天導ルリカは生まれるのを止めた
第十八話 灯籠の夜
第十八話 灯籠の夜
八月十五日、夜。
*
七時三十分、灯籠流しが始まった。
岸に提灯が十二並んでいた。客は、分家の人たちと、村の世話役が数人。合わせて二十人ほど。大人たちは、岸の砂利の上で、一人ずつ灯籠に火を入れて、水に置いた。灯籠は、風のない湖面をゆっくり離れていった。
前回の十歳の瑠璃は、この光景を見ていない。宴の途中で眠らされていた。白石澄が十六日の未明に舟屋の戸口から数えたのは、流れたあとの二十の灯籠だった。
今、私は流れる前の灯籠を見ている。
母が、私の隣に来た。
母は、紅と白の大きな花を染めた浴衣を着ていた。前回、舟屋の戸口で、髪を片側ほどいて膝をついた母が着ていた浴衣だった。宴の夜の母は、いつも岸でいちばん目立つ色を着る。
「瑠璃。あなたの番よ」
母は、縁側から持ってきた瑠璃色の星の灯籠を、私の手に載せた。蝋燭に、母が自分の手で火を入れた。
「一人で行けるわね。もう大きいんだから」
「はい」
「一番先から流すのよ。皆が見ているわ」
母は、周りの客にも聞こえる声でそう言って、私の背中を軽く押した。
私は、桟橋の付け根へ歩いた。
歩きながら、岸の提灯の列を見た。七時に列の端に立っていた伯父の姿が、そこになかった。一臣さまは、列の中ほどに一人で立っていた。
付け根には、おじさまが立っていた。提灯を一つ持っていた。父は、付け根の板の下にいるはずだった。板が提灯の光を遮っていた。岸の列からは見えない。
私が付け根に着くと、おじさまが小声で言った。
「戻ってこい」
「はい」
私は舟屋と反対側の縁にしゃがみ、灯籠を持ち直した。板の下から、大きな手が一度だけ伸びてきて、私の頭に置かれた。父は、何も言わなかった。
私は、桟橋の一枚目の板に、足を載せた。
*
板は、三十六枚あった。
一枚ずつ数えた。前回の十八歳の夏、架け替えられたあとの桟橋を、私は四十二枚数えた。今夜の桟橋は、古い桟橋だった。灰色に褪せた板で、ところどころ、釘の頭が浮いていた。
灯籠の火が、足元の板を照らしていた。
十枚目。
背中に、岸の提灯の光があった。前には、暗い湖があった。流れていった灯籠が、湖の中ほどに、いくつも浮いていた。
十五枚目。
十八枚目で、十三本目の杭の上に来た。
板が、少しだけ鳴った。鳴っただけだった。私の足の下で、梁は持った。下に、小野さんの入れた角材がある。桟橋の脇の暗がりに、澪の舟と小野さんがいる。見えなかった。見えないようにしてある。
十歳の瑠璃の膝が、震えていた。白石澄は、それを止めなかった。止めても、止まらなかった。
二十枚目。
岸からの声が、遠くなった。自分の息の音だけが聞こえた。
二十六枚目。二十七枚目。
前回、おじさまはこの板を、暗闇の中で走った。娘がいないと聞いて。灯りも持たずに。前回折れたのは、先端の柱だった。今夜、切られているのは、中ほどの梁だった。どちらも、この人を殺すために切られた木だった。
三十枚目。
三十六枚目。
先端に着いた。
私は、振り返らなかった。膝をついて、灯籠を水面に下ろした。瑠璃色の星の灯籠は、水に触れて、少し傾いて、それから真っ直ぐに浮いた。
指を離した。
灯籠は、杭の近くでしばらく回ってから、ゆっくり先端を離れ始めた。
*
そのときだった。
桟橋の脇の、舟屋のほうの暗がりで、大きな水音がした。
重いものが、水に落ちた音だった。水しぶきが上がる音が、先端まで届いた。
一拍おいて、岸から叫び声がした。
「瑠璃が落ちた!」
母の声だった。
「瑠璃が、瑠璃が落ちたわ! 桟橋から!」
続けて、伯父の声がした。岸の提灯の列からではなかった。舟屋のほうの暗がりからだった。
「先端だ! 落ちたぞ! 宗一郎、先だ!」
岸の提灯が、一斉に揺れた。客たちの声が重なった。何、どこ、と誰かが叫んだ。
私は、先端に立ったまま、振り返った。
桟橋の付け根で、おじさまの提灯が揺れた。
揺れて、止まった。
おじさまは、走らなかった。
提灯を、頭の上へ掲げた。
「瑠璃なら、そこにいる」
おじさまの声は、よく通った。十四日の夕方、自分の母親のために灯籠を流したときの声とは違った。星の間で時計の話をするときの声とも違った。四十三の時計を、全部自分で巻いている人の声だった。
私は、灯籠を離したばかりの手を、上へ掲げた。火はもう、手元になかった。代わりに、浴衣の白い袖を振った。
「おじさま。わたしは、ここです」
岸の声が、止まった。
先端から少し離れたところで、私の灯籠がまだ回っていた。その火が、浴衣の白い袖をかすかに照らしていた。二十人の目が、桟橋の先の私を見た。
*
桟橋の脇から、灯りが上がった。
