星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第四章 門までは近すぎた(1/2)

第四章 門までは近すぎた

 十五歳の三月に、一臣へ手紙を書いた。

  一臣さん
  婚約の日に着る着物の色で、迷っています。
  藍と、緑がかった青と、どちらがいいと思いますか。
  瑠璃

 迷ってはいなかった。どちらでもよかった。一臣が選んだほうにすると、先に決めていた。

 返事は、四日で来た。

  天導さん
  緑がかったほう。
  理由は、ない。
  一臣

 理由はない、と書いてあるのが嬉しかった。理由をこしらえない人だった。

  *

 四月のはじめに、母に連れられて呉服屋へ行った。

 座敷に反物が並んで、番頭が次々に広げた。母は私の顔の下に布をあてて、光の向きを変えた。

「これは駄目。顔が黄色く見える」

「はい」

「これも駄目。婚約の席に着せる色ではない」

 母は五本ほど退けてから、藍と、その隣の、少し緑がかった青を並べた。

「瑠璃。こちらとこちら、どちらが好き?」

 私は、すぐに緑がかったほうを指した。

 母は、しばらくその布を見ていた。

「あなたは目がいい」と母は言った。「その色はね、瑠璃という色に近いの。染屋がいちばん手を抜けない色よ」

「そうなんですか」

「あなたに似合う。よく似合う」

 目がいいのは、一臣さんのほうです、と心の中で言った。

 母は番頭に反物を頼んだ。帰りの車で、母は窓の外を見ていた。私は膝の上に手を置いて、さっきの言葉を頭の中でもう一度聞いていた。

 あなたに似合う。

 鏡台の底には、藍色の帳面が入っている。四月の行に、八月、湖、灯籠、舟屋、と書いた人の帳面だ。その人が、いま、私に似合う色を選んだ。

 どちらも、同じ人だった。私はどちらも、取り消さずに持って帰った。

  *

 婚約は、四月の下旬に正式になった。

 儀式らしいことは、何もなかった。本家の応接に、伯父と伯母さまと母が並んで、家令の佐伯が書付を読み上げた。私は「はい」と言った。一臣は隣にいて、書付が読まれるあいだ、まっすぐ前を見ていた。二十二になって、背広がもう体に馴染んでいた。

