭りは、影を焼き終えると、火元の彼女に燃え移った。「喋った女」として。彼女がかつて隣に立った男たちの数が、根も葉もある形とない形で数え上げられ、囃され、そして——彼女は、島を去った。アカウントは休眠。復帰の記録は、ない。
俺はその報告書を、長いこと、机に置いていた。