天導ルリカは生まれるのを止めた
第三章 本を汚さない菓子
第三章 本を汚さない菓子
十四歳の春に、分家の台所で天火を見つけた。
分家は、伯父の家だ。婚約の話が内々に進んでからは、母に連れられて、月に一度はお茶に呼ばれるようになっていた。その日、伯母さまが台所の奥へ案内してくれた。
「主人が、外国の船で運ばせたのですけれど」
伯母さまは、一臣の母親だ。伯父とは反対に小柄で、ふっくらした頬をしていて、話すときに少し首を傾げる。洋食が好きで、伯父はそれで、この鉄の箱を港から運ばせたのだという。
黒い鉄の箱だった。下に炭を入れる口があって、上の段に天板が二枚入る。扉の真ん中に、温度計の丸い目盛りがついていた。
「誰も使い方が分からなくて。料理番がパンを一度焼いて、真っ黒にしてしまってから、それきり」
私は扉を開けて、中を覗いた。煤の匂いがした。奥の壁に、焦げの跡が片寄ってついている。炭の口の真上だけが、黒い。
「伯母さま。これ、使ってみてもいいですか」
伯母さまは目を丸くして、それから笑った。
「瑠璃さんが?」
「はい。焼き菓子を、焼いてみたいんです」
母は応接に残っていた。私は、母のいないところで訊いた。本家の台所で断られてから、三年半たっていた。
伯母さまは、台所の女中頭を振り返った。年のいった、口の固そうな人だった。女中頭は何も言わなかった。言わないのが、この家では「どうぞ」の代わりらしかった。
「火傷だけは、しないでちょうだいね」
*
最初に焼いたのは、ビスケットだった。
型がなくても焼ける。粉と、砂糖と、バタと、卵。分家の台所には、港から来たメリケン粉の袋と、バタの缶があった。量りは匁の目盛りで、私はノートの換算表を見ながら量った。
天火の火加減は、手で見た。
温度計の針は、どこまで信じていいか分からなかった。祖母は若いころ、ガスのオーブンが入る前の窯で働いていて、そのころのやり方を一度だけ見せてくれたことがある。扉を開けて手を入れて、数を数える。熱くて手を引くまでに、いくつ数えられるか。数が少なければ火が強い。多ければ弱い。
私は手を入れて、数えた。七つで手を引いた。少し強い。炭を一つ、端へ寄せた。
最初の天板は、奥の右だけが焦げた。
私は天板を引き出して、焦げた端を見て、笑ってしまった。祖母の店の、古いオーブンと同じ癖だった。奥の右だけ、焼き色が濃くなる。
「何がおかしいの?」と伯母さまが訊いた。
「知っている窯に、似ていたので」
二枚目は、途中で天板を回した。焼き色が揃った。
伯母さまは、焼き立てを一枚つまんで、熱い熱いと言いながら齧った。齧って、目を閉じた。
「まあ。……まあ」
それしか言わなかった。女中頭も、一枚取った。何も言わずに、もう一枚取った。
*
一臣が帰ってきたのは、夕方だった。
二十になっていた。大学の最後の年で、学生服ではなく、着物に袴で帰ってきた。背が、また少し伸びていた。十歳の秋に廊下の長椅子で膝をはみ出させていた男の子は、もうどこにもいなかった。玄関で母親と話す声を、私は台所の戸の陰で聞いていた。
伯母さまが、皿にビスケットを載せて縁側へ持っていった。
「瑠璃さんが焼いてくださったのよ」
一臣は縁側に座って、本を開いていた。皿を受け取って、「そうですか」と言った。それから、本を読みながら、一枚取って齧った。
私は台所の窓から、それを見ていた。
ビスケットの粉が、頁に落ちた。一臣は読むのを止めて、頁を傾けて、粉を縁側の外へ落とした。それから、指先を袴で拭いた。拭いてから、頁の端を見た。指の脂が、紙に薄く残っていたらしい。彼はその染みを、しばらく見ていた。
二枚目には、手を伸ばさなかった。
甘いのが嫌いなのではない、と思った。一枚目は、最後まで食べていた。食べ方の問題だった。あの人は、本を読みながら食べる。片手で。頁から目を離さずに。
そういう人が食べられる菓子は、粉が落ちなくて、指に脂がつかないものだ。
私はノートを開いて、材料の行に書き足した。
材料 一臣さんの好み
本を読みながら食べる。片手。
粉が落ちるのは嫌。指の脂で頁が汚れるのは、もっと嫌。
甘いのは、たぶん平気。
十歳の秋に「分からない」と書いた行の横だった。四年かかって、一つ分かった。
*
それから、土曜ごとに分家の台所へ通った。
母は止めなかった。婚約の家へ行くのだから、止める理由がなかったのだと思う。一度だけ、「分家の台所で、何をしているの」と訊かれた。
「お菓子を焼いています」