 読み上げが終わると、一臣は私の袖のあたりを見て、小さく言った。

「その色で、よかった」

 私は、うつむいた。うつむいたまま、顔が熱くなっていくのが分かった。

 それから一臣は、もっと小さな声で言った。

「これで、あなたが断るときの手続きが増えた。すまない」

 私は笑ってしまって、母に見られた。

 母の目がそれたあとで、私は小声で訊いた。

「一臣さんは、嫌ではなかったんですか」

 彼は、前を見たまま答えた。

「嫌なら、三年前に自分の分も父に言っている」

 それだけだった。

 三年前の庭で、嫌なら私の父に言う、と彼は言った。あれは私の分の話だった。彼は自分の分を、三年のあいだ、一度も父親に言わなかった。

 気づいてから、私は書付を畳む佐伯の手元ばかり見ていた。顔を上げたら、何かが顔に出てしまいそうだった。

  *

 その夜、本家で夕食があった。

 伯父がよく喋り、よく飲んだ。伯母さまが笑い、母はあまり箸をつけなかった。一臣は、ほとんど喋らなかった。

 食事のあと、私は一臣を庭へ誘った。

「少し、歩きませんか」

 四月の夜で、庭はまだ冷えていた。東屋に洋燈が一つ、吊るしてあった。女中が気をきかせたのだと思う。二人で東屋に入って、腰を下ろした。

 言うことは、決めてあった。十三の秋に、婚約の話を聞いた夜から、ずっと。

「一臣さん。この婚約のことで、先に言っておきたいことがあります」

「なんだ」

「この婚約は、伯父さまの一手です。私が本家を継いでも、一臣さんが継いでも、伯父さまの家が本家を握れるように」

 一臣は、すぐには答えなかった。洋燈の芯が、小さく鳴った。

「知っている」

 彼は言った。

「父の考えそうなことだ」

 驚かなかった。彼は、そういうことを知らずにいる人ではなかった。十三の秋、先に本人へ言っておきたい、と言いに来た人だ。

「でも」と私は言った。「そうはならないんです」

 一臣が、こちらを見た。

 私は、膝の上で手を握った。握った手の中で、爪が掌に当たった。

「一臣さん。本家の乗っ取りなんて、ぜんぜんできない運命だけど、それでも私と結婚してくれる?」

 言ってから、敬語を忘れていたことに気づいた。

「……くれますか?」

 庭の奥で、何かの虫が一度だけ鳴いた。

「運命」と一臣は言った。

「はい。そういうふうになるんです。私には、分かるんです」

 理由は言えなかった。言えば、ゲームの話になる。夢で見た、と言うこともできた。言わなかった。一臣に、嘘の理由をこしらえたくなかった。

「信じなくていいです。ただ、先に言っておきたかったんです。伯父さまの思うとおりには、ならない。それでも、って」

 一臣は、長いあいだ黙っていた。

 彼の沈黙は長い。長いあいだ、私の顔を見ていた。笑わなかった。子どもの言うことを聞き流す顔もしなかった。帳簿の数字の、合わないところを見ているときの顔だった。

「どうなるかは分からない」

 彼は言った。

「……自分がどうしたいかは、自分たちで決めよう」

 洋燈の火が、少し揺れた。

 自分たち、と彼は言った。

 祖母の店を継ぐと決めたのは、私一人だった。オーブンを買い替えると決めたのも、借金を返す段取りを決めたのも、一人だった。一人で決めることには慣れていた。誰かに、一緒に決めよう、と言われたことはなかった。

 いま、言われた。

「……私は、決めてます」

 やっと、それだけ言えた。

「知っている」と一臣は言った。「明星軒で、そう言っていた」

 私はうつむいた。うつむいて、笑ってしまった。笑いながら、目の奥が熱くなった。泣かなかった。泣くのは、窯の火を落としてからにしな、と祖母は言っていた。今夜の窯は、まだ火が入ったばかりだった。

 部屋に戻って、ノートを開いた。

  四月二十七日
   婚約(正式)。緑がかった青。その色でよかった、と言われた。
   夜、東屋で。
   「どうなるかは分からない。……自分がどうしたいかは、自分たちで決めよう」

 余白に、マドレーヌを二つ描いた。並べて描いた。

  *

 五月に、一臣をお茶に誘った。

 今度は、用件をこしらえなかった。

  一臣さん
  今度の日曜、お茶にいらしてください。用事はありません。
  瑠璃

 用事はありません、と書くのに、便箋を三枚使った。一枚目は「お尋ねしたいことが」と書いてしまって、破った。二枚目は「北方回航記の下巻を」と書いてしまって、破った。用事をこしらえれば、断られない。それは分かっていた。分かっていて、こしらえたくなかった。

 一臣は来た。

 東屋に茶を出した。彼は茶を飲んで、庭の話を少しして、茶碗を置いた。十五分くらいだった。

「では」

 彼は立ち上がった。

 私は、膝の上で手を握った。

 この人は、用が済むと帰る。お茶に来てくださいと書いたから、お茶が済んだら帰る。それだけのことだった。誠実に用を果たしたから、帰るのだった。

 彼が二歩歩いた。

「あの」

 声が、思ったより大きかった。

 一臣が振り返った。

「お茶が済んでも、いてくださいませんか」

 言ってから、耳が熱くなった。庭の日差しが、急に強くなった気がした。彼は立ったまま私を見ていた。三秒か四秒だったと思う。私にはとても長かった。

「……ああ」と彼は言った。

 彼は椅子に戻った。座り直すとき、椅子の脚が石を擦って鳴った。

「すまない。私は、用が済むと帰る癖がある。父にもよく言われる」

「お茶が、用事だったんですか」

「違うのか」

「……お茶は、口実です」

 一臣は湯呑を持ち上げて、中を見て、空だと気づいて置いた。私は新しく注いだ。

「そうか」

 それから四十分、私たちは何ということもない話をした。港に入った船の話。大学の図書館の、いちばん奥の棚の話。私は明星軒のシュークリームを、分家の天火でどこまで真似できたかを話した。皮はできた。クリームは、まだできない。卵の黄身が、明星軒ほど買えない。

