天導ルリカは生まれるのを止めた
第十話 味方の条件
第十話 味方の条件
七月十六日から、七月二十一日まで。八月十五日まで、あと三十日から二十五日。
*
七月十六日の朝、帳面の新しい頁に、候補を一人ずつ並べた。条件は三つ。母に報告しないか。自分で見たものを、自分の口で言えるか。十五日の夜に湖にいるか。
お絹
母に報告しない ?
自分で見て言える ? 前回は八年黙った
十五日の夜 湖にいる
父
母に報告しない × 母に言う
自分で見て言える ○
十五日の夜 いない 電報で帝都へ
おじさま
母に報告しない ?
自分で見て言える ○
十五日の夜 湖にいる 狙われる人
小野さん
母に報告しない ○ 母とも伯父とも縁が薄い
自分で見て言える ○ 遺書を書いた人
十五日の夜 湖にいる
フミ
母に報告しない ○
自分で見て言える ?
十五日の夜 いない 帝都に残る
父の欄に×をつけたとき、手が少し止まった。
父は母に逆らえない人だった。前回、否認の書類に署名したのは父だった。血の検査の紙を見せられて、その場で署名した。娘に何か言われれば、父はきっと母に相談する。相談するのが、この人の優しさの形だった。
だから、父には八月十五日まで言わない。言うのは、電報が来る日の朝だ。電報が来ることを、電報が来る前に言う。当たれば、父は自分の目で見たことになる。
おじさまの欄の「?」は、母に報告しないかどうかだった。
おじさまは、母を好いている。前回の八年で見たものから、私はそう読んでいた。母の居間で、母が写真の話をしたとき。母が撮ったという縁台のおじさまは、撮る人のほうを向いて笑っていた。
好いている人の悪い話を、人は聞かない。聞いても、確かめる前に本人に訊く。本人に訊けば、母に届く。
おじさまにも、今は言わない。
小野さんは、湖にいる。母とも伯父とも、縁が薄い。前回、柱を毎朝見ていて、八月十二日の朝の記録を遺書に残した人だ。自分で見たものを自分の字で書き残す人だった。
条件は三つとも満たしている。ただ、私は小野さんと話したことがない。前回は、舟屋の夜に、救命舟の櫂を握っているのを見ただけだ。十歳の瑠璃の記憶にも、ほとんどない。去年の夏、星見荘の庭で、麦わら帽子をかぶった男の人が桟橋の板を一枚替えていた。それだけだ。
その人の娘は、覚えていた。
十一歳の、日に焼けた女の子。去年の夏、一度だけ一緒に遊んだ。岸で貝殻を拾って、虹色の殻を二人で分けた。女の子は、木に登るのがうまかった。
小野澪。
*
お絹を試したのは、七月十七日だった。
試す、という言葉を帳面に書くとき、私は少し嫌な気がした。気がしただけで、書いた。調査で証人を選ぶときは、いつも誰かを試している。
方法は簡単なものにした。小さな秘密を一つ預けて、それが母に届くかを見る。
昼過ぎ、私はお絹に言った。
「お絹。内緒のことがあるの」
「まあ、なんでございましょう」
「かあさまの櫛の歯を、一本折っちゃった」
本当だった。朝のうちに、母の鏡台の櫛の歯を一本、自分で折っておいた。一番端の、目立たない歯だった。
お絹は目を丸くしてから、笑った。
「端のですか」
「うん」
「では、わたくしは何も見ておりません。お嬢様も何もなさっておりません」
「かあさまに、言う?」
「言いませんとも。櫛の歯の一本くらい」
お絹は笑いながら、繕い物に戻った。
私は夕方まで待った。夕方、母が鏡台の前に座った。櫛を取って、髪を梳き始めた。三度梳いて、手が止まった。母は櫛を目の前に上げて、端の歯を見た。
私は廊下からそれを見ていた。
母は櫛を置いた。女中頭を呼んだ。
「この櫛、誰か落とした?」
女中頭は知らないと言った。母は、そう、と言って、別の櫛を出させた。
お絹は呼ばれなかった。私も呼ばれなかった。
翌日も、その次の日も、母は櫛のことを言わなかった。
帳面のお絹の、母に報告しない、の横の「?」を消して、○を書いた。
横に、小さく書き添えた。櫛の歯一本では、八月十五日の重さは量れない。
それは分かっていた。前回のお絹は、櫛どころではないものを見て、八年黙った。黙ったのは、紹介状と三年分の給金を受け取ったからだった。人は、見たことの重さよりも、受け取ったものの重さで黙る。
今のお絹は、まだ何も受け取っていない。
*
七月十九日、本家へ行った。
おじさまが、土曜の朝は時計を巻く日だから見においで、と前の週に言っていた。十歳の瑠璃が覚えていた約束だった。母が車で送ってくれた。母は本家の奥の間で、女中頭と話をしていた。
星の間の襖を開けたとき、音が違った。
