天導ルリカは生まれるのを止めた
第九話 調査計画
第九話 調査計画
十歳の七月十五日。八月十五日まで、あと三十一日。
*
最初の一時間で、確かめられることを確かめた。
日めくりも朝刊も、湖の年の七月十五日を指していた。星の細かい傷は、九つの誕生日にもらってから一年と少しの、まだ新しい傷だった。
七時に朝食の席へ降りた。母がいた。父の席は空いていた。父はもう造船会社へ出ていた。
母は三十四歳だった。十八歳の四月に最後に見た母より、頬に肉があった。髪はきちんと結ってあり、ほどけてはいなかった。私が席に着くと、母は箸を置いて、私の顔を見た。
「よく眠れた?」
「はい」
「顔色が悪いわ」
「夢を見ました」
言ってから、しまったと思った。母は少し首を傾けた。十二歳の秋、珈琲が薄いと言う前に見せたのと同じ傾け方だった。
「どんな夢」
「覚えていません」
母は、そう、と言って箸を取った。
私はその場で、自分への最初の規則を決めた。この人の前では、夢の話をしない。
*
朝食のあと、学院の算術の帳面の最後の頁に、白石澄の書式で書いた。
件名 湖の件(予防)
期限 八月十五日 夜
日数 三十一日
分かっていること(ゲームと、前回の八年で見た物による。括弧の中は出どころ)
四月から七月 母が蘆田医院で薬を受ける 抱水クロラール 家計簿に六回
(家計簿の写し 処方簿)
七月 伯父が親族会の三人に後見の根回し 三通
(伯父の下書き)
八月十二日 伯父が星見荘へ先乗り
(十歳の記憶)
八月十二日朝 小野さんが柱を見る 傷なし
(小野さんの遺書)
八月十三日 家族が湖へ 十四日 おじさまが湖へ
(十歳の記憶)
八月十五日十五時 父に偽電報 打ったのは帝都にいた辰巳か
(父の聞き書き 本家支払帳の車代)
同十七時 父が汽車で帝都へ
(十歳の記憶)
八月十五日夜 宴 お絹が台所へ 私に薬 糖蜜 銀の匙 舟屋へ
(お絹の聞き書き 舟屋で見た物)
同 「瑠璃がいない」 おじさまが桟橋の先へ走る 柱が折れる
(ゲーム)
同 救命舟が遅れる 伯父「番人はどこだ」
(舟屋の戸口で見た物)
私の制約
十歳。帝都から湖まで汽車で一日。
母の家に住んでいる。手紙は母の手を通る(父宛ては止められていた)。
大人は十歳の言葉を信じない。
郵便局へ一人で行けない。本家へは、呼ばれたときだけ行ける。
一覧を上から読んで、三つ目の欄を書いた。
私への規則
一 誰も死なせない。
二 八月十五日まで、誰にも気づかせない。
三 証拠は、大人が自分の目で確かめた物だけを使う。私の言葉は証拠にしない。
四 最後に、殺しても何も得られないようにする。
*
規則の一つずつに、理由を書き添えた。書いておかないと、あとで自分が規則を破る理由を作るからだ。十四歳の冬、私は書かなかった一行のために、三年を失った。
一つ目には、理由は要らなかった。
二つ目の理由は、こう書いた。
未来の記録の値打ちは、相手が計画を変えないあいだだけ。
私が知っているのは、前回の八月十五日だ。電報の時刻、汽車の時刻、舟屋、糖蜜、桟橋の先。母と伯父がその計画のまま動くあいだは、私は二人より一手先にいる。
母が、娘が何かを知っていると気づけば、計画は変わる。日を変えるかもしれない。手段を変えるかもしれない。八月十五日を外しても、十月の婚礼までは、まだ二か月ある。湖でなくても、人は死ぬ。
そうなれば、私の記録は役に立たなくなる。私の知らない殺人が、私の知らない日に来る。
だから、今おじさまに言ってはいけない。今言えば、おじさまは湖へ行かないかもしれない。行かなければ、母は別の機会を探す。
三つ目の理由は、長くなった。
十八歳の四月二十日の夜、私の出した物は、全部私の言葉になった。乾板四枚は私が撮った物で、写しは私が焼き付けさせた物で、三年黙っていたのは私だった。原本が消えたとき、私の物は、私が作った物になった。
物が証拠になるのは、誰が見つけたかではなく、誰が確かめたかで決まる。調査員の報告書が保険会社で通るのは、調査員が偉いからではない。写真と、現場と、第三者の証言が、報告書の外に残っているからだ。
今度は、私は何も持たない。何も撮らない。何も写さない。見つけた物は、見つけた場所に置いたまま、大人をそこへ連れて行く。大人が自分の目で見て、自分の口で言う。
十歳の子の言葉は、夢で済まされる。大人が自分で見た物は、夢では済まない。
四つ目の理由は、まだ半分しか書けなかった。
宗一郎が十月の婚礼の前に死ねば、死亡時に効く認知で私が跡取りになる。
跡取りの後見に値打ちがある。
紙は九つの年の十二月にできた。婚礼は十月。母の窓は、その十か月。
その紙がなければ、殺しても何も得られない。
紙を消す方法を、私は知らなかった。紙は三村さんが持っている。書いたのはおじさまで、書かせたのは母だ。紙を消せるのは、書いた人だけだった。
