星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第二編 一臣編(1/2)

第二編 一臣編


第一章 九月の窓

 朝の四時に、店の灯りをつける。

 祖母がそうしていたからではない。四時に始めないと、十時の開店に間に合わないからだ。シュークリームの皮を四十、カスタードを二キロ、ショートケーキの台を二台。マドレーヌの生地は前の晩に仕込んで冷蔵庫で寝かせてあるので、朝は型に流して焼くだけでいい。バターを四百五十グラム量って、室温に戻しておく。量りの数字が四百五十で止まるのを見ると、朝が始まった気がする。

 店の名前は「洋菓子きりたに」。駅から商店街を三分歩いた角の、昭和のころからある小さな店だ。祖母が四十年やって、二年前に亡くなった。私は製菓学校を出てから四年、祖母の横で働いていたので、そのまま継いだ。二十四歳。人は雇っていない。仕込みも、店番も、夜の片づけも、帳面も、一人でやる。

 いちばん売れるのは、祖母の代からずっとマドレーヌだった。貝の形の、端がこんがりした焼き菓子。近所のおばあさんたちは、孫が来る日に六個ずつ買っていく。

 祖母の口癖は「生地は待ってくれないよ」だった。シューの生地は、火からおろしたら冷めないうちに絞る。メレンゲは、立てたらすぐに混ぜる。迷っているあいだに、生地のほうが先に駄目になる。だから決める。決めて、手を動かす。私はそういうふうに育った。

 去年の秋に、オーブンを買い替えた。祖母の代からのオーブンは、奥の右側だけ焼き色が濃くなる癖があって、焼いている途中で天板を回すのが私の仕事の一つだった。回しても追いつかなくなった。新しいオーブンは信用金庫から借りたお金で買って、返済は月に五万四千円。シュークリーム一個の原価は、材料と光熱費をざっと足して六十八円で、二百八十円で売る。何個売ればいくら返せるか、という勘定は夜の帳面の仕事で、朝はしない。

 定休日は水曜で、火曜の夜だけは、店を閉めたあとに好きなことをしていいことにしている。

 好きなことは、一つしかなかった。

 『帝都恋綺譚』。祖母の入院先の待合室で時間をつぶすために買ったゲームだ。いまは火曜の夜に一時間だけ遊ぶ。一時間で止める。止めないと、朝の四時に起きられない。

 私の推しは、天導一臣だった。

 無口で、本ばかり読んでいて、主人公に本を貸しても感想には「そうか」としか返さない人。その人が中盤で、主人公が風邪で読書会を休んだ日、寮の門で待っている。用事は本を返してもらうことで、返してもらっても帰らずに立っていて、「用はなくなったが、まだいる」と言う。

 初めてその場面を見た夜、私はゲーム機を膝に置いて、厨房の天井を見た。

 用がなくなってもいる人。私の周りには、そういう人はいなかった。常連のおばあさんたちは用が済むと帰る。業者さんも帰る。学校の友だちは、店の定休日と自分の休みが合わないので、少しずつ誘ってこなくなった。私のほうも、用がないのに誰かのそばにいたことは、たぶん一度もない。

 一臣のルートの最後で、彼は父親の決めた婚約を断って、主人公に手を差し出す。婚約は父が決めたことだった、これは私が決める、と言う。

 自分で決める男の人が好きだった。私も決める人間だからだと思う。

 その「父が決めた婚約」の相手が、天導瑠璃だった。

 悪役の令嬢で、一臣の婚約者で、一臣とは一度も口をきかない。一臣は彼女について、あの婚約は父たちの取り決めで、私は一度も彼女と話していない、としか言わない。初めて遊んだとき、私はその台詞に少し腹を立てた。一度も話していないのは、一臣のほうにも半分の責任がある。それから瑠璃にも腹を立てた。婚約者なのに、どうして一度も話しかけないのか。話しかけないで、主人公を虐めて、最後は断罪される。