「……そう」
母はそれ以上、何も訊かなかった。
ノートには、焼くたびに書いた。
四月十三日 二回目
バタを減らす。固すぎる。
一臣さん、噛む音が大きくて、頁をめくり損ねた。
四月二十日 三回目
バタを戻して、塩をひとつまみ。
薄く伸ばして、長めに焼く。粉は落ちない。指に脂が少し残る。
四月二十七日 四回目
卵は黄身だけ。表に卵白を薄く塗って、乾かしてから焼く。
指に、何も残らない。
バタの缶は、伯母さまの財布で買ったものだった。三回目から、私は自分の小遣いで一缶買って持っていった。伯母さまは「そんな」と言ったけれど、材料は自分で持つものだ。祖母の店で、それだけは曲げなかった。
四回目の天板を出した日、一臣は縁側で、いつものように本を読んでいた。
私は皿を持って、自分で縁側へ出た。台所の窓から見ているだけでは、分からないことがある。
「一臣さん。これ、食べてみてください」
「今日も焼いたのか」
「焼きました」
彼は一枚取って、読みながら齧った。本から目を離さなかった。粉は落ちなかった。彼はもう一枚取った。取るときも、目は頁にあった。三枚目を取るときには、皿のほうを見もしなかった。
私は縁側の端に座って、黙っていた。
一時間くらいたった。皿が空になって、一臣の指が皿の上で空を掴んだ。彼はそこで初めて顔を上げて、空の皿を見た。それから、自分の指を見た。それから、開いている頁を見た。
「……これは、本が汚れない」
言われた瞬間、声が出そうになった。
出さなかった。出したら、合格を取り消されそうな気がした。私は縁側の端で、膝の上の手を握りしめていた。
「名前は」と彼は訊いた。
「まだ、ありません」
「では、本の菓子だ」
彼はそう言って、また頁に目を戻した。
私はその夜、ノートの四回目の欄の下に、大きく書いた。
合格
品名 本の菓子(一臣さんが名づけた)
余白に、丸い、縁の薄いビスケットの絵を描いた。貝の形のマドレーヌより、ずっと簡単な絵だった。簡単な絵のほうを、なぜか長く描いていた。
*
口づけをせがんだのは、その次の土曜だった。
合格の次の週で、私は浮かれていた。浮かれているのが自分でも分かっていて、分かっていても止まらなかった。
縁側で、一臣は本の菓子を三枚食べて、四枚目を取りながら言った。
「母が、あなたにお礼をしたいと言っている。何か欲しいものはあるか」
「伯母さまに、ですか」
「私からでもいい。本の菓子の礼だ」
本を貸すとか、辞書をくれるとか、そういうものを考えている顔だった。
「……ご褒美、ですか」
「そういうことになる」
「じゃあ」
口が先に動いた。
「口づけ、して!」
庭の雀が、いっせいに飛んだ気がした。
「……ください」
敬語は、やっぱり間に合わなかった。
一臣は、四枚目を持ったまま動かなかった。それから、本を閉じた。閉じて、膝の上に置いて、菓子を皿に戻した。
「はしたない」
静かな声だった。怒ってはいなかった。
「十四の娘が、男に言うことではない。言われた男のほうも、聞かなかったことにするしかない」
私は、縁側の板の目を見ていた。
「今日は、聞かなかった」
一臣は立ち上がって、台所へ行った。伯母さまに何か言っている声がした。戻ってきたのは女中頭で、「お嬢様、お迎えの車を呼びましたので」と言った。
帰りの車の中で、私は膝に顔を埋めた。
正しいのは、一臣だった。この身体は十四だ。二十の男の人に、十四の娘が言うことではない。中に二十四の私が入っていても、身体は十四で、あの人から見えるのは十四の娘だ。あの人は、それを見たとおりに扱った。
恥ずかしかった。死にたいくらい恥ずかしかった。
それと同じくらい、あの人がああ言える人だったことが、嬉しかった。
二十の男の人が、十四の娘に、はしたない、と言う。聞かなかった、と言う。笑いもしないで、説教もしないで、それだけ言って立つ。
私の好きな人は、そういう人だった。
次の土曜、一臣はいつもどおり縁側で本の菓子を食べた。先週のことは、何も言わなかった。私も言わなかった。伯母さまだけが、少しだけ私の顔を長く見た。
ノートには、一行だけ書いた。
五月十一日 十四の私は、もう言わない。
*
勇気が出なかった日も、あった。
十五の夏、八剣神社の祭りに、伯母さまと一臣と三人で行った。母は、人混みは嫌いだと言って来なかった。伯母さまは途中で知り合いに会って、話しこんでしまった。
夜店の並ぶ参道を、一臣と二人で歩いた。人が多かった。肩が、何度も人にぶつかった。
