星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第十九話 十歳の逆断罪(1/2)

第十九話 十歳の逆断罪

八月十五日、深夜。星見荘、広間。

 *

十時を過ぎて、おじさまが私を広間へ呼んだ。

お絹は反対した。こんな時刻に、こんなお子を、と。おじさまは、お絹に私の手を引かせたまま、言った。

「この子が始めたことだ。終わるところを、この子に見せる」

広間には、灯りが六つ入っていた。

上座に、おじさまが座った。その右に、父。左に、駐在と、村の世話役が一人。伯父は、広間の真ん中に座らされていた。両脇に、村の若い者が一人ずつ。伯父の右の袖は、まだ湿っていた。

母は、伯父から少し離れて、壁際に座っていた。誰も母の腕を取っていなかった。取る理由が、まだなかった。叫んだだけの人の腕は、取れない。

小野さんと澪が、縁側に近い下座にいた。一臣さまは、父親の後ろの壁際に立っていた。分家の客たちは、帰らずに、広間の端に並んでいた。

私は、お絹に手を引かれて、父の隣に座った。

十八歳の四月二十日の夜、星の間で、私は親族会の長老三人の前に立った。証拠を出した順番は、澪が決めたものだった。最後に私が出した物は、私が作った物で、私の沈黙の証拠になった。

今夜の順番は、私が決める。

そして、私は何も出さない。

 *

「瑠璃」

おじさまが言った。

「はい」

「皆に、話すことがあるか」

私は、立った。十歳の身長では、座っている大人たちとほとんど同じ高さだった。

「わたしの言葉は、証拠にしません」

広間が、少しざわめいた。

「わたしは十歳です。十歳の子の言うことは、夢で済みます。母が、そう言っていました。わたしが湖の悪い夢を見る、と」

壁際で、母の肩が動いた。

「だから、わたしは何も言いません。見た人が、見たことを言ってください。順番だけ、わたしが言います」

おじさまが、頷いた。

「小野さん」

 *

小野さんは、下座で立ち上がった。帽子を胸に当てていた。

「八月一日から、毎朝、桟橋の柱を見ておりました。娘に、お嬢様からの手紙で頼まれまして」

小野さんは、前掛けのかくしから、紙を二枚出した。

「一枚目は、柱です。八月一日から今朝まで、十五日分。毎朝、異常なし」

駐在が、紙を受け取った。

「二枚目は、梁です。八月十三日、夕方五時四十分。付け根から十三本目の杭の、梁の下の面に、新しい切り口。梁の太さの半分と少し。木屑が湿っておりませんでした。切られたのは、その日か、前の晩です」

小野さんは、一度、紙から目を上げた。

「十一日の昼に、私は舟の底を見に、桟橋の下を通っております。そのときには、梁に切り口はございませんでした」

「十一日から十三日のあいだに、湖へ来たのは」と駐在が訊いた。

「分家の旦那様が、十二日の夕方からおいででした。手代の辰巳さんがご一緒で。ご家族様は十三日の午後四時過ぎ。本家の旦那様は十四日」

小野さんは、それだけ言って、座った。

伯父は、黙っていた。

 *

「おじさま」

私は言った。

おじさまは、座ったまま話した。

「十四日の夕方五時、小野と二人で、舟で桟橋の脇へ回った。脇から板の下を覗いた。十三本目。梁の下。小野の言ったとおりの切り口があった。私が、自分の目で見た」

おじさまは、伯父のほうを向いた。

「八月二日、佐伯が私に、星見荘の物置用に細工鋸を一挺、本家の払いにしてくれと言ってきた。請取は七月三十日。板の下から挽く、柄の曲がったものだと。注文したのは、貞光さん、あなただ」