 TRUEルートで、十七歳の瑠璃は母親の帳面と、弁護士から届いた封書を暖炉にくべる。燃える頁の絵が一枚出る。

 あの絵が出るたびに、私は声に出して言った。

「焼くな。出しなよ」

 焼いたら、何も残らない。出せば、少なくとも、自分で選んだことになる。

 その火曜の夜も、私はTRUEルートの終わりまで行った。一時間を少し過ぎた。門の外で作業着の男の人が「送っていこうか」と言うのを見て、画面を消して、厨房の奥の丸椅子に座ったまま、配合表のノートを開いた。来週から出す栗のタルトの、アーモンドクリームの配合を詰めるつもりだった。

 アーモンドプードル百グラム、バター百グラム、砂糖九十グラム、卵、と書いたところで、そのあとが切れている。

  *

 目を開けると、天井が高かった。

 黒い梁が見えた。厨房の天井は白い化粧板で、換気扇の音がする。ここでは何の音もしなかった。遠くで、砂利を踏む音がした。

 身体を起こした。起き上がる勢いが軽すぎて、前へつんのめった。布団についた手が小さい。腕が短い。

 部屋の隅に鏡台があった。覗いた。

 十歳くらいの女の子がいた。黒い髪を肩で切りそろえて、目のかたちがきつい。切れ長で、目じりが少し上がっている。頬には、まだ丸みがある。口の端が下を向いていた。泣いたあとの顔ではなかった。泣くのをやめた顔だった。

 天導瑠璃だった。

 ゲームの立ち絵よりずっと幼い。それでも、眉の角度も口の端の下がり方も、何度も見た顔だった。一臣の婚約者で、帳面を焼く子だ。

 夢だと思うには、足の裏の畳が冷たすぎた。

 鏡台の横の柱に、日めくりの暦が掛かっていた。九月十五日。その下に、筆で小さく「親族会」とある。

 九月の親族会。

 ゲームの中で、何度も文字で読んだ言葉だった。湖の事件のあと、九月の親族会で、瑠璃の父親は家を出され、瑠璃は本家の養女になった。事件は、瑠璃が十歳の年の八月十五日。

 湖の夜から、ちょうどひと月だった。

 鏡台の上に、銀の小さな髪飾りが置いてあった。星の形をしている。裏返すと、細い字で「瑠璃へ」と彫ってあった。ゲームの成年披露の場面で、瑠璃が髪に挿していたものだ。

 机の上には石盤があった。学院で使うものらしい。黒い石の板に、白い蝋石で字が書いてある。

 「パパは かえってくる」

 子どもの字だった。「る」の最後が長く伸びている。板の左の縁だけが、こすれて白く曇っていた。左手で書いて、手の側面が字の上を通ると、こうなる。私は右利きだ。この字を書いた子は、左利きだった。

 その下に、もう一行あった。こちらは新しい字だった。

 「くがつ じゅうごにち」

 今日だ。

 この子は、父親が今日この家に来ることを知っていた。知っていて、書いた。

 私は石盤を机に戻した。消さなかった。

  *

 襖が開いた。

 背の高い、細い女の人が立っていた。切れ長の目が、鏡の中の子と同じ形をしていた。似すぎている、と思った。着物は黒に近い鼠色で、帯だけが深い紅だった。華やかな色の似合いそうな人が、似合わない色を着ている。香の匂いがした。

 天導藤乃。この子の母親。

 ゲームでは、兄に言われて、十歳の娘を薬で眠らせ、湖の舟屋に置いた人だ。

 この子を、だ。

「起きていたのね」

 声は低くて、平らだった。

「今日は、お部屋から出ないように。お昼すぎに伯父さまがいらっしゃって、お話があります。お行儀よく聞くのよ」

「……はい」

 自分の声が高くて、驚いた。

 母は私の顔を見た。何か言いかけて、やめた。それから鏡台の櫛を取って、私の髪を二度梳いた。二度で、櫛を置いた。

「十月のご婚礼も、なくなりました」

 私に言ったのか、鏡に言ったのか分からなかった。

「宗一郎さまのお相手の方には、兄がお詫びの手紙を出したそうよ」

 母は出ていった。香の匂いが、しばらく部屋に残った。

 宗一郎は、十月に静子という人と結婚するはずだった。ゲームの人物紹介に、一行だけそう書いてあった。前の奥さまを病気で亡くして、何年か経っての再婚だったはずだ。その人は、湖で死んだ。婚礼は、なくなった。

