星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第十五話 湖へ

第十五話 湖へ

八月十三日。八月十五日まで、あと二日。

 *

朝七時の汽車で帝都を発った。

母と、父と、私と、お絹。女中頭とフミは帝都に残った。行李が五つと、蚊帳が一張りと、私の手提げが一つ。手提げの中には、母の灯籠と、父の船が入っていた。

汽車の窓から、田んぼが見えた。十歳の瑠璃は、去年もこの窓から同じ田んぼを見た。前回の私は、十八歳の四月の終わりに、この線路で一人で湖へ移された。九月の二十日には、南の港から船に乗ることになっていた。その日が来る前に、私は十歳の七月に目を覚ました。

母は窓際に座って、本を読んでいた。父は通路側で、新聞を広げて眠っていた。お絹は私の隣で、籠の中の握り飯を数えていた。

「お嬢様、お腹は」

「まだ」

「湖に着いたら、澪ちゃんと遊べますね」

「うん」

お絹は、十五日の盆踊りのことを話した。村の櫓の上で、太鼓を叩く若い衆がいる。去年は一晩中台所にいたから、見られなかった。今年は奥様が行かせてくださる。浴衣を一枚、持ってきた。

私は、うん、うん、と聞いていた。

十五日の晩、この人に盆踊りへ行かないでと頼むのは、明日にしようと思った。今日頼めば、お絹は今夜、嬉しさを一つ失う。明日頼んでも、失うものは同じだ。それでも一日、延ばした。

延ばしてから、それが調査員の判断ではないと気づいた。十歳の瑠璃の判断だった。私はそれを、取り消さなかった。

 *

星見荘に着いたのは、午後四時過ぎだった。

湖に向いて建つ、白い板張りの洋館だった。二階の窓はどれも湖のほうを向いていて、庭の芝が岸の砂利まで下りている。庭の端から、桟橋が一本、湖へ延びていた。桟橋の付け根から三十歩ほど離れたところに、舟屋がある。舟屋は半分が陸に、半分が湖の上に建っていて、湖の側の板の張り出しの下から、舟が出入りする。

湖は、十八歳の夏と同じ色をしていた。違ったのは、桟橋だった。

前回の十八歳の夏、桟橋は事件の翌年に架け替えられて、板も杭も新しかった。今、目の前にある桟橋は古かった。板は灰色に褪せ、杭には緑の苔がついていた。先端の脇に、救命舟が一艘、舫ってあった。

伯父は、縁側で茶を飲んでいた。

母より肉の厚い顔で、目の形だけが母と同じだった。

「着いたか」

伯父は、母に言った。私には目を向けなかった。十歳の瑠璃の記憶の中で、伯父はいつもそうだった。私に話しかけるのは、人前で私を褒めるときだけだった。

番人小屋の前で、麦わら帽子の男が頭を下げた。

小野弥吉。四十二歳。日に焼けて、首と腕が太かった。

その後ろから、女の子が走り出てきた。

「るりちゃん!」

小野澪。十一歳。短く切った髪が、走るたびに耳の上で跳ねた。日に焼けた顔で、膝に擦り傷が二つあった。私の手を取って、引っ張った。

「来て。貝がら、とっておいた」

十歳の瑠璃が、笑った。白石澄も、今度は止めなかった。

十九歳の澪は、星の間で私に「どうして、もっと早く」と言った。風呂敷に父親の遺書を戻しながら。十一歳の澪は、私の手を引っ張って、岸へ走っていく。

 *

岸で、澪は袂から虹色の貝殻を一つ出した。

「これ、今年いちばん」

「きれい」

「あげる。そのかわり」

澪は声を低くした。人の顔をまっすぐ見て話す子だった。

「おてがみの、あれ。なんで?」

私は、周りを見た。お絹は縁側で行李をほどいていた。母は部屋の中だった。伯父は縁側で、まだ茶を飲んでいた。岸から縁側までは、四十歩ほどある。

「澪ちゃん。お父さん、毎朝見てくれてる?」

「うん。八月一日から。紙に書いてる。『異常なし』って、毎日」

「柱だけ?」

「柱だけ。るりちゃんが、柱って書いたから」

私は頷いた。

「澪ちゃん。桟橋の下、入れる?」

澪は目を丸くした。それから、少し得意そうな顔をした。

「入れるよ。あたしの小さい舟で。板の下で、梁をつかんで、手で引っぱって進むの。あたし、よく入る」

「一緒に入って」

「なんで」

「見たいものがあるの。見たら、話す」

澪は、少し考えた。何でも自分で確かめたがる子の考え方をしていた。

「いいよ」

 *

五時半、日が傾いて、湖の上が少し暗くなった。

お絹には、澪と岸で貝を拾う、と言った。お絹は縁側から手を振った。

澪の舟は、舟屋の脇の葦のあいだに舫ってあった。畳一枚ほどの、底の平たい舟だった。澪が竿で岸を突いて、葦の陰を伝い、桟橋の付け根まで舟を寄せた。番人の子が舟で遊ぶのは、毎年のことだった。縁側から見えても、誰も気にしない。

桟橋の付け根で、澪は竿を置いた。舟を板の下へ押し込み、自分も首をすくめて入った。私も続いた。

板の下は、座った十歳の子の頭が、梁にぎりぎり触れない高さだった。杭が二列に並び、その上を、杭から杭へ梁が横に渡っていた。上の板を支える、太い角材だった。澪は座ったまま、頭の上の梁を両手でつかみ、舟を先へ引いた。次の梁をつかみ、また引いた。