四十三の時計が、全部動いていた。
秒針はそれぞれ少しずつずれて刻んでいて、部屋の中は、雨が屋根を叩いているような音で満ちていた。十八歳の四月二十日の夜、ここで動いていたのは一台だけだった。残りの四十二台は、それぞれ違う時刻で止まっていた。
私は襖のところで、しばらく動けなかった。
「どうした、瑠璃。耳が痛いか」
おじさまが、梯子の上から言った。
天導宗一郎。三十八歳。梯子に片足をかけて、上の段の時計の裏蓋を開けていた。白いシャツの袖をまくっていた。痩せて背が高く、梯子の上では、天井の梁に頭が届きそうだった。穏やかな顔で、髪には、三十八の人にしては白いものが多く混じっていた。裏蓋の小さな螺子を外す指だけが、別の生き物のように速く動いた。
生きていた。
十歳の瑠璃は、この人を毎週のように見ていた。白石澄は、この人を、画面の中の一行と、縁台の写真一枚でしか知らない。二人の目が、同じ人を見た。
「いいえ」
私は言った。声が震えないように、腹に力を入れた。
「音が、きれいだから」
「そうだろう。ずれているのがいいんだ。全部揃っていたら、ただの大きな時計の音になる」
おじさまは鍵を回して、梯子を一段下りた。
「巻いてみるか」
私は梯子の下まで行った。おじさまは梯子を下りて、部屋の隅から踏み台を一つ持ってきた。私が乗ると、一番下の段の時計が、ちょうど目の高さに来た。真鍮の鍵を渡された。
「右へ。ゆっくり。止まったら、それ以上回すな」
鍵を回した。ぜんまいが巻かれる手応えが、指に伝わった。十一回で止まった。
「上手だ」
おじさまはそう言って、次の時計へ移った。
私は、自分が巻いた時計の秒針を見ていた。この時計を、前回の私は、十八歳の誕生日に目録の上で受け取った。止まったまま。
*
時計を巻き終えると、おじさまは窓際の机で、帳面を開いた。一台ずつ、巻いた日と、遅れと、進みを書いていく。字は細かく、几帳面だった。
私は横に座って、それを見ていた。
十月に婚礼がある人の机だった。机の端に、婚礼の支度の見積書が一枚、伏せて置いてあった。
「おじさま」
「うん」
「湖は、今年も行くの」
おじさまは筆を止めずに答えた。
「行くよ。十四日に行く。仕事が片づかなくてな、十三日には行けない。瑠璃たちは先に行っておいで」
「灯籠は」
「十五日だ。毎年のとおり」
私は、次の問いを口の中で止めた。
――桟橋の先へは、行かないで。
言えば、おじさまは笑う。どうして、と訊く。十歳の子が答えられる理由はない。夢を見た、と言えば、この人はたぶん優しく聞いてくれる。そして、母に言う。瑠璃が湖の夢を見て怖がっている、と。
規則の二つ目を、私は星の間で思い出した。
「瑠璃。どうした、黙って」
「時計、全部、ずっと動いてる?」
おじさまは筆を置いて、私のほうを向いた。
「私が巻いているうちはな」
そう言って、笑った。
私はその笑い方を、縁台の写真で知っていた。撮る人のほうを向いた笑い方だった。
*
帰りの車の中で、母が言った。
「おじさまと、何を話していたの」
「時計のこと」
「それだけ?」
「湖に、いつ来るかって」
母は窓の外を見ていた。
「十四日よ。お仕事が忙しいの」
「うん」
「あなた、湖が好きね」
私は答えなかった。答え方を、まだ決めていなかった。
母は、それ以上訊かなかった。
*
七月二十一日の夜、帳面の候補の頁を書き直した。
お絹
候補。櫛のことは母に届かなかった。湖へ着いてから頼む。
父
十五日の朝、電報が来る前に言う。
おじさま
今は言わない。
小野さん
澪を通じて、手紙で頼む。
フミ
手紙を郵便へ運んでもらう。
小野さんへの手紙を、十歳の子が大人に直接書けば、不審に思われる。澪への手紙なら、子ども同士の手紙になる。去年の夏に遊んだ子への暑中見舞いだ。その中に、一つだけ頼みごとを入れる。
お父さんに、八月の初めから、毎朝、桟橋の柱を見て、傷があったら書き留めてもらって。理由は、湖で会ったら話す。
前回、澪が教えてくれた遺書で、小野さんは八月十二日の朝に柱を見たと書いていた。見ていたのに、防げなかった。柱が切られたのは、小野さんが見た十二日の朝より後で、十五日の夜より前だ。伯父が星見荘へ入ったのも、十二日だった。毎朝見て、書き留めてもらえば、切られた日が分かる。切られた日が分かれば、その日に湖にいた者が分かる。
手紙は、フミに頼んで郵便へ出す。母の手を通さない。父への手紙は、前回、全部母に止められていた。母の手を通さなければ、止められない。
帳面の端に、その夜の最後の一行を書いた。
二十五日。明日、澪に手紙を書く。