天導ルリカは生まれるのを止めた
第十六話 十四日
第十六話 十四日
八月十四日。八月十五日まで、あと一日。
*
朝、小野さんが縁側の下で私を待っていた。
「夜の間、誰も来ませんでした」
小野さんは小声で言った。帽子のつばの下で、目が赤かった。一晩中、岸にいたのだと分かった。
「ありがとうございます」
「朝、柱も見ました。異常なし、と書きました。梁のことは、別の紙に」
小野さんは、前掛けのかくしを指で押さえた。紙がそこにあるのだと思った。
「旦那様は、夕方にはお着きだそうです」
*
昼前、私はお絹に頼んだ。
台所の裏で、お絹は豆を選っていた。私はその横に座った。
「お絹」
「はい、お嬢様」
「明日の晩、盆踊り、行かないで」
お絹の手が止まった。
「……まあ」
「わたしのそばに、いて。わたしの見えるところに」
お絹は、私の顔を見た。それから、豆の笊を見た。
「奥様が、行っておいでとおっしゃいました」
「知ってる」
「お嬢様のお世話はいいから、と」
「知ってる」
お絹は、しばらく黙っていた。
「……お嬢様。何か、ございますか」
私は、答えを選んだ。十歳の子が言えることで、嘘でないことを。
「明日の晩、わたし、一人になりたくないの」
お絹は、笊を横へ置いた。
「浴衣は、来年も着られますね」
「ごめんね」
「いいえ」
お絹は、私の頭に手を置いた。父の置き方とは違った。もっと軽かった。
「奥様には、わたくしから申しません。当日、お嬢様がぐずったことにいたします。そうすれば、奥様もお叱りにはならないでしょう」
「ありがとう」
お絹は笑った。目がなくなる笑い方だった。
前回のお絹は、八年黙った。黙った理由は、受け取ったもののせいだった。今のお絹は、浴衣を一枚、来年へ回した。
受け取ったものではなく、自分で手放したもので、人は動く。私はそれを、帳面には書かなかった。
*
おじさまが着いたのは、午後四時過ぎだった。
母が出迎えた。伯父も縁側から立った。
「静子さんは」と母が訊いた。
「この暑さだ。今年は来ない」
「まあ」
母の声は、残念そうだった。十歳の瑠璃には、そう聞こえた。白石澄には、少しだけ違って聞こえた。人が一人少ないのは、母の計画には都合がいい。
おじさまは、私を見た。いつものように、少し笑った。
「瑠璃。船を持ってきたか」
「はい。とうさまが作ってくれた」
「見せてくれ。岸で」
おじさまは、そう言って、縁側から庭へ降りた。私は手提げから父の船を出して、ついていった。母は縁側に残った。伯父も残った。
岸で、おじさまは船を受け取った。舳先の「るりまる」の字を見て、笑った。
「恭介君の字だな。下手だ」
それから、声を低くした。
「三村に会ってきた」
私は、黙って待った。
「紙は、あった。お前が言った日付の、お前が言った文面で。藤乃の手紙も、名の便箋も、三村が預かっていた」
おじさまは、船の帆柱を指で弾いた。
「三村に、撤回の書面を作らせた。署名してきた。死んだら効く紙は、昨日で無くなった。代わりに、生きているうちに、私が決める。……まだ何を決めるかは、決めていないが」
おじさまは、少し笑った。苦い笑い方だった。
「半分は、信じていない。お前が何を知っているのか、どうして知っているのか、私には分からない。ただ、あの紙がある限り、誰かが私の死を待つ、というお前の言葉だけは、否定できなかった」
「はい」
「小野はどこだ」
*
夕方五時、日が傾いた。
母は女中に呼ばれて家の奥へ入り、伯父も風呂へ立った。縁側が空いたのを見て、小野さんが付け根の下から舟を引き出した。
おじさまは着物の裾をからげ、水に入って舟に乗った。小野さんが続き、桟橋の向こう側へ漕いだ。十三本目の杭に舟を寄せると、二人は腰を低くした。桟橋の板に隠れて、顔は見えなくなった。私と澪は、岸の砂利の上で待った。
二人が岸へ戻ってきたのは、十分後だった。
おじさまの着物の裾が、腿まで濡れていた。顔が、白かった。
おじさまは、岸の砂利の上で、しばらく湖を見ていた。それから、私のほうへ来て、しゃがんだ。
「一つ目は、当たった」
おじさまは言った。
「十三本目。梁の下。小野は、十一日に通ったときには無かったと言う。昨日の夕方に見て、紙に書いてある」
「はい」
「貞光さんは、十二日から来ている」
おじさまは、それ以上言わなかった。
「二つ目は、明日の三時だな」
「はい」
「当たったら」
「わたしの言うとおりに」
おじさまは頷いた。それから、私の顔をまっすぐ見た。
「瑠璃。明日の晩、お前はどこにいる」
「桟橋の先に」
おじさまの目が、大きくなった。
「母が、わたしに一人で灯籠を流しなさいと言いました。わたしは、そうします。行かなければ、母は別のやり方をします。わたしの知らないやり方を」
「駄目だ」
「梁は、子どもの重さでは折れません。そういうふうに切ってあるはずです。走る大人の重さで折れるように」
おじさまは、黙った。
「それに、小野さんに、梁の下に支えの角材を一本入れてもらいます。上からは見えないように。罠の見た目は残して、危ないところだけを抜きます」
小野さんが、おじさまの後ろで、帽子を取った。
