天導ルリカは生まれるのを止めた
第十七話 三時の電報
第十七話 三時の電報
八月十五日、朝から夕方まで。
*
朝食は、広間で皆そろってとった。
おじさま、伯父、一臣さま、母、父、私。小野さんは給仕に立っていた。澪は番人小屋にいた。お絹は台所だった。
私は父の隣に座った。
父は、味噌汁の椀を持ったまま、湖を見ていた。
「今日は、晴れるな。灯籠日和だ」
「とうさま」
私は、椀で口元を隠して、小声で言った。
「今日の三時に、本社から電報が来ます」
父は、椀を下ろさなかった。
「ん?」
「至急帰京せよ、って。うそです。本社は出していません」
父は、私の顔を見た。
「何を言っとる」
「郵便局から、本社へ電話してください。汽車には乗らないで」
父は、少し笑った。笑って、私の頭を撫でた。
「夢でも見たか」
「……うん。夢」
私はそう言って、飯を食べた。
父は、それ以上何も言わなかった。母は、向かいの席で伯父と話していた。こちらを見ていなかった。見ていなかったと、私は思った。
言葉は、証拠にしない。規則の三つ目だった。父が今、私の言葉を信じなくていい。三時になれば、父は電報を自分の手で受け取る。受け取ったとき、朝の娘の言葉を思い出す。思い出したことは、父が自分で思い出したことになる。
*
昼前、澪と裏山の入口で木苺を探した。
「るりちゃん。今晩、何があるの」
澪は、赤い実を一つ口に入れて、酸っぱそうな顔をした。
「灯籠」
「そうじゃなくて」
澪は私の顔を見た。十一歳の目だった。何でも自分で確かめたがる子の目だった。
「おとうちゃん、昨日の晩、寝てない。夜中に、あたしの舟に角材を一本積んで、十三本目の杭の脇に舫ってた。そこから梁の下に角材を入れたんだって。三度、上で跳ねて、びくともしないって言ってた。今朝は舟屋の裏で、その舟の舳先に、カンテラを吊るす鉤をつけてた」
「うん」
「なんで」
私は、木苺を一つ摘んだ。
「今晩、澪ちゃんは、お父さんのそばにいて」
「なんで」
「お父さんが、澪ちゃんのそばにいてほしいから」
澪は、しばらく私を見ていた。
「るりちゃんは」
「わたしは、お絹のそば」
澪は、木苺をもう一つ私にくれた。
「あしたも、いちご」
「うん。あしたも」
約束した。前回の十歳の瑠璃は、この約束をしていない。前回の十五日は、澪と木苺を探す前に終わっていた。
*
午後三時。
私は縁側で、父の船を膝に載せていた。父は縁側の端で、将棋盤を出して、一臣さまに駒の動かし方を教えていた。
玄関で、声がした。
「電報でございます。天導恭介様」
村の郵便局の配達人だった。自転車の鈴が一度鳴った。
父が立った。玄関へ行った。私は縁側から、父の背中を見ていた。
父は、電報の紙を開いた。
読んだ。
父の手が、止まった。背中が、動かなくなった。
十秒か、二十秒。父は玄関の土間に立ったまま、電報を見ていた。それから、ゆっくり振り向いて、縁側の私を見た。
私は、父の船を膝に載せたまま、父を見返した。
父の顔から、血の気が引いていた。
「……本社からだ」
父は、広間のほうへ向かって、大きな声で言った。
「至急帰京せよ、と。秋の船のことで、何かあったらしい」
母が広間から出てきた。
「まあ。今日でなくても」
「本社の言うことだ。仕方ない」
父は、母の顔を見なかった。
「五時の汽車で行く。駅まで、先に郵便局へ寄って、社に電話を入れておく。何があったか聞いておかんと」
「電話なら、ここの帳場にもありますよ」
「帳場の電話は、声が広間まで筒抜けだ。社の話は、人に聞かせるもんじゃない」
父はそう言って、二階へ上がった。背広に着替えて、鞄を一つ持って、下りてきた。
伯父が縁側から言った。
「恭介君、灯籠は残念だな」
「はい。すみません」
父は玄関で靴を履いた。履きながら、一度だけ縁側の私を見た。
何も言わなかった。
父は、自転車の配達人が来た道を、歩いて村のほうへ下りていった。
*
父が戻ってきたのは、午後六時過ぎだった。
玄関からではなかった。裏の林を抜けて、舟屋の脇から庭へ入ってきた。背広の裾に、草の実がいくつもついていた。
私はお絹と、裏庭の井戸端にいた。お絹に頼んで、そこにいてもらったのだった。
父は、私たちを見つけて、足を止めた。
お絹が、息を呑んだ。
「旦那様。お汽車は」
「乗っとらん」
父は、井戸端にしゃがんで、私の顔を見た。しゃがんだ父の目の高さが、立っている私の目の高さと同じだった。
