星猫くるるHOSHINEKO KURURU

カードアース

レナティア編 第八章 宵闇(2/2)

「うん。分かった。ごめんね、困らせて。——忘れて。今の、なし!」

 なしにできないことを、なしと言う優しさで、その夜は終わった。

 それからの狸は、前と同じに接してくれた。前と同じに冗談を言い、前と同じに「レナちゃん」と呼んだ。前と同じであろうとする気配だけが、前と違った。ログインの間隔は、週にいくつかから、月にいくつかになった。

 最後の晩のことは、短く書く。

 六月のはじめの、夕方だった。狸は、いつもの噴水……はもうない、島の井戸の前で、いつものテンションで手を振った。

「どももー。ひさしぶりー。……あのね、レナちゃん。俺、しばらく、来られなくなりそう」

「……お仕事、ですか」

「んー、まあ、いろいろ! 大人はいろいろあるのです。……でさ、これ、あげとく」

 狸が寄越したのは、一本の剣だった。よく使い込まれた、大ぶりの片手剣。この島に来た日から——ううん、コーベで出会った日からずっと、狸の利き手にあったやつ。

「たぬさん、これ」

「持っててよ。俺の相棒の一号。……で、約束ね。またカードアース3が出たら、一緒に遊ぼうね。三が出たら、だよ。噂じゃ、そのうち出るらしいから。そしたら俺、新品の狸で来るから、レナちゃん、また友達帳の一行目、書いてよ」

「……はい。約束です。一行目、空けておきます」

「うん。——じゃ、いってきます」

 いつかの誰かと同じ言葉で、狸は、ログアウトの光になった。

 友達帳の狸の欄は、それきり、灰色のままになった。

 レナティアは、それからも島にいた。怨恨に通う足は自然と遠のいて、メインストーリーの更新があるときだけ戻る人になって、大根は、毎年ちゃんと育てた。井戸の前を通るたび、帳面の灰色を見るたび、胸の底の消え残りは——不思議と、もう、熱くなかった。火は、いつのまにか、別のものになっていた。たぶん、待つための、灯りに。

 ——朝市で、狸がりんご飴を三本買ってきた。

「はい、レナちゃんの。はい、マイちゃんの。はい、俺の」

「たぬさん、朝からりんご飴は、どうかと思います」

「デザートに朝も夜もないんだなあ」

 市場は焼きたてのパイの匂いがして、空は高く、マイちゃんは「ん! 甘い(気がする)!」と羽をふくらませた。三人はその日、南の岬まで歩いて、灯台の螺旋階段を上って、海がまるいことを確認して帰ってきた。それだけの、上等な一日だった。

 朝市では、狸がりんご飴のほかに、変なものをいくつも買った。

 星形のせんべい。音だけが派手な笛。食べると舌が青くなる(ように見える)菓子。マイちゃんは、青い舌を見せようとして、そもそも舌をどう見せればいいのか分からず、羽だけをばたばたさせた。

「マイちゃん、今の、アイドル的にはありなの?」

「ん。たぶん、切り抜き禁止」

「自分で言えるの、えらいねえ」

 狸は笑い、レナティアも笑った。笑いながら、さっきまで灰色だった友達帳のことを、思い出さなかったわけではない。思い出して、それでも、いま目の前にいる狸のほうを見た。説明はなかった。けれど、りんご飴の赤は、説明がなくても赤かった。

 灯台へ向かう道は、海沿いを大きく回る遊歩道だった。途中に、誰が置いたのか分からない小さなベンチがあり、狸は毎回座った。

「全部のベンチに座る実績、あるかもしれない」

「ありそうで、いやですね」

「称号は『腰掛けの王』」

「要りません」

 マイちゃんはベンチの背に立って、風を受けていた。黒い服の裾がひらひら揺れる。遠くから見ると、海鳥みたいだった。近くで見ると、本人は真剣にバランスを取っているだけだった。

 灯台の螺旋階段は、上ると少し息が切れる仕様だった。狸は三階あたりで「俺、いま現実でも息切れしてる気がする」と言い、レナティアは「それは気のせいです」と言った。マイちゃんは途中で一度、階段の内側を飛ぼうとして、禁止区域の見えない壁にこつんとぶつかった。

