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レナティア編 第八章 宵闇(1/2)
レナティア編 第八章 宵闇
新しい島に着いた翌朝、二人は知らないおばあさんに大根の種を渡された。
「え、あの、わたしたち、まだ家も決めてなくて」
「畑は先に決まったから」
決まったから、で種を渡される島だった。呆気にとられて、それから、二人でずいぶん笑った。運営に「困ります」と相談を送り、育てた大根が甘かったので、あとで取り下げた。移住の初日に配られた「引っ越し蕎麦」は、家具の設置が一時間だけ速くなる愉快な品で、蕎麦そのものは荷ほどきの三日間、二人の食卓に残った。
五鯖は、そういう島だった。
二人が暮らし始めた西端の港町は、小さくて、風が乾いていて、人が少なくて、少ないぶん、顔なじみになるのが早い。露店の場所で誰だか分かる。畑の育ち方で最近ログインしてないのが分かる。「ただいま」の巣はもうないけれど、町ぜんぶが、ゆるい親戚みたいだった。
朝は、畑から始まった。
大根に水をやる。水をやると、葉っぱが少しだけ揺れる。揺れ方で、今日の機嫌が分かる——と言ったのは狸で、もちろんそんな仕様はない。ないはずなのに、二人は毎朝、葉っぱの揺れを見て、今日はご機嫌ですね、とか、今日は寝起きが悪いですね、とか言った。
「レナちゃん、この大根、昨日より反抗的じゃない?」
「反抗的な大根とは」
「葉っぱが、こう、斜に構えてる」
「水が足りないだけです」
畑の隣の家の人は、毎朝かならず同じ時間に洗濯物を干した。露店の鍛冶屋は、槌を三回鳴らしてから店を開いた。港の猫は、蕎麦屋の前で寝ていた。この町は人が少ないから、そういう小さな反復がよく見えた。大きな巣で見落としていたものばかりが、ここでは目に入る。
家具を置き終えたあとも、狸は蕎麦を食べた。
「もう家具、動きませんよ」
「でも蕎麦は伸びる」
「そこに意味はありますか」
「意味のないものが貼ってある場所は大事、って言ったの誰だっけ」
「それを蕎麦で回収しないでください」
新しい島は、そういうどうでもいいことで、一日がちゃんと埋まった。
レナティアと狸は、そこで、残りの物語を進めた。
メインストーリー。世界の危機と、古い神々と、答えのようなもの。二人はもう充分に強かったから、道のりに危なげはなくて、そのぶん、景色を拾いながら歩けた。
世界を救う旅なのに、道中は妙に生活じみていた。
古代神殿へ向かう前に、山の村で水車を直した。空に穴が開いたというのに、村人は粉を挽けないことに困っていた。狸は「世界の危機より今夜のパン」と言い、レナティアはその言い方に妙に納得した。
砂漠の王墓へ行く途中では、迷子の羊を三匹探した。羊は一匹目が井戸の陰、二匹目が屋根の上、三匹目がなぜかボス部屋の手前にいた。
「羊、強いですね」
「俺たちより先にボス前まで来てるからね」
氷の谷では、古い神々の封印を解く鍵を探している最中に、狸が温泉を見つけた。寄り道した。寄り道したら、温泉の底に鍵があった。
「ほら、寄り道は正義」
「たまたまです」
「正義は、だいたいたまたま」
そうやって、世界の危機と大根の水やりは、同じ日記の中に並んだ。今日は古代神の眷属を倒しました。帰って大根に水をやりました。葉っぱは反抗的でした。どれも嘘ではない。
メインストーリーの、最終章の決戦の前夜。キャンプの焚き火で、狸が言った。
「思えば遠くへ来たもんだねえ。コーベの、勇者様募集から」
「募集して、よかったです。ちゃんと、来てくれたので」
「勇者じゃないけどね、俺」
「もう、細かいことはいいんです」
世界は、翌日、無事に救われた。
エンディングというものを、レナティアは初めて見た。長い長い物語の幕が下りて、お疲れさまでした、の文字が出て、静かな音楽が流れて——そして、画面はまた、いつもの島に戻った。
世界を救っても、大根は育つし、蕎麦は伸びる。
「……ねえ、たぬさん。あたしたち、明日から、何をしましょうね」
「んー。それなんだよねえ」
焚き火の残りを眺めながら、狸は、めずらしく、すぐにボケなかった。
——「その先」は、島の丘の上にあった。
修羅の門。レベル九十九の、その先。くぐればレベル百への長い試練と、「怨恨」と呼ばれる終わらない戦争が待っている場所。物語を読み終えた者だけが選べる、最後の分かれ道。
レナティアは、門の前に、何度も足を運んだ。
自分でも、うまく説明できなかった。ゆるい冒険が好きだ。それは嘘じゃない。でも、あの冬からずっと、胸の底に、火の消え残りみたいなものがあった。守れなかった巣。呼べなかった名前。板の水増しに、空気で負け続けた日々。——もっと強ければ、と、あのとき何度思ったか。その「もっと」の行き場が、この門の向こうにしか、見当たらなかった。