伯父の顔が、少し動いた。

「大工の真似をする、と私は笑った。笑って、払った」

駐在が言った。

「その鋸は、さきほど、分家の旦那様のお部屋の行李の底から出ました。刃の目に、新しい木屑が詰まっております。桟橋の梁と同じ松です」

広間の端で、分家の客の誰かが息を呑んだ。

 *

「とうさま」

父は、立った。立って話した。

「今日の午後三時に、本社から至急帰京せよという電報が来ました。郵便局の電話で本社に確かめました。部長は、そんな電報は打っていないと言いました」

父は、懐から電報の紙を出して、駐在に渡した。

「帝都の電信局に、打ちに来た者の頼信紙が残っております。駐在さんに頼んで、警察から、捨てずに取っておくよう電話してもらいました。午後二時半ごろ、帝都の局です。局の者は、打ちに来たのは二十七か八の、商家の手代ふうの男だったと言うとります」

父は、伯父を見た。

「辰巳君は、今日、湖におりますか」

伯父は、答えなかった。

一臣さまが、壁際から言った。

「……辰巳は、昨日の朝、父の使いで帝都へ戻りました」

伯父が振り向いた。一臣さまは、父親の顔を見なかった。駐在の顔を見ていた。

「父に言われて、私が駅まで送りました」

 *

「お絹」

お絹は、私の後ろで立った。私の肩に手を置いたまま話した。

「八月一日に、奥様から、十五日の晩は村の盆踊りへ行っておいでと言われました。お嬢様のお世話はいいから、と。お小遣いも、いただきました」

お絹は、袂から紙に包んだ小銭を出して、膝の前に置いた。

「行きませんでした。お嬢様が、そばにいてとおっしゃったので」

母が、お絹を見た。

お絹は、母を見返さなかった。私の肩の上の手に、少し力を入れただけだった。

 *

「一臣さま」

一臣さまは、壁際で、しばらく動かなかった。

それから、一歩前へ出た。父親の後ろではなく、父親の横に立った。

「灯籠が始まる少し前に、父は提灯の列を離れました。舟屋のほうへ歩いていきました」

一臣さまの声は、低かった。

「水音がしたあと、叔母が、瑠璃が落ちた、と言いました。それから、父の声が、先端だ、落ちたぞ、宗一郎、先だ、と言いました。列からではなく、舟屋のほうの暗がりからでした。父の声です。聞き違えません」

一臣さまは、そこで一度、息を吸った。

「瑠璃さんは、落ちていませんでした。先端に立っていました。瑠璃さんの流した灯籠の火で、列の中ほどにいた私からも、浴衣の袖が見えました。舟屋の張り出しからなら、私のいた所より近い」

伯父が、息子の名前を呼んだ。

「一臣」

「はい」

一臣さまは答えて、それ以上何も言わなかった。

 *

「駐在さん」

駐在が、手帳を開いた。

「十九時四十一分ごろ、舟屋の裏手の林で待っておりました。水音のあと、分家の旦那様が舟屋の張り出しの端におられました。右の袖が肘まで濡れておりました。張り出しに置いてあった丸太が、水面に浮いておりました」

駐在は、手帳を閉じた。

「それから、先ほど、ご一行のお荷物を改めさせていただきました。本家の旦那様のお許しを得て」

駐在は、壁際の母のほうを向いた。

「奥様の行李から、袱紗の包みが一つ出ました。中に、茶色の小瓶が一本。蘆田医院の札がついております。抱水クロラール水薬。七月十日、十日分。中身は、半分ほど減っておりました」

