星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第十二話 変化

第十二話 変化

七月二十六日から、七月二十九日まで。八月十五日まで、あと二十日から十七日。

 *

七月二十六日の夕食で、母が言った。

「今年の灯籠の晩は、遅くまで起きていていいわ」

私は箸を止めた。

父が先に言った。「いいのか。去年は八時に寝かせたろう」

「もう十歳ですもの」母は笑った。「灯籠が沈むまで見ていなさい。去年、あなた泣いたでしょう。見たかったって」

十歳の瑠璃は、去年の夏に泣いたことを覚えていた。灯籠を最後まで見られずに寝かされて、布団の中で泣いた。

白石澄は、前回の八月十五日を覚えていた。前回、私は宴の途中で意識を失っている。お絹が台所へ立ったところで、記憶が切れている。寝かされたのではない。眠らされた。

前回の母は、あの夜、娘に起きていてほしくなかった。

今回の母は、起きていていい、と言っている。

私は「はい」と答えて、箸を動かした。飯の味がしなかった。

その夜、帳面に書いた。

 七月二十六日 夕食
 母「今年の灯籠の晩は、遅くまで起きていていい」
 前回 宴の途中で眠らされた(薬)
 → 変化その一

変化、と書いてから、その字をしばらく見ていた。

母が優しくなっただけかもしれない。十歳の誕生日から、娘を少し大人扱いすることにしたのかもしれない。去年泣いたことを覚えていて、今年は叶えてやろうと思ったのかもしれない。

可能性は並べられた。並べてみて、どれも前回の母とは合わなかった。前回の母は、あの夜のために四月から薬を買っていた。その母が、今年は娘を起こしておくと言う。

薬は、もう家のどこかにある。七月十日に十日分が出ている。

 *

七月二十七日、分家の客が来た。

伯父の妻の、分家の奥様だった。一臣さまの母親で、小柄で頬のふっくらした人だった。話すときに、少し首を傾げる。婚礼の支度のことで母に相談があるという。私は挨拶をして、隣の間で習字をしていた。襖は少し開いていた。

話の途中で、分家の奥様が私のことを訊いた。

「瑠璃さん、湖は楽しみでしょう」

母が答えた。

「それが、この子、このところ湖の悪い夢を見るらしくて」

私は筆を止めた。

「まあ」

「桟橋が怖い、って言うの。夜中に起きて。それなのに、昼は湖へ行くのを楽しみにしているのよ。子どもって、変なものね」

分家の奥様が笑った。母も笑った。

私は、湖の夢の話を、母に一度もしていない。

七月十五日の朝、夢を見た、とだけ言った。どんな夢かと訊かれて、覚えていないと答えた。そのあと、この人の前では夢の話をしないと決めた。決めたとおり、一度もしていない。

桟橋が怖い、と言ったこともない。

母は、私がしていない話を、客にしている。

 *

その夜、帳面に書いた。

 七月二十七日 分家の奥様
 母「湖の悪い夢を見る」「桟橋が怖いと言う」
 私はその話をしていない
 → 変化その二

それから、白石澄の書式で、変化その二の意味を三つ並べた。

 一 母の思い違い(私が寝言で言った?)
 二 母の作り話(何のために)
 三 母が、私が桟橋を気にしていると知っている

一つ目は、ありうる。私は七月十五日から、毎晩、桟橋のことを考えて眠っている。寝言くらい言うかもしれない。ただ、母は私と同じ部屋で寝ていない。

二つ目を考えた。十歳の娘が湖の悪い夢を見る、と客に話して、母に何の得があるか。

調査では、人がわざわざ言うことには理由がある。わざわざ言うのは、あとでその話が必要になるときだ。保険金の請求で、事故の前に「最近ブレーキの調子が悪くて」と周りに話していた人を、私は何人も見た。前もって言っておけば、あとで起きたことが、その話の続きに見える。

娘が桟橋を怖がる夢を見ていた。その娘が、八月十五日の夜、桟橋で何かを言っても、夢の続きになる。

娘が桟橋のことを言い出す前に、母は、娘の言葉を夢の話にしておこうとしている。

私は、三つ目を見た。

母が、私が桟橋を気にしていると知っている。

どうやって。

私は、七月十五日からの二週間を、一日ずつ思い出した。母の前で桟橋と言ったことはない。湖に行くのかと、おじさまに訊いた。母は車の中で、湖が好きね、と言った。それだけだ。

それだけで、桟橋までは届かない。

帳面の、三つ目の横に「?」を書いた。答えは、まだ出なかった。

 *

七月二十八日。

私は母の居間の前の廊下を、朝と夕方に一度ずつ通った。何も聞こえなかった。

二十九日の昼、フミが足袋屋から戻ってきた。前掛けのかくしから、封筒を一通出した。

「お嬢様。内緒のお手紙が来ておりましたよ」

私は礼を言って、封筒を受け取り、自分の部屋へ上がった。

封筒の字は、鉛筆で、大きかった。宛名はフミの妹の足袋屋で、その下に、天導瑠璃さまへ、と書き足してあった。

開けた。

 るりちゃんへ

 おてがみありがとう。貝がら、まだもってるの? あたしも一つもってる。
 木のぼり、おしえてあげる。うらの山のくりの木がいいよ。

 おとうちゃんに言いました。八月一日から毎朝見るって。紙に書いておくって。
 おとうちゃんは、なんで? って言ったけど、るりちゃんがあってから話すって言ったら、わかったって。