「レナちゃんは、行きたいんでしょ、そこ」
ある晩、狸が、先に言った。
「……はい。たぶん。……たぬさんは」
「俺はねえ。——俺は、九十九で止まる」
狸は、まるいお腹を、ぽんと叩いた。
「俺の遊びはさ、もう完成してるんだよ。レナちゃんと日課やって、寄り道して、たまに死んで、笑って。九十九レベルぶんの、いい旅だった。この上に何かを足すと、こぼれる気がするの。……でも、レナちゃんのは、まだ完成してない。でしょ?」
「……はい」
「なら、行っておいで。いってらっしゃい」
いつかの誰かの言葉と同じ形を、狸は、笑って言った。
長い試練を越えて、レナティアのレベルは百になった。
——怨恨の話を、少しだけする。
門の向こうは、噂どおりの焼け跡だった。テーマパークの外側。安全も、日課も、筋書きもない、取り合いの荒野。最初の一週間で、レナティアは五十回死んだ。五十一回目から、勝ちはじめた。
あの世界の住人たちは、単純で、強くて、そして驚くほど、話が通じなかった。
「よう、祈り手。今日も来たか。やるか」
「こんにちは。やりましょう」
「死ね!」
「死にません」
挨拶が開戦。会話が戦闘。あそこの共通言語は、戦果だけだった。板もない。世論もない。水増しする意味のある「数」が、そもそもない。一対一で、殴って、殴られて、強いほうが勝つ。——それは、あの冬の戦争の対極にある、奇妙に清潔な暴力だった。誰も裏切らない。裏切る「関係」が、最初からないので。
怨恨の常連たちは、みんな雑だった。
「祈り手、今日どっち?」
「北門です」
「じゃあ敵だな。死ね!」
「死にません」
昨日まで隣で戦っていた人が、今日はこちらを殴ってくる。明日にはまた隣に戻る。そこに裏切られた感じはなかった。門が違う。それだけ。料理人が今日は蕎麦を出し、明日は串を出すくらいの違いとして、彼らは殺し合った。
最初のころ、レナティアは何度も、戦闘後に礼を言った。
「ありがとうございました」
「礼はいらん。死ね」
「もう死にました」
「じゃあ生きろ」
励まされたのか、挑発されたのか、いまでも分からない。けれど、その人とは何度も戦った。勝ったり負けたりしているうちに、向こうはレナティアの氷の癖を覚え、こちらは相手の溜め攻撃の前に肩が沈むのを覚えた。名前はない。名前はないまま、癖だけが増えていく。
怨恨の休憩所は、戦場の端にあった。壊れた石壁の陰に、焚き火と修理台と、誰かが勝手に置いた椅子がある。敵味方が同じ焚き火に当たり、回復薬の値段に文句を言い、次の瞬間には外で殴り合う。
「祈り手、また来たのか」
「来ました」
「お前、戦争嫌いそうな顔してるのにな」
「嫌いです」
「じゃあなんで来る」
「……強くなりたいので」
「なら好きになるなよ。嫌いなまま強くなれ」
その言葉は、怨恨の住人にしては、ずいぶんまともだった。まともすぎて、レナティアは返事に困った。
レナティアは、強くなった。
備えの祈りは戦場で完成し、氷は鋭くなり、「不敗の祈り手」だの「白い門番」だの、覚えきれない二つ名がついた。強くなるたび、胸の底の消え残りが、少しずつ小さくなる——気が、した。気がするだけで、火が消えた朝は、一度も来なかったけれど。
二つ名は、勝手についた。
最初は「死なない祈り手」だった。これは分かる。死ななかったからだ。次に「白い門番」。これも、門の前でよく戦っていたので、まだ分かる。三つ目に「大根」が来た。
「大根?」
「お前、休憩所で大根煮てただろ」
「煮ていました」
「戦場で大根煮るやつ、ほかにいない」
「……それは、強さと関係ありますか」
「ない。だから覚えやすい」
怨恨の住人は、戦果以外を覚えないようでいて、変なところだけ覚える。レナティアはその日から、敵陣の端で「大根来たぞ」と言われるようになった。白い門番より、そちらのほうが広まった。
「死ね、大根!」
「死にません」
「煮えろ!」
「煮えません」
清潔な暴力にも、くだらない呼び名はある。くだらない呼び名があるうちは、まだ、人がいた。
ある晩、北門を守り切ったあと、休憩所の焚き火で、大根を配った。敵だった人も、味方だった人も、同じ椅子に座って受け取った。
「味しないけど、なんかうまいな」
「雰囲気です」
「雰囲気か。戦争に足りないやつだ」
その人は、そう言って、翌日また「死ね」と言った。レナティアは「死にません」と返した。あそこでは、それが挨拶だった。
そして、強くなった分だけ、島の時間が、狸とずれていった。
怨恨の戦場は深夜が本番で、狸の日課は夕方だった。レナティアが戦から戻る頃、友達帳の狸の欄は、もう灰色だった。すれ違いの挨拶だけが帳面にたまっていく。「今日は大根の二回目の収穫でしたー」「おめでとうございます。あたしは今日、三十連勝でした」「つよ! 何と戦ってるの、レナちゃん」——何と、戦っているんだろうね、と、送信してから自分でも思った。