「郵便局から、社に電話した。部長が出た。電報など打っとらん、と言った。何のことだと言われた」
私は、頷いた。
「それから、駐在さんに頼んで、警察から帝都の電信局に電話してもろうた。今日の午後二時半ごろ、帝都の局から湖の郵便局へ打たれた電報がある。打ちに来た者の書いた頼信紙が、局に残っとる。それを、捨てずに取っておいてくれと頼んだ」
父は、そこで一度、息を吸った。
「局の者が、打ちに来た男を覚えとった。二十七か八の、商家の手代ふうの男だったそうだ。本社の者なら、社の封筒を持って来る。そいつは、何も持っとらんかった」
「瑠璃」
「はい」
「朝、お前は、三時に電報が来ると言うた」
「はい」
「うそだと言うた」
「はい」
「うそだった」
父の声は、震えていた。
「なんで、分かった」
私は、答えなかった。答えられる言葉は、この人にも、十歳の私にはなかった。
父は、答えを待たなかった。私の頭に手を置いた。前回、雨の玄関で最後に置いたのと同じ置き方だった。
「お前が何を知っとるのかは、父さんには分からん。分からんが、今日は父さんは、お前から離れん」
「とうさま。おじさまのところへ行って」
私は言った。
「おじさまが、待ってる。電報が本当かどうか、おじさまも知りたがってる」
父は、目を丸くした。
「宗一郎さんが」
「お絹が、ここにいてくれる」
お絹が、背筋を伸ばした。
「わたくしが、お嬢様のそばにおります。旦那様」
父は、お絹を見て、私を見て、それから立ち上がった。
「……分かった」
父は、裏口から家に入った。おじさまは、夕方から自分の部屋で書き物をしていると言っていた。
*
六時半、母が私を呼びに来た。
「瑠璃。灯籠の支度をしましょう。浴衣を着替えて」
母は、井戸端のお絹を見た。
「お絹。あなた、盆踊りは」
「お嬢様が、ぐずりまして」
お絹は、困った顔を作って笑った。
「一人になりたくないと、おっしゃるのです。今年は、お側におります」
母は、少しのあいだ、お絹を見ていた。
「……そう。仕方のない子ね」
母は、私の手を取った。
「では、お絹、浴衣を着せてあげて。灯籠は、七時半から。あの子の灯籠は、縁側に置いてあります」
母は、家の中へ戻っていった。
母の指が、私の手首を掴んでいた位置は、いつもと同じだった。
*
七時。浴衣に着替えて、縁側に出た。
縁側の端に、母が銀座で作らせた灯籠が置いてあった。白い紙の、四角いもの。角に瑠璃色の紙の星。中に、短い蝋燭が一本立っていた。
岸には、もう提灯が並んでいた。伯父が、提灯の列の端に立って、小野さんを探していた。
「番人はどうした」
「盆踊りだと、聞いております」と星見荘の留守番の女中が答えた。
伯父は、そうか、と言った。
小野さんは、桟橋のそばにいた。日のあるうちに、澪の舟を、桟橋の脇の十三本目の杭の陰に入れてある。岸の提灯の光は、そこまで届かない。支えの角材は、ゆうべのうちに入れてある。
角材のことは、昼に澪から聞いていた。
おじさまが、一人で縁側に出てきた。
おじさまは、私の前に立って、しゃがんだ。
「二つ目も、当たった」
おじさまは、小声で言った。
「恭介君は、もう付け根の下にいる。今は帝都へ向かう汽車の中にいることにしてくれと頼んだら、黙って頷いた。お前が戻ってくるまで、そこを動かんと言っていた。駐在は、舟屋の裏手の林だ。村の若い者を二人連れてきた。張り出しへは、舟屋の外を回って出られる」
「はい」
「瑠璃。今夜、私は何をすればいい」
私は、おじさまの目を見た。
「走らないでください」
「……それだけか」
「それだけです。わたしが落ちたと誰かが叫んでも、走らないで。灯りを掲げて、桟橋の付け根に立っていてください」
おじさまは、私の顔を見ていた。
「お前は、桟橋の先へ行くのか」
「行きます。行かなければ、母は別のことをします」
「私が代わりに行く」
「おじさまが行ったら、罠のとおりです」
おじさまは、黙った。
紙を撤回したことを、母に知らせたとは聞いていない。今夜を止めても、十月までに別の日を選ぶ。十四日の夕方、岸で小野さんが角材の話をしたとき、おじさま自身がそう言った。今、皆の前で手を出させるしかないと、私は思った。
角材は、小野さんが自分の体重で三度確かめたと、澪から聞いた。舟屋の裏手の林には駐在がいる。杭の陰には、小野さんと澪の舟がいる。落ちても、落ちた場所に大人がいる。おじさまは、桟橋へ目を向けたまま、まだ黙っていた。
七時二十分だった。