 それから、おてがみのふうとうが、いちど開いたみたいでした。
 のりが二回ついてた。しめの字も、上と下がちょっとずれてた。
 ゆうびんやさんがあけたのかな。
 でも中はちゃんとあったよ。

 みお

私は、その手紙を二度読んだ。

三度目は、封筒のことを書いた終わりの段だけを読んだ。

のりが二回ついてた。しめの字も、上と下がちょっとずれてた。

 *

私は、便箋を膝に置いたまま、しばらく動かなかった。

飯粒の糊の上に、もう一度糊を塗った。〆の字の上半分と下半分がずれた。封を一度剥がして、閉じ直した者がいる。閉じ直した者は、〆の字を書き直さなかった。蓋を元の位置に合わせきれなかった。

郵便屋さんは、封を開けない。開ける理由がない。

では、封筒は、郵便屋さんの手に渡る前に、どこを通ったか。

私が封をしたのは、朝、自分の部屋だった。昼前にフミの前掛けのかくしへ入った。二時過ぎに、フミが玄関脇の棚から手紙の束を取って、籠の底に入れた。

フミの前掛けのかくしから、玄関脇の棚まで。そのあいだのことを、私は見ていない。

見たのは、昼過ぎ、女中頭が玄関脇の文箱を抱えて奥の廊下へ入り、しばらくして戻ってきたことだった。毎日見る景色だったから、見ても、何も書かなかった。

私は階下へ降りて、台所の土間で豆を剥いていたフミの隣にしゃがんだ。

「フミ。この前のお手紙、かくしから、そのまま郵便局に持っていってくれた?」

フミは豆の莢を割りながら、首を振った。

「いいえ。お昼の支度の前に、文箱に入れておきましたよ。いつもそうしますから。奥様が切手を見てくださいますし」

「かあさまが」

「ええ。お昼のあとに、女中頭が文箱を奥様のお部屋へお持ちして、奥様が切手の足りないのに貼り足してくださるんです。それから、わたくしがまとめて持って出ます。……内緒のお手紙でしたのに、いけませんでしたか」

「ううん。ちゃんと届いたから」

フミは、よかった、と笑った。

私は二階へ戻った。

分家の家では、出す手紙は全部、玄関脇の文箱に入る。文箱は、郵便の前に一度、母の居間を通る。十歳の瑠璃は、それを毎日見ていた。毎日見ていたから、決まりとして思い出さなかった。

父への手紙のとき、私は母に手渡しした。だから、母の手を通したのは、あの手紙だけだと思っていた。今度はフミに渡した。母の手を通さない道を選んだつもりだった。

選んだ道の途中に、母の居間があった。

 *

母は、封を開けて、読んで、糊で閉じ直した。そして、出した。

止めなかった。

前回、父への手紙は全部止められていた。父への手紙は、返事が来なくても、十歳の娘は父が遠くにいるせいだと思う。澪への手紙が止まれば、娘は澪の返事が来ないことに気づく。気づけば、別の道を探す。読んで出せば、娘は何も気づかない。

私は、止められていないことを、読まれていないことだと思っていた。確かめたことは、一度もなかった。

帳面を開いて、変化その二の三つ目の「?」の横に書いた。

 七月二十二日 澪への手紙 封を開けて閉じ直した跡(糊が二回 〆の字のずれ 澪)
 封筒の道 私→フミのかくし→玄関脇の文箱→母の居間→フミ→郵便局(フミ)
 → 母が読んだ

 母が知ったこと
  娘が、小野さんに、八月一日から毎朝、桟橋の柱を見てもらうよう頼んだ
  理由は、湖で会ってから話す
  ほかの人には言わないで

一行ずつ、母の目で読んだ。

十歳の娘が、番人に、桟橋の柱を毎朝見てくれと頼んでいる。理由は言わない。ほかの人には言うなと書いている。

私が母なら、何を考えるか。

この子は、桟橋に何かがあると知っている。誰かから聞いた。兄の手代か、兄本人の口の軽さか。あるいは、眠っているふりをして、どこかで何かを聞いた。

どこから知ったのかは、手紙のどこにも書いていない。読んだ母にも、そこは分からない。分かるのは一つだけだ。

娘は、八月十五日に、何かが起きると思っている。

変化その一と変化その二が、一本の線でつながった。

母は二十二日に手紙を読んだ。二十六日に、灯籠の晩は起きていていいと言った。二十七日に、娘は湖の悪い夢を見る、桟橋を怖がる、と客に話した。

母は、計画を変え始めている。

 *

私は帳面を閉じて、窓の外を見た。

蝉が鳴いていた。帝都の夏の蝉は、湖の蝉より声が低い。

規則の二つ目を、私は自分で破った。八月十五日まで、誰にも気づかせない。気づいたのは、いちばん気づかせてはいけない人だった。

十四歳の冬に乾板を撮った夜も、私は母が見ていない方に賭けた。十八歳の四月、手提げの紐を握ったときも。

三度目だった。

「私はまた、母より一手遅い」

声に出さずに言った。

十歳の瑠璃が、膝の上の便箋を見ていた。虹色の貝殻を、澪はまだ一つ持っている。くりの木がいい、と書いてある。

白石澄は、帳面をもう一度開いた。

一手遅いなら、遅れた一手の先を読むしかない。母が何を変えたのかを、母が変えた物から読む。変えた物は、必ずどこかに出る。人は、計画を変えるとき、何かを買い、誰かに何かを言いつけ、何かを別の場所へ動かす。

私は新しい頁の一番上に、日付と、件名を書いた。

 七月二十九日 件名 母の新しい計画(推定)

その下は、まだ白いままだった。

十七日。