天導ルリカは生まれるのを止めた
第二十話 十八歳の夜
第二十話 十八歳の夜
八年後、十八歳の四月二十日、夜。
*
披露は七時に始まった。
星の間には客が四十人いた。上座には、親族会の長老が二人と、当主の天導宗一郎が並んでいた。長老の一人は、三年前に亡くなっていた。
その後ろの壁に、四十三の時計が掛かっていた。
四十三とも、動いていた。
秒針はそれぞれ少しずつずれて刻んでいて、部屋の中は、雨が屋根を叩いているような音で満ちていた。十歳の夏から、私は毎週土曜の朝、おじさまと二人でこれを巻いてきた。十四歳からは、下の段の二十台が私の受け持ちになった。今朝も巻いた。
前回の十八歳の夜、この部屋で動いていたのは一台だけだった。残りの四十二台は、それぞれ違う時刻で止まっていた。
止まっていた時刻を、私はもう覚えていない。覚えていなくていいと思った。
*
今夜の着物は、黒地に、袖と裾の縁だけ深紅を置いた振袖だった。天導の家で、本家の血筋の子が成年披露に着る色だった。仕立てを頼んだのは、おじさまだった。
髪は結い上げて、左の鬢に銀の星を留めた。
星は、自分で留めた。鏡の中の顔は、十歳の頬の丸みをなくして、目の形が年ごとに母に似てきていた。切れ長で、少しきつい。その目で、星の角度を一度だけ確かめた。
*
おじさまが立って、挨拶をした。
四十六歳になっていた。痩せた背の高さは変わらなかったが、髪の白いものが増え、目の下の皺が深くなった。声は、よく通った。
湖の夏のあと、おじさまは静子さまと結婚した。婚礼は一年延びて、翌年の十月になった。延ばしたのは静子さまで、あんなことのあった家に、十月には嫁げません、と自分で言いに来た。そのときも、手土産の風呂敷包みを付き人に持たせず、自分で提げて本家の門をくぐった、と佐伯から聞いた。静子さまは、湖の夜のことも、私が誰の子かも、全部おじさまの口から聞いてから来た人だった。
子どもは二人いる。六つの男の子と、四つの女の子。二人とも、前列の静子さまの膝の横で、時計の音に聞き入っていた。静子さまは、今夜も髪をきっちりと結っていた。
おじさまは挨拶の終わりに、私の名前を呼んだ。
「天導瑠璃。今夜、十八になった」
それから、少し間をおいて、言い添えた。
「私の娘だ。恭介君の娘でもある」
八年前の湖の夜、おじさまは広間で、瑠璃が誰の子かを自分の口で言った。それから一年かけて、親族会の前で、生きているうちに私を自分の子として認めた。死んだら効く紙ではなく、生きている人の署名で。親族会の記録に、宗一郎の子として。
私は、恭介の娘のまま、戸籍を動かさなかった。跡取りのことは、別に決めた。本家の跡取りは、静子さまの息子が継ぐ。そう決めたのは、おじさまと、父と、私の三人だった。十四歳の夏に、星の間で。そのとき静子さまの息子はまだ二つで、決めたのは、私が跡取りにならない、ということのほうだった。
決めた日、おじさまは笑った。私は決めるのが遅いが、今度は三人で早く決めた、と。
客の拍手のあいだに、父が私の隣へ来た。
四十九歳の父は、自分の背広を着ていた。去年、造船会社の技師長になったときに仕立てたもので、大きな肩に、縫い目がちゃんと合っていた。今朝はひげも当たってきたらしく、日に焼けた頬がいつもより青かった。
*
澪が、人の輪を抜けてこちらへ来た。
十九歳。帝都の女子師範の二年だった。湖の夏のあと、おじさまが学費を出すと言い、澪は一度断った。二度目に、借りるのなら、と受けた。卒業したら湖の村の小学校に戻る、と決めている。
澪は、淡い青の洋装を着ていた。去年、私が贈ったものだった。
「借りているつもりでいますから」
「返さなくていいのに」
「そういう問題じゃないの」
いつもの言い合いだった。八年前から、ずっと。
澪は、私の隣に座った。
前回の十八歳の夜、澪は、この部屋で父親の遺書を読み上げた。星の間の真ん中に立って、長老たちの前で、父の名誉のために。