「高いのか」

「高いです。一個あたり、黄身の値段だけで、向こうの半分になります」

「では、黄身を減らせばいい」

「減らしたら、明星軒に負けます」

「負けてもいいのではないか。下町で売るなら」

 私は湯呑を持ったまま、しばらく黙った。そうだった。私は明星軒の真似をするために焼いているのではなかった。

 帰りぎわ、門のところで、一臣は言った。

「次の日曜は、空いている」

「え」

「用はない。港の集金は、土曜に終わる。日曜は何もない」

 彼はそう言って、私の返事を待った。

「いらしてください」と私は言った。

  *

 次の日曜は、朝から雨だった。

 東屋は使えないので、南の小広間に通した。窓の外で、庭の敷石に雨が跳ねていた。屋根の樋がひとところ壊れていて、そこだけ水が滝のように落ちる。

 一臣は、少し濡れて来た。女中のフミが手拭いを持ってきて、彼は肩を拭いた。フミは六十を過ぎた人で、この身体の子が生まれたときから世話をしてきた女中だった。手つきがゆっくりしている。一臣の背広の上着を受け取って、窓際の椅子の背に干した。

「傘は」と私は訊いた。

「持って出た。途中で人にやった」

「人に」

「橋のところで、赤ん坊を負ぶった人が濡れていたので。私は濡れても平気だ」

「風邪をひきます」

「ひかない」

 本当に、ひかなそうな顔をしていた。

 その日、彼は『北方回航記』の下巻と、もう一冊、薄い本を持ってきていた。『灯台守の記録』という本だった。

「これは、あなたが好きかどうか分からない」

「読みます」

「まだ何も言っていない」

「読みます」

 彼は笑った。声を出さない笑い方だった。

 二人で、それぞれの本を読んだ。彼は下巻を、私は灯台守を。三十分くらい、雨の音しかしなかった。私は活字を追いながら、この時間がずっと続けばいいと思っていた。四頁進んだところで、それに気づいた自分が恥ずかしくなって、六頁戻った。