四つ目の横に、小さく書いた。
おじさまに、いつ、どう言うか。(未定)
*
昼前に、母の居間の前を通った。
襖は閉まっていた。中で母が誰かと話していた。女中頭の声だった。献立の話だった。
十八歳の私は、あの部屋の文机の二段目に何があるかを知っている。湖の年の家計簿。今年の家計簿だ。今この瞬間も、あの帳面は、母の手でつけられている。四月に二回、五月に二回、六月に一回。七月の欄は、まだ埋まっていない。
前回、慎さんが澪の下宿で開いた処方簿には、七月十日の一行があった。十日分の水薬。前回ニ同ジ。薬はもう、この家のどこかにある。家計簿の七月の行は、たぶん月末に、払いをまとめて書く。母はそういうつけ方をする人だった。
私は襖の前で足を止めなかった。
見に行けば、見られる。見られれば、母は理由を考える。十歳の子が母の文机に何の用があるのか。母は理由を考え始めたら、答えが出るまでやめない人だった。
規則の三つ目を、私は廊下で一度思い出した。見つけた物は、見つけた場所に置いたまま。
家計簿は、もう見つけてある。八年後の私が。
*
学院は、もう夏休みに入っていた。午後、私は庭の縁台で、十歳の瑠璃の記憶を順に開いた。
十歳の瑠璃は、この七月を覚えていた。覚えていたのは、大人から見れば何でもないことばかりだった。
七月の第一週、父が造船所から模型の船を持って帰ってきた。父は私に、竜骨の組み方を教えようとして、途中で母に呼ばれた。
七月の十日ごろ、本家へ行った。おじさまが星の間の時計を巻くのを見せてくれた。四十三の時計を、端から一つずつ。おじさまは巻きながら、この時計は何々丸に、この時計は瑠璃丸に載っていた、と一つずつ教えてくれた。十歳の瑠璃は、それを全部覚えようとして、半分で眠くなった。
七月に入ってから、母はときどき眠れないと言っていた。夜中に母の部屋の灯りがついていることがあった。
白石澄は、最後の一つに線を引いた。
眠れない人は、薬を飲む。飲む人の家計簿には、薬の行がある。行がある理由は、眠れないからだ。そういう筋は、前回、十四歳の私が選びかけたものだった。
十歳の瑠璃が覚えていたのは、母の部屋の灯りだけだった。薬を飲む母を見たことは、一度もない。
私はそれも書いておいた。見ていないことは、見ていないと書く。
*
夕方、父が帰ってきた。
玄関の戸が開く音がして、父の声がした。「ただいま」。
私は階段を下りた。途中で足が止まった。
父は玄関で靴を脱いでいた。背広の肩に、造船所の鉄の粉が少しついていた。四十一歳だった。十八歳の四月、星の間の壁際に立っていた人より、肩が高かった。
父が顔を上げて、私を見た。
「どうした。変な顔をして」
「……おかえりなさい」
「おう」
父は私の頭に手を置いた。八年前の九月十五日、雨の玄関で置いたのと同じ置き方だった。私の知っている最後の置き方は、今の父にとっては、まだ来ていない。
十歳の瑠璃の目から、何かが出そうになった。白石澄は、それを止めた。止めた理由は、規則の二つ目だった。泣けば、母が理由を訊く。
「今日は何をしとった」
「算術の帳面を」
「えらいな」
父はそう言って、居間へ入っていった。
夕食は三人だった。父は造船所の話をした。秋に進水する船の竜骨が、今日やっと据わったという。母は、そうですか、と言った。私は、父の顔を見ないようにして、父の話を全部聞いた。
八月十五日の十七時の汽車に、この人を乗せない。
それを、私は規則の一覧に加えなかった。加えなくても、忘れないと思った。
*
夜、帳面の頁をもう一度開いた。
一覧の最後に、今日一日で分かったことを書き足した。
七月十五日
母 「顔色が悪い」「どんな夢」 (夢の話はしない)
母の居間 入らず
家計簿 未確認(見に行かない)
父 造船会社 竜骨の話
宿題 誰を味方にするか
最後の行を、しばらく見ていた。
味方にする相手の条件は、三つあった。母に報告しないこと。自分の目で見たものを、人前で自分の口で言えること。八月十五日の夜、湖にいること。
三つとも満たす人は、この家に何人いるだろう。
白石澄は、七年の仕事で、証人を選び間違えたことが二度あった。一度目は、話が上手すぎる人を選んだ。二度目は、会社に義理のある人を選んだ。どちらも、証言台に立つ前に話を変えた。
十歳の瑠璃が、布団の中で一つの名前を出した。
お絹。
私付きの女中で、二十八歳。丸い顔で、笑うと目がなくなる。十歳の瑠璃は、お絹が好きだった。前回、早瀬さんの聞き書きでは、あの夜、台所へ行かされた人だ。戻ったら盆に銀の匙があって、糖蜜で濡れていた。翌年の春に暇を出され、三年分の給金と紹介状を受け取って、八年間、口を閉じていた人。
その人を、もう一度、あの夜の湖へ連れて行く。
私は灯りを消した。窓の外で、帝都の夜の電車が一台通った。
三十日。