澪の小さな舟だった。十三本目の杭の陰から、舟が一艘、ゆっくり出てきた。舳先の鉤に、カンテラが一つ吊るしてあった。小野さんは、櫂を片手に、もう一方の手でカンテラを外して高く上げ、板の下へ差し入れた。
光が、桟橋の下を照らした。
梁の下の面の、白い切り口が見えた。その真下に、古い角材が一本、斜めに差し込まれていた。
岸の何人かが、声を上げた。
小野さんは、カンテラを舟屋のほうへ向けた。
伯父が、そこにいた。
舟屋の、湖の上に張り出した板の端に。伯父の足元の板が、水に濡れて黒く光っていた。伯父の右の袖が、肘まで濡れていた。張り出しの端から、湖の水面まで、濡れた筋が一本垂れていた。その先の水面に、丸太が一本、浮いていた。
舟屋の裏手の林から、人影が三つ、外壁に沿って出てきた。駐在と、村の若い者が二人。
駐在が、伯父の濡れた右腕を取った。
伯父は、振り払おうとした。若い者の一人が、伯父の反対の腕を取った。
「何をする。私は、姪が落ちたと聞いて――」
「姪御さんは、あちらに」
駐在は、桟橋の先の私を、顎で指した。
伯父は、桟橋の先を見た。
浴衣の白い袖を振っている十歳の子を。
伯父の口が、開いたまま、閉じなかった。
*
一臣さまが、岸の提灯の列から、一歩前へ出た。
一臣さまは、舟屋の張り出しの父親を見ていた。濡れた袖と、湖に浮いた丸太と、それから桟橋の先で手を振っている私を、順に見た。
一臣さまは、何も言わなかった。
言わなかったが、その顔を、私は覚えておくことにした。昨日の夕方、渡された船をまず裏返して底を確かめた人が、今は、自分の父親が叫んだことと、目の前にある物を、一つずつ突き合わせている顔だった。
*
母は、岸の砂利の上に立っていた。
叫んだ口のまま、立っていた。
母の周りの客たちが、少しずつ母から離れた。誰も、何も言わなかった。村の世話役の一人が、隣の人に小声で言うのが聞こえた。
「奥様は、瑠璃さんが落ちたと……」
言いかけて、世話役はやめた。桟橋の先の私のほうを見て、それから、また母を見た。
母は、私を見ていた。桟橋の先の私を。
十八歳の四月二十日の夜、星の間で、母は泣いてから話した。今夜の母は、泣かなかった。泣く順番を、なくしたのだと思った。
*
私は、桟橋を戻った。
三十六枚の板を、一枚ずつ。今度は数えなかった。
付け根で、父が待っていた。騒ぎのあいだに、板の下から砂利へ上がり、光の中へ出てきていた。
父は、付け根から一歩も先へは動いていなかった。私が最後の板から砂利へ降りたとき、父は砂利に膝をついて、両手を広げた。
私は、父の腕の中へ入った。
膝をついた父の肩に、十歳の私の顎がちょうど載った。父の胸が、速く打っていた。背広の肩に、林の草の実がまだついていた。
「……戻ってきたな」
「うん」
「落ちるときは、落ちると言ってから落ちろと、言うたろう」
「落ちなかった」
「そうだな」
父は、私の背中を大きな手で二度叩いてから、腕をほどいた。立ち上がって、私の手を握った。父の手は、私の手をすっかり包んだ。
おじさまが、提灯を下ろした。下ろして、しばらく桟橋の先を見ていた。私の灯籠は、もう湖の中ほどの、他の灯籠の中にまぎれていた。
「あれは、どこまで行く」
おじさまが、誰にともなく言った。
「向こう岸までは行かん。途中で沈む」
自分で答えて、おじさまは少し笑った。
それから、お絹を呼んだ。
「お絹。瑠璃を、家の中へ。私の部屋へ。今夜は、この子から離れるな」
「はい、旦那様」
父が、握っていた私の手を、お絹の手に渡した。
家へ入る前に、私は一度だけ振り返った。
岸の提灯の列の中で、母はまだ、砂利の上に立っていた。誰も母のそばにいなかった。
母の顔は、私のほうを向いていた。
*
おじさまの部屋で、お絹が私に麦湯を飲ませてくれた。
冷たかった。糖蜜の味はしなかった。
私は、湯呑を両手で持ったまま、帳面を開いた。お絹が、灯りを寄せてくれた。
八月十五日
十九時三十五分ごろ 提灯の列に伯父がいない(七時には列の端にいた)
十九時四十一分ごろ 桟橋の先で灯籠を流す
同 水音(舟屋のほう) 母「瑠璃が落ちた」 伯父(舟屋のほうから)「先端だ、落ちたぞ、宗一郎、先だ」
同 おじさま 走らず 「瑠璃なら、そこにいる」
同 小野さんの舟 梁の切り口と支えの角材を照らす
同 伯父 舟屋の張り出しの端 右袖が濡れている 丸太が水面に
同 駐在 伯父の腕を取る
同 一臣さま 列の中ほど 父親の叫びを聞いた
見た者 岸の客二十人ほど
書いてから、最後の行を見た。
二十人。
十歳の子の言葉ではなかった。二十人の大人が、それぞれ自分の目で見た。
白石澄は、報告書の一行目を書き直す必要がないと思った。
ここまでは、予防だった。
ここから先は、調査だった。