「天導さん」

「はい」

「あと何頁で終わる」

「え?」

「その本、あと何頁ある」

 私は残りを指でつまんだ。

「二十くらい」

「では、まだ灯台守は死なない」

「え」

「残りの厚みで、話の終わりが分かる。二十頁も残っていれば、まだ大きな不幸は起こらない。三頁なら死ぬ」

「ひどい読み方です」

「本の読み方に、善悪はない」

「あります」

 私は真面目に言い返した。それから、彼が自分の下巻の残りを指でつまんで、厚みを測っているのを見て、笑ってしまった。

「いま、ご自分でやりました」

「習慣だ」

「じゃあ、何頁残っていますか」

「六十。まだ全員生きている」

 私は声を出して笑った。笑ったら、彼が本を持ったまま少し驚いた顔をして、それから、また声を出さずに笑った。

 彼は本を伏せた。伏せて、また持ち上げた。

「一臣さん、逆さです」

「?」

「本が、逆さです」

 彼は自分の手元を見た。持ち替えた。

「……いま、話をしていたので」

「はい」

「話をしていたので、頁を見ていなかった」

「はい」

 私は、笑うのをこらえるのに失敗した。彼は耳のあたりが赤かった。耳を赤くするところは、十三の秋の庭で一度見ていた。二度目だった。

 雨が強くなった。樋の壊れたところの音が大きくなって、彼の声が聞こえにくくなった。

「聞こえない」と彼が言った。

「私もです」

 私は、自分の椅子を持ち上げて、彼の側へ移した。移してから、近すぎたと思った。移した以上、戻すほうが変だった。

 二人で並んで座って、それぞれの本を膝に置いた。肩と肩のあいだに、指二本ぶんの隙間しかなかった。彼が頁をめくるたびに、その隙間の空気が動いた。

 そこから、私は一行も読めなかった。

 目が同じ行を四回なぞって、意味が入ってこない。隣で彼の頁がめくれる音がする。めくれる間隔が、ずいぶん長い。長すぎる。

 顔を横に向けたら、彼と目が合った。

 二人とも、すぐ本に戻った。戻ってからも、耳が熱かった。

 そのあと彼が「灯台守の話をしてくれないか」と言って、私は最初の三十頁を話した。話すのが下手で、途中で人物の名前を取り違えた。彼が「その男は、さっき死んだと言わなかったか」と言い、私が「死んでません、船が沈んだだけです」と言い、彼が「船が沈んで、男が生きているのか」と言って、また二人で笑った。

 雨がやんだのは、五時前だった。

 庭が光った。樋の音が止まって、部屋が急に静かになった。

「やんだ」と彼が言った。

「やみましたね」

 どちらも、立たなかった。

 窓から入る光が、斜めになっていた。隣に、指二本ぶんの隙間があった。

 今だ、と思った。

 十四の春に、口で言って、はしたないと言われた。口で言わなければいい。十六の私は、目を閉じた。顔を少しだけ、隣のほうへ向けて。

 心臓の音が、うるさかった。

 衣擦れの音がした。一臣が立ち上がる音だった。足音が、窓のほうへ行った。戻ってきた。

 肩に、何かが掛かった。

「眠いのか」

 目を開けた。背広の上着が、私の肩に掛かっていた。窓際の椅子で乾かしてあったものだった。

「雨のあとは、冷える」

 一臣は、もう自分の椅子に戻って、窓の外の庭を見ていた。

 私は、上着の襟を両手で握った。

「……眠いです。すごく」

「そうか」

 伝わらなかった。何ひとつ、伝わらなかった。私は上着の中で、膝を抱えたくなった。膝を抱えるのは我慢した。上着は、重かった。

 一分くらいして、彼が「帰る」と言った。私は上着を返して、玄関まで送った。彼は靴を履きながら言った。

「今日は、用がなかった」

「はい」

「用がないほうが、長かった」

 彼が門を出て、角を曲がるまで、私は玄関に立っていた。

 部屋に戻って、布団に顔を埋めた。夕食まで一時間、そこで一人で笑ったり、うめいたりしていた。フミが呼びに来たとき、まだ顔が熱かった。

 ノートには、こう書いた。

  六月六日 雨
   逆さの本。
   目を閉じた。眠いのか、と言われて、上着を掛けられた。
   用がないほうが、長かった。

 最後の行の横に、何か描こうとして、何を描けばいいか分からなかった。上着の絵は、菓子の形をしていなかった。

  *

 七月の第一日曜は、その夏はじめての暑い日だった。

 一臣は『灯台守の記録』の下巻を持ってきた。上巻の終わりで、灯台守は灯を点け忘れて、それがもとで船が一隻、岩に乗り上げる。

「結末は、知っていますか」

「知らない。厚みで測るのは、やめた」

「やめたんですか」

「あなたに、本の読み方には善悪があると言われたので」

 東屋に出た。蝉がうるさかった。彼は上着を脱いで、椅子の背にかけた。

 二時間、灯台守の話をした。

「灯を点け忘れたのは、あの男の落ち度ではない」と彼は言った。「灯を一人で守らせる仕組みが悪い」

「落ち度です」と私は言った。「仕組みが悪いのと、あの人が悪いのは、両立します」

 彼は少し黙って、「そうかもしれん」と言った。

 帰る時刻になって、夕立が来た。