天導ルリカは生まれるのを止めた
第十四話 おじさまの星の間
第十四話 おじさまの星の間
八月六日から、八月十二日まで。八月十五日まで、あと九日から三日。
*
八月六日から十一日までの六日間、私は何も変えなかった。
変えないことが、いちばん難しかった。
朝は七時に起きて、朝食の席で母に「おはようございます」と言った。昼は縁側で本を読み、夕方は父の模型の船を手伝った。母が灯籠のことを言えば、楽しみ、と答えた。母が桟橋のことを言えば、黙った。黙るのは、十歳の子が怖いものの話をされたときの黙り方にした。
母は、私を見ていた。見られていることを、私は知っていた。知っていることを、顔に出さないようにした。
白石澄は、仕事で一度だけ、自分が調べている相手と毎日同じ事務所で顔を合わせたことがあった。三か月間、その人に茶を淹れた。三か月のあいだ、その人の机の上の書類を一度も見なかった。見なくても、何が起きるかは分かっていたからだ。
今度も、見なくていい。母が何をするかは、もう読んである。
見ないことで、母に、私がまだ読んでいないと思わせる。
*
八月九日の夕方、父が模型の船を仕上げた。
竜骨と肋材の上に、薄い板が張られていた。甲板には、小さな帆柱が一本立っていた。父は船底に、自分で削った小さな鉛の錘を膠でつけた。
「これで、ひっくり返らん」
「浮かべていい?」
「湖でな」
父は船を私の手に載せた。軽かった。母の灯籠と、同じくらいの重さだった。
「名前をつけろ」
私は少し考えた。
「るりまる」
父は笑った。
「本家の船と同じ名か。大きく出たな」
父は筆を持ってきて、船の舳先に小さく「るりまる」と書いた。字は下手だった。
「湖で、おじさまに見せてやれ。あの人は、船が好きだ」
私は船を抱えた。
十歳の瑠璃は、嬉しかった。白石澄は、その嬉しさを止めなかった。止める理由がなかった。
*
八月十二日。
毎年、湖へ発つ前の晩は、本家で夕食をとる習いだった。伯父はその朝、一足先に湖へ発っていた。
夕食は、おじさまと、母と、父と、私の四人だった。父は造船所の竜骨の話をした。おじさまは秋の進水式の話をした。母は、湖の荷物の話をした。
食事が終わると、おじさまが言った。
「瑠璃。今夜は時計を巻かないが、見ていくか」
「はい」
母が私を見た。
「あまり遅くならないように」
「すぐ戻る」とおじさまが答えた。
母は奥の間へ、父は庭へ煙草を吸いに出た。
星の間の襖を閉めると、四十三の時計の音が、部屋じゅうに満ちた。
*
窓際の机の端に、写真立てが一つあった。
百合子さまの写真だった。おじさまの最初の奥様で、長く病気がちで、二年前の春に亡くなった。十歳の瑠璃の記憶の中で、百合子さまはいつも奥の間の障子の向こうにいる人だった。障子を開けてもらえた日は、床の上に起き上がって、枕元の小箱から干菓子を一つくれた。
去年の暮れに、おじさまと静子さまの婚約が決まった。十月に婚礼がある。机の上の写真立ては、まだそのままだった。
おじさまは窓際の椅子に座って、私を膝の前の小さな腰掛けに座らせた。
「湖では、何をする」
「澪ちゃんと、木登り」
「番人の娘か。あの子は猿のように登る」
おじさまは笑った。
私は、膝の上で手を組んだ。十歳の手だった。指を組んでも、震えは止まらなかった。
白石澄は、証人に最初の質問をするとき、いつも決めていたことがあった。最初に、相手しか知らないはずのことを、こちらから言う。こちらが何者かを、相手に先に決めさせるために。
「おじさま」
「うん」
「わたしの名前は、おじさまがつけたの?」
おじさまの笑いが、止まった。
「……誰に聞いた」
「『私たちの子に、名を考えた。女の子なら、瑠璃という。君がよいと言えば、そうしたい。銀細工屋に、星を一つ頼んだ』」
私は、便箋の文面を、そのとおりに言った。前回の十八歳の朝、三村さんの封書の中で読んだ、宛名のない一枚。
おじさまは、動かなかった。
「その手紙は、藤乃に」
「それから、三村さんのところに、紙があります」
私は続けた。
「おじさまが亡くなったときにだけ、わたしをおじさまの子にする紙。去年の暮れの日付です。静子さまとのお話が決まった月です。その月の初めに、母が、手紙で頼みました」
四十三の時計が鳴っていた。
「『あなたが生きているあいだは、この子は恭介の子のままで構いません。あなたが決めない人だということは、もうよく分かりました。ですから、せめて、あなたが亡くなったときにだけ効く紙を、この子のために書いてください。三村さんに預けてください。私はもう待ちません』」
おじさまの顔から、血の気が引いていった。
「瑠璃」
「はい」
「それを、誰から聞いた。藤乃か。三村か」
「誰からも」
「では、どうして」