暗かった。板の隙間から、夕方の光が細く落ちていた。

付け根のあたりでは、舟底の下に砂利が透けて見えた。澪が竿の先を水に入れた。竿は膝ほどの深さで底に着いた。桟橋の中ほどまで来ると、澪はもう一度竿を入れた。竿は半分以上沈んで、まだ底に着かなかった。

「ここから深いの。大人でも足つかない」

澪が、付け根から数えて十三本目の杭のところで、手を止めた。

「るりちゃん。これ」

澪の指が、頭の上の梁の下側を指していた。

梁の下の面に、切り口があった。

新しかった。木の色が白く、切り口の縁に細かい木屑がまだ残っていた。梁の太さの半分と少しまで、下から挽いてあった。上からは見えない。桟橋の上に立っても、岸から見ても、板に隠れている。

切り口の真下の水面に、木屑が浮いて、杭の苔に引っかかっていた。

私は、手を伸ばさなかった。

「触らないで」

澪は、伸ばしかけた手を止めた。

「これ、なに」

「誰かが、切ったの」

「なんで」

私は答えなかった。答える前に、確かめることがあった。

十三本目の杭は、桟橋のちょうど中ほどだった。先端の柱ではない。小野さんが毎朝見ている場所ではない。

中ほど、と帳面に書いたのは、推定だった。推定は、今、当たった。私の手紙が、切る場所を教えた。書いたとおりになっていることを、私は少しも嬉しいと思わなかった。

「澪ちゃん。お父さん、呼んできて。一人で。誰にも言わないで」

 *

澪は舟を付け根まで引き戻して、岸へ上がり、走っていった。

私は付け根の下の浅いところで、舟の中に座って待った。板の隙間の光が、少しずつ細くなった。十三本目の杭のほうを振り返ると、梁の切り口は、暗くなっても白く見えた。

小野さんは、澪に手を引かれて、岸へ来た。膝まで水に入って舟の艫をつかみ、付け根の下から引き出した。小野さんが乗ると、舟が少し沈んだ。澪は岸に残った。

小野さんは櫂で舟を桟橋の外側へ回し、十三本目の杭に舫った。舟べりに身を寄せ、脇から梁の下を覗いた。私も身体を低くして、同じところを見た。

長いあいだ、見ていた。それから、指で木屑を一つつまんで、鼻に近づけた。

「……今日か、昨日の晩だ。木屑が湿ってない。松の脂の匂いが、まだする」

小野さんは、梁の下を指でなぞって、切り口の幅を測るように指を開いた。

「十一日に、舟の底の具合を見に、ここを通りました。梁にこんな白いところがあれば、気がついたはずです。そのときは、無かった」

小野さんは舟を岸へ戻した。私を降ろしてから、澪の顔を見て、それから私を見た。

「お嬢様。これは、お嬢様が」

「わたしは見つけただけです」

「どうして、ここに何かあると」

私は、十歳の子の声で、十歳の子には言えない答えを探した。見つからなかった。

「澪ちゃんの手紙に、お父さんが毎朝柱を見てるって書いてあったから。柱じゃないところも、見たくなって」

小野さんは、それ以上訊かなかった。訊かないことを、この人は自分で決めたようだった。

「小野さん。お願いがあります」

私は言った。

「これを、今日の日付と一緒に、紙に書いておいてください。小野さんの字で。何時に見たか、どこの杭か、切り口がどのくらいか。十一日には無かったことも」

「……はい」

「それから、直さないでください。触らないでください」

小野さんの顔が、固くなった。

「お嬢様。これを直さずに置けば、誰かが落ちます」

「落ちないようにします」

私は言った。

「明日、おじさまが来ます。おじさまにも、小野さんと一緒に、ここを見てもらいます。それまで、このままにしてください」

小野さんは、桟橋へ目を向けた。それから、私を見た。

澪が、父親の袖を引いた。

「おとうちゃん。るりちゃんの言うこと、今まで全部、ほんとだったよ」

十一歳の澪の「今まで」は、去年の夏の一日と、手紙一通だけだった。

小野さんは、長く息を吐いた。

「……明日の、旦那様が見るまで。それまでは、このままにします。夜は、私が岸で見張ります。この舟は、付け根の下へ戻しておきます。旦那様をお連れするのに要りますから」

 *

その夜、帳面に書いた。

 八月十三日 十七時四十分ごろ 星見荘 桟橋の下
 付け根から十三本目の杭 梁の下面 新しい切り口(梁の太さの半分余り)
 木屑 湿っていない 松脂の匂い(小野さん「今日か昨日の晩」)
 小野さん 十一日に舟で通ったときには無かった
 深さ 付け根は膝 中ほどは竿が届かない(澪)
 見た者 澪(十一) 私 小野さん(大人の証人 一人目)
 小野さん 日付と時刻を自分の字で記録 直さない 今夜は岸で見張る 舟は桟橋の下に置く

最後の行を読み直した。

一人目、と書いた。大人の証人が一人いる。十歳の子の言葉ではなく、番人が自分の目で見て、自分の字で書いた物が一枚ある。

十一日には無く、十三日の夕方にはあった。伯父が星見荘に来たのは、十二日だった。

十八歳の四月、私の手の中にあったのは、私が作った物だけだった。

今夜の紙は、小野さんの物だ。

蚊帳の中で、お絹の寝息が聞こえた。十五日の晩、盆踊りに行かないでと頼むことを、私は明日へ一日延ばしていた。

二日。