「ん。飛べない」

「階段を使いましょう」

「文明の敗北だねえ」

 頂上から見た海は、ほんとうに広かった。広いだけで、何かが解決するわけではない。けれど、広いものを三人で見ると、胸の中の狭いところが、少しだけほどけた。

 ——お茶会の日は、よく晴れていた。

 約束の茶菓子(いちご大福。レナティアが今年いちばん信頼している店のもの)を提げて、約束の庭園のテラスへ行くと、赤い髪の人が、先に来て、所在なさげに座っていた。

「サナナさん、こんにちは^^」

「お、おう。……悪いな、呼ばれといて先に固まってた。女子会だか編集係会だか、よく分かんない会だなと思ってさ」

「おいしいものを食べる会、です。はい、これ」

 いちご大福は、サナナさんの目をすこし丸くさせた。「オレ、味しないんだけどな」「香りは届くって聞きました。それに、半分は雰囲気です」「……食うわ」

 とりとめのない話を、しばらくした。配信のこと。編集の腕前のこと。マイちゃんの着地運のこと。サナナさんは面白い人で、話の間合いがよかった。いちご大福を三口で終え、四つ目の話題が途切れたとき、庭園の噴水だけが、しばらく喋っていた。

「マイちゃん、また着地に失敗してましたね」

「あいつ、羽あるのに落ちるんだよな」

「羽があるから、着地の責任が重いのかもしれません」

「責任で落ちてるのかよ」

 サナナさんは笑った。笑うとき、少しだけ肩の力が抜ける。けれど、すぐまた指先が湯呑みの縁をなぞった。何かを言おうとして、編集でカットするみたいに、何度も自分の言葉を飲み込んでいるのが分かった。

「編集って、どこを残すか、迷いますか」

「迷う。迷うけど、迷ったところはだいたい残す。迷うってことは、なんか引っかかってるってことだから」

「では、迷わないところは?」

「切る。説明だけのところとか、無難に丸めたところとか。見てる人は、こっちが安全にした瞬間、だいたい分かる」

 サナナさんは、言ってから、しまった、みたいな顔をした。自分の話が、自分に返ってきた顔だった。

「……今の、仕事の話な」

「はい。仕事の話です^^」

 レナティアは、そう返した。そう返すのが、いちばん余計なことを言わない返事だった。

「……なあ。レナティアさんはさ」

 サナナさんは、噴水を見たまま言った。

「狸さんと、長いんだろ。その、ずっと二人で。……ケンカとか、しないの。壊れそうになったこと、ないの」

 質問の形をした、質問じゃないやつだった。いつかの夜道の狸と、同じ形。

 レナティアは、湯呑みを両手で包んで、少し考えて、正直に話すことにした。

「あります。……というより、あたしたち、一度、終わってるんです」

「————は?」

「昔の話です。あたしが戦争ばかりして、すれ違って。たぬさんに『会いたい』って言われて、あたし、断って。たぬさんは『また今度、一緒に遊ぼうね』って言って、いなくなって。……友達帳のたぬさんの欄、ずっと灰色でした。長いこと」

 サナナさんは、いちご大福の最後のかけらを持ったまま、固まっていた。

「いや、待て。でも、あんたら、こないだの七夕も、その、普通に」

「はい。いまは、隣にいます」

「……何があったんだ? どうやって、その」

「——気づいたら、また隣にいました」

 我ながら、説明になっていない説明だった。でも、それ以上うまくは言えないのだ。どこからどう話しても、あの長い灰色と、いまの隣が、一本の線でつながってくれない。つながらないまま、隣は、隣としてある。それが、いまのレナティアの、ぜんぶだった。

「なんだよ、それ」

「なんなんでしょうね^^」

「笑いごとか?」

「笑いごとに、しておくんです。……サナナさん。あのとき、あたしが『会わない』って言ったの、いまでも、正しかったのか分からないんです。ただ、あとになって、ひとつだけ分かったことがあって」

 レナティアは、湯呑みを置いた。

「あたし、あのとき——たぬさんとの関係が壊れるのが、怖かったのかもね、って。会って、画面のこっちの何もかもを見せて、それで、あの毎日が変な色になるのが、怖かった。断ったのは、たぬさんを大事にしてたからじゃなくて、大事なものが変わっちゃうのが、怖かっただけなのかもって。……怖くて動かないのと、大事だから動かないのって、外から見ると、同じ形をしてるんです。ずるいですよね」

 サナナさんは、長いこと、黙っていた。

 噴水が、もうひと回り喋った。

「……オレも」

 ぽつり、と。

「オレも、たぶん、怖い。……言ったら、壊れるかもしれないものが、あって。五十人ぶんの『ただいま』とか、二年ぶんの、いろいろとか。だから、音量ゼロで、置いてある」

「はい」

「置いとくのって、だめかな」

「だめじゃないです。あたしは、十五年、置きました」

 レナティアは、笑った。笑って、それから、これだけは言っておこうと決めていたことを、言った。

「でも、ひとつだけ。……たぬさんがいなくなった日、あたし、思ったんです。置いておいた言葉って、渡す相手がログインしてるうちしか、渡せないんですよ。当たり前なんですけど。当たり前って、いつも、いちばん あとから 効いてくるんです」