「今夜のうちに入れます。杭の苔の色に合わせた古材で。上からは、分かりません。子どもどころか、大人が跳ねても持つようにいたします」
おじさまは、長いあいだ、私と小野さんを交互に見ていた。
「……お前は、何者だ」
私は答えなかった。
おじさまは、立ち上がった。
「……明日を止めても、十月までに別の日を選ぶか」
おじさまは、桟橋を見た。
「紙の撤回を知らせれば、梁の細工も隠される。誰がやったのか、私にも言い逃れをするだろう」
それから、小野さんへ向き直った。
「支えを入れたら、君の重さで確かめてくれ。駐在には、私が話す。今夜のうちに。内密に」
*
日が沈むころ、おじさまは自分の母親のために、灯籠を一つ流した。
毎年、十四日の夕方にする習いだった。岸の、桟橋から少し北へ寄った砂利のところで。子どもは三人いた。私と、澪と、一臣さま。
一臣さまは、十六歳だった。伯父の息子で、この夏も湖へ来ていた。学校の用が残っていて、一人だけ十三日の夜の汽車で着いたのだと、お絹から聞いた。背が高く、まっすぐな眉をしていた。帝都の学校の学生服のまま来ていて、脇に本を一冊挟んでいた。十歳の瑠璃の記憶の中で、一臣さまはいつも少し離れたところで湖を見ている人だった。
「瑠璃さん。その船、君の?」
一臣さまが、私の手の船を見た。
「とうさまが作ってくれた」
「竜骨がちゃんとしてる」
一臣さまは本を小脇に挟み直して、船を受け取り、底をひっくり返した。
「錘も入ってる。これなら、ひっくり返らない」
前回の八年で私の知った一臣さまは、荷札と帳面を一枚ずつ突き合わせる人だった。十六歳の一臣さまは、渡された船をまず裏返して、底を確かめる人だった。
私は、この人の父親を、明日の晩、人前に出す。
おじさまの灯籠が、水の上をゆっくり離れていった。
*
夜十時過ぎ、私は庭に面した廊下で、母と伯父の声を聞いた。
寝かされた部屋は二階だった。お絹が寝入ったあと、私は便所へ行くふりをして下りた。便所は廊下の端にある。廊下の途中に、庭へ下りる沓脱ぎがある。そこに座ると、庭の植え込みの向こうの声が届いた。
十歳の瑠璃の記憶に、この場面はなかった。前回の十四日の夜、瑠璃は二階で眠っていた。
「明日は、子に灯籠を持たせる」
伯父の声だった。
「持たせてあります」と母が言った。「一人で先から流すと、本人が言いました」
「怖がっているのではなかったか」
「怖がっていると、皆に言ってあります。言ってあるから、行くのです。あの子は、怖いと思われるのが嫌いな子だから」
私は、沓脱ぎの上で膝を抱えた。
「水音は」
「私が叫びます。水音は、兄様に」
「丸太を一本、舟屋の張り出しに置いた」
「番人は」
「盆踊りだ。村の櫓で太鼓を叩く。毎年のことだ」
小野さんは、今年は櫓に上らない。ゆうべから、岸で見張っている。伯父の口ぶりでは、それを知らないようだった。
「恭介さんは」
「三時だ。辰巳が帝都から打つ。今朝、一臣に駅まで送らせた」
「分かりました」
少し、間があった。
「藤乃。後見のことだがな」
「はい」
「あれは、親族会で決まるものだ。お前の気持ちは分かるが、最後は三人が決める」
母は、答えなかった。
足音が一つ、植え込みの向こうへ遠ざかった。もう一つの足音は、しばらくそこに立っていた。
それから、母の声がした。独り言だった。
「……決めるのは、私です」
足音が、家のほうへ戻ってきた。
私は沓脱ぎから立って、便所の戸を開け、閉め、それから階段を上がった。音を立てないように。十歳の子の体重で、階段の板は鳴らなかった。
*
蚊帳の中で、帳面に書いた。灯りはつけなかった。窓の月明かりで、字は半分しか見えなかった。
八月十四日
お絹 盆踊りへ行かない 当日ぐずったことにする(お絹から)
おじさま 三村の紙 撤回の書面に署名済み(十三日)
おじさま・小野さん 十七時 梁を確認(大人の証人 二人目)
小野さん 今夜、支えの角材を入れる
おじさま 駐在へ内密に
二十二時過ぎ 庭 母と伯父
「子に灯籠を持たせる」「怖がっていると皆に言ってある。だから行く」
「水音は兄様に」「丸太を舟屋の張り出しに」「番人は盆踊り」
「恭介さんは三時。辰巳が帝都から打つ」「今朝、一臣に駅まで送らせた」
伯父「後見は親族会で決まる」 母(独り言)「決めるのは、私です」
最後の一行を、私はしばらく見ていた。
十二歳の秋、母は私に、兄に後見を奪われた話をした。日付のない話だった。
前回、九月十五日の親族会のあと、母は廊下で湯呑を落とした。知らなかったから落としたのか、知っていたが耐えられなかったから落としたのか、湯呑一つでは分からない、と十歳の私は書いた。
今夜、伯父は、後見は親族会で決まる、と言った。母は答えなかった。一人になってから、決めるのは私です、と言った。
母はたぶん、今夜まで、後見は自分のものだと思っていた。今夜、兄の口ぶりで、そうではないかもしれないと知った。知って、それでも計画をやめると言わなかった。
前回の湯呑の意味が、半分だけ分かった気がした。半分なのは、前回の十四日の夜、私は二階で眠っていて、庭の声を聞いていないからだ。
決めるのは、私です。
一日。