広間が、静まり返った。

「同じ包みに、糖蜜の小壺が一つと、子ども用の銀の匙が一本」

私は、駐在の手の上の匙を見た。

宴の夜に、私にだけ出される匙だった。前回、お絹が母の盆の上に見たのは、糖蜜で濡れた、この匙だった。

今夜の母の計画に、薬は要らなかったはずだった。娘が桟橋を怖がって行かなかったときの、もう一つのやり方だったのだろう。

 *

伯父が、立ち上がりかけた。若い者二人が、伯父の肩を押さえた。

「計画は、妹のものだ」

伯父は言った。声が裏返っていた。前回の十八歳の四月、星の間で、辰巳の名前を呼んだときと同じ声だった。

「私は、妹に頼まれた。宗一郎が婚礼の前に死ねば、娘が跡取りになる。そう言ったのは藤乃だ。私は、手を貸しただけだ」

分家の客たちが、顔を見合わせた。恭介の娘が、なぜ本家の跡取りになるのか。その問いが、声にならないまま広間の端を回った。

母が、壁際で顔を上げた。

「兄様」

母の声は、落ち着いていた。

「兄様は、昨日の晩、庭で、後見は親族会で決まるものだとおっしゃいました。私に手を貸したのではなく、私の娘の後見を取るために、手を貸したのでしょう。親族会のお三方には、もう何かお書きになって、お送りになったのではありませんか」

伯父の顔が、固まった。

前回、一臣さまが伯父の書斎の机から見つけた下書きは三枚で、日付は七月だった。母はその紙を見ていないはずだった。伯父の顔が、母の問いに答えていた。

「藤乃」

「決めるのは私だと、昨日、兄様には申しませんでしたけれど」

母は、そこで口を閉じた。

分家の客の一人が、低い声で何かを言った。世話役が、その人を制した。

一臣さまは、父親の横に立ったまま、叔母の顔を見ていた。

伯父と母は、互いを見ていた。兄と妹が、互いの計画を、互いの口で並べ終えた顔をしていた。

 *

母が、私を見た。

「皆さま」

母は、広間の大人たちに向かって言った。前回の十八歳の四月、星の間で、泣き終えてから話した声と同じだった。震えていなかった。

「この子は、このところ、湖の悪い夢を見る子です。桟橋が怖いと、夜中に泣くのです。今夜のことも、この子が夢で見たことから始まったと、皆さまはお聞きになったでしょう」

母は、私を指さしはしなかった。目だけを、私に向けた。

「十歳の子の夢を、皆さまは信じるのですか」

声が、少し高かった。兄がもう自分で話したあとで、夢の話をしても、何も戻らない。それが分からない人ではなかった。分かっていて、ほかに言うことがなかったのだと思う。

広間の大人たちが、私を見た。

私は、母を見返した。

「わたしの言ったことは、ひとつも使っていません」

私は言った。

「梁の切り口は、小野さんが見ました。おじさまも見ました。鋸は、佐伯がおじさまに言い、駐在さんが見つけました。電報は、とうさまが受け取って、本社に確かめました。盆踊りのことは、お絹が言われました。先端だと叫んだ声は、一臣さまが聞きました。濡れた袖と丸太と薬の瓶は、駐在さんが見ました」

私は、息を吸った。

「わたしは、順番を言っただけです」

母は、何も言わなかった。

私は、父の隣に座り直した。父の大きな手が、私の肩に載った。

 *

おじさまが、上座で背を伸ばした。

「皆が話したことを、私が並べる」

おじさまは言った。

「瑠璃の言ったことは入れない。私が自分で見たことと、今ここで皆が言ったことだけで並べる」

広間が、また静かになった。

「梁を切ったのは、貞光さんだ。切り口は、十一日には無く、十三日の夕方にはあった。十一日から、藤乃たちの着いた十三日の夕方までに湖へ来たのは、十二日の貞光さんと辰巳だけだ。梁を下から切る鋸を注文したのも、その鋸を行李に入れていたのも、今夜、丸太を湖へ落としたのも、貞光さんだ」

伯父は、畳を見ていた。

「だが、梁を切っただけでは、人は死なない。誰かが、桟橋の先へ走らなければ、梁は折れない。走らせるには、桟橋の先に、落ちたと言われる子がいなければならない」

おじさまは、広間の端の客たちを見た。

「今夜、瑠璃に、一人で一番先から流しなさいと言ったのは誰だ」

分家の客の一人が、小さな声で答えた。

「……奥様が。皆が見ているわ、と。私どもの前で」

「お絹を盆踊りへやって、瑠璃のそばを空けたのは誰だ。瑠璃は落ちていないのに、落ちたと最初に叫んだのは誰だ」

誰も答えなかった。答えは、岸にいた全員が見ていた。

「恭介君に偽の電報を打ったのは、恭介君がいれば、娘が落ちたと聞いた途端に、誰より先に走るからだ。私ではなく、恭介君が走る。……恭介君がそういう人だと、十五年、同じ家で見てきたのは誰だ」