 サナナさんは、空になった大福の包みを、きれいに畳んで、ポケットにしまった。

「……茶菓子、うまかったわ。雰囲気が」

「ふふ。また、やりましょうね。編集係会」

「おう。次はオレが菓子代を出す。配信の経費で」

「マイちゃんに怒られますよ」

 帰りぎわ、サナナさんは一度だけ振り返って、「参考になった」とだけ言った。何の参考かは、聞かなかった。聞かないのが、この世界のマナーだからではなく——あの背中はもう、聞かなくても、どこかへ歩き出す背中だったからだ。

 ——それから何日かして。

 レナティアと狸は、地図のいちばん端の、名前も知らない岬にいた。

 戦争でもない。物語でもない。依頼ですらない。ただ「あの岬、行ったことないね」というだけの理由で、二日かけて歩いてきた。途中の村で祭りに巻き込まれ、狸が踊りの輪で転び、レナティアの新しい称号「物見遊山」が増えた。

 一日目は、川沿いの道だった。

 道標は親切で、親切すぎて、何度も「本当にこっちでいいのかな」と思わせた。曲がり角ごとに小さな矢印が出る。出るのに、狸は毎回、矢印と反対へ行こうとした。

「こっちは、地図にない道です」

「地図にないってことは、未発見の可能性がある」

「迷子の可能性もあります」

「迷子は、未発見の入り口」

 結局、迷子になった。迷子になった先で、古い水車小屋すいしゃごやを見つけた。もう動いていない水車だった。二人はしばらく黙ってそれを眺めた。水車の前で、狸が小さく笑った。

「昔、回されたねえ、俺」

「回されましたね」

「あれ、なかなかの回転だった」

「思い出にするには、雑な回転でした」

 水車小屋の裏には、野苺が生えていた。味がするわけではないのに、狸は一つ摘んで、真剣に眺めた。

「これ、りんご飴の親戚かな」

「かなり遠い親戚です」

 二日目は、丘を越えた。

 村の祭りは、丘の途中で始まっていた。始まっていた、というより、道が祭りに呑まれていた。布の旗が風に鳴り、広場では輪になって踊る人たちがいて、通行人はだいたい巻き込まれる仕組みだった。

「レナちゃん、これ、通らないと岬に行けないやつだね」

「迂回路は」

「踊りです」

「道ではありません」

 狸は踊った。正確には、踊ろうとして、三歩目で足をもつれさせた。周りの人たちは手を叩いて笑い、転んだ狸を見ていたレナティアの頭上に、称号獲得の光が浮いた。

『物見遊山』

「転んだの、あたしじゃないのに」

「見てたからじゃない?」

「見ていただけで称号が」

「物見だから」

 なんとなく納得してしまったのが、悔しかった。

 岬の突端で、二人は並んで、海を見た。

「……ね、たぬさん」

「んー?」

「あたしたちの遊び方、いつか詰む、って言われたこと、ありましたね」

「あー、あったねえ、そんなこと。……で、詰んだ?」

 レナティアは、考えた。ちゃんと、考えた。

 詰んだのだ、一度は。戦争しか行き場いきばがなくなって、すれ違って、友達帳が灰色になって。あの人の予言は、半分、当たっていた。

 でも。

「——詰みました。詰んで、それで、その先も、まだ道がありました」

「うん。……うん! それ、いいね。俺たちの勝ちってことで、いいんじゃない?」

「はい^^」

 狸の腰には、あの使い込まれた片手剣が、ある。左手は、あいかわらず空いている。いつか、とっておきを迎えるために。

 夕方の光が、海の上に、長い長い道みたいに伸びていた。宵闇までは、まだすこしある。二人は、りんご飴の棒をくわえたまま、来た道とは別の道で、帰ることにした。

 帰り道は、少し遠回りだった。

 地図には細い灰色の線しかない。道とも言い切れない道だ。狸はそういう道を見つけると、必ず行きたがる。

「行き止まりだったら、戻ればいいし」

「日が暮れますよ」

「宵闇ってタイトルっぽくない?」

「タイトルとは」

「なんでもないです」

 道の途中に、小さな祠があった。誰かが置いた花と、古い硬貨と、半分溶けたりんご飴が供えてある。狸が自分の棒を見た。

「俺たちも供える?」

「食べ終わっています」

「棒だけでも」

「神様が困ります」

 結局、棒は持って帰った。ゴミは持ち帰りましょう、という掲示が、祠の裏に小さく出ていたからだ。神様より掲示のほうが強い世界だった。

 丘を下りるころ、空はすっかり青から紫に変わっていた。レナティアは、隣を歩く狸の足音を聞いた。昔より軽いのか、重いのか、分からない。分からないまま、足音はそこにあった。分からないものを、分からないまま、隣に置いて歩けることもある。

 遠くの街に灯りがともりはじめた。帰る場所がある、というだけで、道は少し短くなる。

 二人は、その灯りを目印に歩いた。急がずに。並んで、ゆっくりと、ずっと。