私は答えなかった。答えられる言葉を、十歳の私は持っていなかった。八年後の四月に読んだ、と言えば、おじさまは私を、湖の悪い夢を見る子にする。母が分家の奥様に言ったように。
「どうしてかは、言えません」
私は言った。
「でも、わたしの言うことを信じてくださいとは、言いません」
*
私は、帳面の頁を一枚破って、おじさまの膝の上に置いた。
前の晩に書いたものだった。十歳の瑠璃の字で、大人の書式で。
おじさまへのお願い
一 湖に着いたら、小野さんの舟で、桟橋の中ほどの下へ入ってください。
板の下の梁に、新しい切り口があります。
触らないでください。直さないでください。
二 十五日の午後三時に、とうさまに、本社から「至急帰京せよ」という電報が来ます。
本社は、その電報を出していません。
郵便局の電話で、本社に確かめてください。
一と二が、両方ほんとうだったら、
十五日の晩は、わたしの言うとおりにしてください。
一か二が、ちがっていたら、
この紙のことは、忘れてください。
おじさまは、紙を読んだ。二度読んだ。
「桟橋の梁」
「はい」
「誰が切る」
「確かめてから、訊いてください」
おじさまは、紙から目を上げて、私を見た。
長いあいだ、見ていた。十歳の子を見る目ではなかった。何を見ているのか、この人自身にも分かっていないような目だった。
「私に何が起きる」
おじさまが訊いた。
私は、答えるかどうか、一度迷った。
「十五日の晩、灯籠のあとで、誰かが『瑠璃が落ちた』と叫びます。おじさまは、桟橋の先へ走ります。梁が折れます」
「……それで」
「朝まで、見つかりません」
おじさまは、目を閉じた。
*
私は、最後の頼みを言った。
これだけは、紙に書かなかった。紙に書けば、いつか誰かが読む。
「おじさま。三村さんのところの紙を、生きているうちに、書き換えてください」
おじさまは目を開けた。
「死んだら効く紙がある限り、この家では、誰かがおじさまの死を待ちます」
おじさまは、しばらく何も言わなかった。
九時になった。四十三の時計のうち、鐘のあるものが、少しずつずれて鳴り始めた。一台が鳴り終わる前に次が鳴り、音が重なって、長い雨のように部屋を満たした。
鳴り終わってから、おじさまが言った。
「藤乃が、そう頼んだのは、本当だ」
「はい」
おじさまは、机の端の写真立てを見た。
「百合子が死んだ春から、藤乃は、私が決めるのを待っていた。私は決めなかった。親族会の持ってきた静子さんとの話を受けて、藤乃には、紙を一枚渡した。死んだときに効く紙なら、生きているうちの私は、何も決めなくて済む」
おじさまは、少し間をおいた。
「決めなくても効く紙だ。藤乃はそれを、せめて、と言った。私は、それで許されたつもりでいた」
おじさまは、私の紙を二つに畳んで、胸のかくしに入れた。
「確かめる」
おじさまは言った。
「一と二を、確かめる。当たっていなかったら、今夜のことは忘れる。お前が何を言ったかも。……当たっていたら」
「はい」
「そのときは、お前の言うとおりにする」
それから、少し笑った。笑い方が、いつもと違った。
「三村の紙は、明日、三村に会う。湖へは十四日に発つ。紙のことは、三村に会ってから考える」
考える、と言った。決める、とは言わなかった。
それでもよかった。この人は、確かめると言った。確かめる人は、自分の目で見る。
*
星の間を出ると、廊下の先に母が立っていた。
「遅かったわね」
「時計の話を」
母は私の顔を見た。私は母の顔を見なかった。見れば、母は私の目の中に何かを探す。
「顔が赤いわ」
「部屋が暑かったから」
「そう」
母は私の手を取った。母の指が、私の手首を掴む位置は、いつもより少し上だった。
分家の家へ戻る車の中で、母は一度だけ言った。
「おじさまは、あなたを可愛がりすぎるわね」
私は答えなかった。窓の外を、帝都の夜が流れていった。
家に着いて、部屋の襖を閉めてから、帳面に書いた。
八月十二日 本家 星の間
おじさまに言った
命名の便箋(文面) 三村さんの紙(死亡時の認知 去年の暮れ) 母の十二月の手紙
願い一 桟橋中ほどの梁 小野さんの舟で確かめる
願い二 十五日十五時 電報 本社へ電話
願い三(口頭) 三村さんの紙を、生きているうちに書き換える
おじさま「確かめる」「当たっていたら、お前の言うとおりにする」
「三村には、明日会う」
「百合子が死んだ春から、藤乃は私が決めるのを待っていた」
母 廊下で待っていた 「顔が赤い」「可愛がりすぎる」
最後の一行を見た。
母が知ることができたのは、娘が星の間に長くいたことまでのはずだった。中で何を話したかは、襖の外には出ていない。
私は、規則の二つ目(改)の横に、小さく印をつけた。まだ、破っていない。たぶん。
たぶん、と書いたのは、この夏で四度目だった。
三日。