袖を、つかもうと思った。
はぐれないように、という顔をして、一臣の着物の袖を、指で少しだけ。それくらいなら、はしたなくはない。十五の娘が、人混みで従兄の袖をつかむのは、誰が見てもおかしくない。
手を伸ばしかけて、下ろした。
もう一度伸ばしかけて、また下ろした。
一臣は、歩くのが速い人だった。その夜は、速くなかった。人混みの中で、ずっと私の半歩前を、私の歩く速さで歩いていた。私は、その半歩前の袖を見ていた。見ているだけで、参道の端まで来てしまった。
端の飴屋で、一臣は飴を二本買って、一本を私にくれた。
「母を探してくる。ここにいてくれ」
彼が人混みに戻っていくのを、私は飴を持って見送った。
帰ってから、ノートを開いた。何も書かなかった。書くことが、なかった。つかめなかった袖のことは、配合表のどの行にも入らなかった。
*
十五の秋に、私から誘った。
便箋に、用件だけを書いた。
一臣さん
来週の日曜、銀座の明星軒へ行ってください。一緒に。
シュークリームを食べます。偵察です。
瑠璃
書いてから、「行ってください」はおかしいと思った。「行きませんか」と書き直そうとして、やめた。行きませんか、と書けば、行かないという返事を選べる。選ばせたくなかった。
返事は、三日で来た。
行く。
一臣
その日曜、明星軒の硝子戸の前で、一臣は先に来て待っていた。背広だった。この春に大学を出て、分家の商会で働きはじめていた。背広を着た一臣を見るのは、それが初めてだった。
大人だった。
ゲームの立ち絵の、二十四の人に、もう半分くらい近づいていた。私は硝子戸の前で、一瞬、歩き方を忘れた。
「偵察とは、何をする」
「食べて、見て、書きます」
店の中は、洋燈の光と、焼けた砂糖の匂いがした。硝子のケースの中に、シュークリームが並んでいた。祖母の店のものより、ひとまわり大きい。皮が厚くて、上に粉砂糖がかかっている。
私は二つ頼んで、一つを一臣の前に置いた。自分の一つは、まず割った。
皮の厚さを見た。中のクリームを、匙の先で少し取って、舌に載せた。卵の黄身が多い。砂糖も多い。バニラの代わりに、何か別の香りがする。レモンの皮かもしれない。
私はノートを出して、書いた。大きさ。皮の厚さ。クリームの色と、甘さ。値段。客の入り。ケースの並べ方。
一臣は、自分のシュークリームに手をつけずに、私の手元を見ていた。
「何を書いている」
「値段と、大きさと、皮の厚さと、クリームの味です」
「なぜ」
「いつか、お店を出すので」
彼は、少し黙った。
「店」
「はい。菓子屋です」
「……どこに」
「下町に。ここのより小さくて、安いのを。お屋敷町の人じゃなくて、下町の、近所のおばあさんが、孫の来る日に六つ買えるくらいのを」
言いながら、祖母の店のケースを思い出していた。マドレーヌが六個ずつ、紙の袋に入っていく。
一臣は、私の顔を見ていた。冗談を聞いている顔ではなかった。帳簿の数字を聞いているときの顔だった。
「帳場は」
「私です」
「焼くのも、あなただろう」
「はい」
「両方は、無理だ」
「……じゃあ、そのときになったら、考えます」
一臣は、それには何も言わなかった。自分のシュークリームを、やっと手に取った。持ち上げて、しばらく眺めてから、齧った。粉砂糖が、背広の襟に少し落ちた。彼はそれを指で払った。
「甘い」
「甘いのは、お嫌いですか」
「嫌いではない。本を読みながらは、食べられない」
私は笑ってしまった。
一臣は、残りのシュークリームを皿に置いて、言った。
「あなたは、決めているんだな」
「決めてます」
「……私は、まだ決めていない」
彼は、皿の上の半分のシュークリームを見ていた。
「何をですか」
「自分が何をするか。父の商会に入ることは、決まっていた。決まっているのと、自分で決めたのは、違う」
私は、ノートを閉じた。
ゲームの一臣は、最後に、これは私が決める、と言う。いま目の前にいる人は、まだ決めていないと言った。二十一の人が、十五の娘に、自分がまだ決めていないことを、そのまま言った。
私はそれを聞いて、嬉しかった。この人がいつか決めるところを、そばで見られるかもしれない。
「一臣さん」
「なんだ」
「残りのシュークリーム、食べないなら、ください。偵察なので」
一臣は、皿を私のほうへ押した。
帰りの車の中で、私は暦の次の点までの日を数えなかった。次の点は、もう打ってあった。店を出るとき、一臣が「次の日曜は、港の荷がない」と言ったからだ。