私の肩の上で、父の手が固くなった。

「最後に、なぜ今年なのか。なぜ、十月の婚礼の前なのか」

おじさまは、懐から封筒を一つ出した。

「三村が預かっている紙がある。私が死んだときにだけ、瑠璃を私の子にする紙だ。去年の暮れに、藤乃に頼まれて書いた」

広間の端で、分家の客たちが顔を見合わせた。瑠璃が誰の子か。それを、おじさまは今、自分の口で言った。

私の肩の上の、父の手は、動かなかった。

「婚礼の前に私が死ねば、瑠璃は私のただ一人の子として、この家の跡を取る。幼い跡取りには後見がつく。婚礼のあとで静子さんに子ができれば、その子が瑠璃より先に立つ。だから、十月の前だった。貞光さんが後見を欲しがったのも、この紙があるからだ。この紙は、藤乃が頼み、私が書き、三村が預かった」

おじさまは、母のほうを向いた。

「藤乃。計画は、お前のものだ。貞光さんは手を貸し、自分の分を別に取ろうとした」

母は、答えなかった。

 *

おじさまは、封筒から一枚の紙を出して、駐在と世話役に見せた。それから、母の前に置いた。

「十三日に、帝都で三村に会った。その紙を撤回する書面を作らせて、署名した。これが、その写しだ」

母は、紙を見下ろした。

「死んだときに効く紙は、十三日で無くなった」

おじさまは言った。

「今夜、私が桟橋から落ちて死んでも、瑠璃は跡取りにはならない。恭介君の娘のまま、分家の子のままだ。誰の後見も、要らない」

母は、紙を見ていた。

長いあいだ、見ていた。

それから、母の肩が、ゆっくり下がった。

前回の十八歳の四月、星の間で、母は泣いてから話した。今夜の母は、泣かなかった。泣いても、もう何も得られない。この人は、それを誰よりも早く計算できる人だった。

 *

おじさまが、低い声で言った。

「百合子が死んだ春から、お前は、私が決めるのを待っていた」

母は、紙から目を上げなかった。

「私は、決めなかった。静子さんとの話を受けて、お前には紙を一枚渡した。……この夏のことは、あの紙から始まった。私が渡した紙から」

母が、顔を上げた。

「十年、待ちました」

声は小さかった。広間の端までは届かなかったと思う。父の隣にいた私には、届いた。

「百合子様がいらしたあいだは、待つのが当たり前だと思っていました。この子がまだ赤ん坊のころ、あなたが本家へ迎えてくださる日の話を、毎晩しました。百合子様が亡くなった春に、今度こそと思いました」

母は、撤回の写しの端に指を置いた。

「あなたは、静子さんをお選びになりました。私には、紙を一枚くださいました。……好きでもない方を待つほど、私は辛抱強くありません。だから、もう待たないと書いたのです。書いたとおりにしただけです。決めない方の代わりに、私が決めたのです」

母は、写しから指を離した。

「その紙も、あなたがお決めになったのではないのでしょう」

母は、おじさまではなく、私を見ていた。

 *

「瑠璃」

「はい」

「あなたは、誰」

問いの形をしていた。前回の舟屋で、母が私の耳に寄せた「何も覚えていないわね」とは違った。

母の目が、私の顔の上を動いていた。額から、目へ、口へ。十二歳の秋に珈琲の色を見たときのように首を傾けることは、しなかった。

私は、母のそばへ歩いた。

父の手が肩から離れた。お絹が、私のすぐ後ろについてきた。駐在が一歩前へ出た。おじさまが、手で制した。

私は、母の耳に口を寄せた。母がいつもそうしたように。外には届かない声で。

「八年後に、あなたが、産まなければよかったと言う娘です」