  *

 窓は縦に長く、二階から前庭が見下ろせた。砂利を敷いた車寄せと、その先の黒い門。

 朝のうちに、玄関から男の人が一人出てきた。

 大柄で、肩幅が広い。背広を着ているのに、背広のほうが身体に負けている。日に焼けた首。顎に、剃り残したような無精ひげ。手に、小さな鞄を一つだけ提げていた。指が太くて、鞄の持ち手が細く見えた。

 玄関から、誰も見送りに出てこなかった。

 男の人は、砂利の上を門へ歩いた。右の足を、少しだけ引きずっていた。急がなかった。ゆっくりでもなかった。仕事の現場から次の現場へ移るような歩き方だった。

 私の手は、いつのまにか窓の硝子についていた。自分でつけた覚えがなかった。硝子が冷たかった。

 振り返って、と思った。思ったのが私なのか、この身体なのか、分からなかった。

 男の人は振り返らなかった。門を出て、左へ曲がって、見えなくなった。

 天導恭介。この子の父親。

 ゲームの最後に、門の外で「送っていこうか」と言う人だ。「昔、あなたを抱いていた者だ」と言う人。その八年前の同じ人が、いま、振り返らずに門を出ていった。

 ゲームのとおりなら、今朝の親族会で、この人は書類に署名したはずだった。この子が自分の子ではないと認める書類に。署名をして、この家を出て、南のどこかの造船所へ行く。

 私は窓から手を離した。硝子に、小さな手の跡が残っていた。

 あの人を引き止める言葉を、私は持っていない。この子の記憶は、私の中に一つもなかった。パパ、と呼べば、あの人は振り返ったかもしれない。でもそれは、この子の言葉で、私の言葉ではない。

 私は硝子の手の跡を、袖で拭かなかった。

  *

 部屋でじっとしていられなかった。

 待つのは苦手だ。オーブンの中で生地が膨らむのは、いくらでも待てる。自分では何もできないことが、どこかで勝手に決まっていくのを待つのは、昔から駄目だった。

 廊下へ出た。階段を下りた。下りたところの廊下の奥に、閉じた両開きの扉があって、その向こうから大人の声が低く聞こえた。

 扉の手前の窓際に長椅子が一つあって、男の子が座っていた。

 詰襟の学生服を着ている。背が高い。座っていても、膝が長椅子からはみ出していた。眉がまっすぐで、目を伏せて本を読んでいる。頁をめくる指が長い。

 天導一臣だった。

 顔を見た瞬間に分かった。けれど、私の知っている一臣ではなかった。ゲームの一臣は二十二、三の大人で、最後には二十四になる。この子は、どう見ても十六か、十七だ。首が細い。詰襟の首回りが、少し余っている。