今夜の澪には、読み上げる物がない。小野さんは、今夜も湖で桟橋を見ているはずだった。湖の夏の翌年、桟橋は全部架け替えられた。板が四十二枚になった。杭も梁も新しいものに替えて、小野さんは今も毎朝、柱と、梁と、杭を見ている。小さな舟で、板の下に入って。
「お父様から、手紙」
澪が、封筒を一通出した。小野さんの大きな字で、瑠璃さまへ、とあった。
開けた。
十八のお誕生日おめでとうございます。
今朝も桟橋を見ました。異常なし。
それだけだった。
私は笑った。澪も笑った。
*
一臣さまは、分家の商会の若い主人として来ていた。
二十四歳。背広の似合う人になっていた。湖の夏のあと、伯父は服役した。商会は親族会の預かりになり、三年前、一臣さまが自分で帳簿を全部開いて、引き継いだ。
私と一臣さまのあいだに、婚約はない。
十六歳の春、分家の商会から、婚約の話が来た。親族会が仲立ちした。私は、自分で断った。
「あなたのお父様を、人前に出した夜の娘と婚約するのは、あなたに酷だから」
一臣さまは、そのとき、少し考えてから言った。
「それは、私が決めることだ」
「では、決めてください。わたしも、自分で決めます」
それから二年、一臣さまは、月に一度、本家へ帳簿を届けに来る。来るたびに、私と庭を一周して帰る。話すことは、たいてい帳簿のことだ。ときどき、船のことを話す。父が作った「るりまる」は、今も一臣さまの机の上にあるらしい。竜骨がちゃんとしている、と一臣さまは言う。
今夜、一臣さまは、会釈をしただけだった。私も会釈を返した。
それで足りた。
*
母は、今夜ここにいない。
殺人未遂の共謀で、母は十二年の刑を受けた。刑務所は帝都の北にある。
母からは、一度だけ手紙が来た。去年の秋、私の十八の誕生日の半年前に。三村さんを通して届いた。
私は、その手紙を開けていない。
封筒は、鏡台の引き出しに入っている。底板の下ではない。一番上の引き出しの、星の髪飾りをしまう小箱の隣に。
開けるかどうかは、自分で決める。今夜ではない。
*
九時少し前、宴が終わりに近づいたころ、私は星の間の窓際へ行った。
窓の外に、帝都の夜が見えた。どこかで電車が一台通った。
白石澄のことを、私はときどき思い出す。
二十九歳の、損害保険の事故調査員。休日に乙女ゲームを遊んでいた人。報告書の一行目に、いつも日時と場所を書いた人。
あの人が、どうしてここへ来たのか、私は今も知らない。二度目があったのはなぜか、それも知らない。分からないことは、分からないと書く。あの人の書式のとおりに、私は帳面にそう書いている。
ただ、一つだけ分かっていることがある。
良い子でいることは、足りなかった。十歳から十八歳までの八年、私は虐めず、焼かず、澪の側に立った。それでも断罪は来た。断罪の理由は、私がしたことではなく、あの夜の事件そのものだった。事件が起きた世界で、私の選んだやり方では、母の娘は無事でいられなかった。
だから、事件を起こさせなかった。
そして、起こさせなかったのは、十歳の私ではなかった。自分の目で柱と梁を見た番人と、自分で舟に乗って梁の切り口を見た当主と、三時の電報を自分の手で受け取った父と、浴衣を一枚来年へ回した女中と、伯父の声を暗がりの向こうに聞き分けた従兄と、濡れた袖を見た駐在だった。
私は、順番を言っただけだった。
*
九時になった。
四十三の時計のうち、鐘のあるものが、少しずつずれて鳴り始めた。一台が鳴り終わる前に次が鳴り、音が重なって、長い雨のように鳴った。
鳴り終わるまで、私は窓際に立っていた。
おじさまが、隣に来た。
「瑠璃。明日の朝、巻くか」
「巻きます。下の二十台」
「上の二十三台は、私が巻く」
おじさまは、そう言って、少し笑った。私が死ぬまで全部巻く、と湖の夜明けに言った人は、四十三のうち二十台を、娘に渡した。
それでいい、と私は思った。決めるのが遅い人が、それだけは早く決めた。
私は、帳面を持っていなかった。十八歳の夜に、帳面は要らなかった。
それでも、頭の中で、一行だけ書いた。
四月二十日、午後九時。帝都、本家、星の間。
八月十五日は、今年も来る。
何も起きない日として。