帳面のログは、だんだん短くなった。
『今日、蕎麦屋の猫が増えてました』
『見たいです。明日、見に行きます』
翌日。
『猫、もういなかったー』
『残念です』
また別の日。
『大根、三本だけ変な形になった。レナちゃん好きそう』
『見たいです』
『今度残しとく』
今度、は、少しずつ遠くなる。
狸は夕方に、島の小さな出来事を送ってくる。蕎麦屋の猫。変な大根。露店の新しい看板。レナティアは深夜に、戦場の出来事を返す。北門を取った。南壁を守った。今日も死にませんでした。二つの島のように、同じ島の時間が離れていった。
それでも、たまに時間が合うと、二人は日課をした。
「レナちゃん、強くなりすぎて、薬草採るの速いね」
「薬草採取に強さは関係ありません」
「でも、薬草が怯えてる」
「薬草は怯えません」
いつもの会話はできた。できるから、まだ大丈夫だと思えた。大丈夫なものほど、壊れる直前まで、普通の形をしている。
狸のログインは、少しずつ、間遠になった。
「仕事が忙しくてさー」と狸は言った。その言い方が、いつかの、うまい笑い方に似ていることに、レナティアは気づいていて、気づかないふりをした。
約束が、少しずつ小さくなった。
最初は、灯台に行こう、だった。日を決めて、時間を決めて、レナティアは戦場を早めに切り上げた。井戸の前で待った。狸は来なかった。翌朝、帳面に「ごめん寝てた!」と入っていた。
『大丈夫です。また今度行きましょう』
『今度こそ!』
今度こそ、は、来た。来たけれど、灯台ではなく、畑の水やりだけで終わった。二人とも眠かった。眠いですね、と笑って、その日はログアウトした。
次は、祭りに行こう、だった。村祭りの屋台で、りんご飴が出ると聞いたからだ。レナティアは先に行って、りんご飴を二本買った。一本は自分のぶん。一本は狸のぶん。狸は遅れて来た。来たときには、祭りの太鼓は終わっていた。
「ごめんねえ、レナちゃん。現実のほうで、ちょっと」
「はい。大丈夫です。りんご飴、まだあります」
「冷めてる?」
「もともと冷たいです」
「そっか。りんご飴、えらいな」
二人で食べた。味はしない。けれど、棒を持って歩くことはできた。祭りのあと片づけの道を、二人で歩いた。楽しかった。楽しかったからこそ、終わった祭りの明るさが、少しだけ痛かった。
その次は、約束をしなくなった。
「今度、時間合ったら」
「はい。合ったら」
合ったら、という言葉はやさしい。やさしいぶん、何も決めない。決めないものは、壊れないかわりに、始まらない。
——あの晩のことを、書かないわけにはいかない。
初夏の、ひさしぶりに時間の合った晩だった。二人で島の灯台まで歩いて、昔みたいに、海を見た。ジビエの串はもう売っていなかったから、大根の煮たのを持っていった。
その帰り道で、狸が、ふいに言ったのだ。
「ね、レナちゃん。——会わない? リアルで」
波の音が、一往復した。
「たぬさんと、ですか」
「うん。ほら、俺たちさ……長いじゃない。……いや、暦の上では、長くないのか。一年足らずとか、そこらか。でも俺の中では、もう、ずーっと一緒にいた感じがするんだよね。で、その、最近さ、ゲームの中だと、話せないことが増えてきた気がするんだよ。ゲームの中では言えないような話を、さ。会って、したいなあって」
「……ゲームの中で言えない話って、なんですか」
「それは、会ってから言うやつだから、言えないんだなあ、これが」
冗談の形をした、冗談じゃないやつだった。レナティアは、答えを持っていなかった。持っていないまま、口が動いた。
「ごめんなさい」
「……ん」
「あたし、あたしは……ここのあたしの、ままがいいんです。たぬさんの前では」
うまく、言えなかった。うまく言えないことだけが、本心の証拠みたいだった。
狸は、しばらく黙って歩いて、それから、めずらしく食い下がった。
「あのさ。俺、べつに、何でもいいんだよ? レナちゃんが、その、実は……本当は18歳の女の子じゃない、とかでも、全然いいから。おじさんでも、おばあちゃんでも、なんなら大根でも。俺はただ、この、一年足らずで人生でいちばんになった相棒に、一回、現実で、ありがとうって言いた——」
「それでも、です」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「たぬさんが何でもいいって言ってくれるの、うれしいです。ほんとです。でも……あたしが、やなんです。画面のこっち側のあたしを、たぬさんとの、あの毎日に、持ち込みたくないんです。たぬさんの隣にいたのは、レナティアです。レナティアの、ままで、いさせてください」
波が、もう二往復した。
「……そっかあ」
狸の声は、怒っていなかった。責めてもいなかった。ただ、とても、静かだった。