 高校生だ、と私は思った。推しの、弟くらいに見えた。

 一臣が顔を上げた。

 寝間着のままの、十歳の女の子を見た。

「……天導さん」

 声は低かった。声変わりは、もう済んでいた。

 この家では、誰もが天導だ。この子も、母親も、扉の向こうの大人たちも、彼自身も。その中で、十歳の従妹を、彼は大人に言うのと同じ呼び方で呼んだ。

「部屋にいるように言われていたのでは」

「言われてました」

「そうか」

 それだけ言って、彼は本に目を戻した。叱らなかった。部屋へ戻れとも言わなかった。

 私は長椅子の端に座った。足が床に届かなかった。

 扉の向こうで、誰かが大きな声で何か言った。よく通る声だった。一臣の、頁をめくる手が一度止まった。

「伯父さまですか」と私は訊いた。

「父だ」

「何を決めているんですか」

 一臣は少し考えた。十歳の子どもに、何をどこまで言うかを考えている顔だった。それから本を閉じて、膝の上に置いた。

「あなたのことだ」と彼は言った。「あなたが、どこの家の子になるか。誰が、あなたの後見をするか」

 ごまかさなかった。子ども向けの言い方にも、しなかった。

「父が後見になると思う。あなたの母上は、それを喜ばないと思う」

「恭介さんは」

 言ってしまってから、しまったと思った。十歳の娘が父親を名前で呼ぶのは、変だ。

 一臣は、変だとは言わなかった。

「さっき、出ていかれた」

「見ました。窓から」

「そうか」

 彼は、私の顔を見ていた。私がどういう顔をしていたのかは分からない。鏡台の前の、泣くのをやめた顔のままだったかもしれない。親を亡くしたばかりの子の顔、というものがあるなら、たぶんそれだった。

 一臣は、膝の上の本を持ち上げた。

「これを置いていく」

 革の背の、厚い本だった。表紙に『北方回航記 上』とあった。

「子どもの本ではない。北の海で、船が氷に閉じこめられる話だ。分からない言葉が多いと思う。分からないところは飛ばしていい。飛ばしたところは、訊かれたら私が答える」

「……いま、一臣さんが読んでいた本じゃないですか」

「読み終わった。二度目だった」

 嘘だと思った。栞が、まだ真ん中あたりに挟まっていた。

「読む」と私は言った。言ってから、慌てて付け足した。「……読みます」

 店では敬語だったが、祖母の前では最後までうまく敬語が使えなかった。慌てると、気持ちのほうが先に口から出て、敬語があとから走ってくる。十歳の口になっても、その癖はついてきたらしい。

 一臣は、ほんの少しだけ口の端を動かした。笑ったのかどうか分からないくらいの動き方だった。

 彼は立ち上がって、本を私の膝ではなく、長椅子の横の低い棚の上に置いた。私が座ったまま手を伸ばせば届く高さだった。

「重いから」と彼は言った。

 扉が開いて、恰幅のいい男の人が出てきた。黒い羽織。赤みのある顔。よく通る声の持ち主だと、顔を見る前から分かっていた。天導貞光。一臣の父で、この子の伯父。ゲームでは、桟橋の柱に鋸を入れた人だ。

「一臣。先に車へ行っていなさい」

 伯父は私に気づいて、「おお、瑠璃。よく休んだか」と言った。優しい声だった。私は「はい」と言った。声が震えなかったので、少しほっとした。

 一臣は玄関のほうへ歩きだして、廊下の角で一度だけ振り返った。何も言わなかった。私も言わなかった。

 棚の上の本に、私は手を伸ばした。重かった。

  *

 昼すぎ、帰りぎわの伯父が部屋へ来て、決まったことを話した。

 私は今日から、本家の子になる。宗一郎さまのご遺志で、本家の養女として、いずれこの家を継ぐ。二十になるまでは、伯父が後見をする。母と私は、いずれ本家に移って住む。恭介さんは、遠くで働く。

「恭介は、自分から身を引いたのだ。立派なことだ」

 伯父はそう言って、私の頭に大きな手を置いた。

 ゲームで読んだとおりだった。

「はい」と私は言った。

  *

 その夜、眠れなかった。

 布団の中で、店のことを考えた。明日は水曜で、定休日だ。木曜の朝四時に、誰も灯りをつけなかったらどうなるか。冷蔵庫で寝かせたマドレーヌの生地は、木曜までならもつ。金曜には駄目になる。常連の佐藤さんが、下りたままのシャッターの前で首をかしげる。信用金庫の返済日は二十五日だ。

 考えても、どうにもならなかった。帰り方が分からない。