天導ルリカは生まれるのを止めた
第五章 さしあげます
第五章 さしあげます
十六歳の九月に、小野澪が学院へ来た。
ゲームでは、春に来るはずだった。四月にも五月にも来なかったので、私は夏のあいだ、鏡台の底の板を何度か外して、また戻した。
秋の学期の初めの日だった。奨学生として、一つ上の組に編入された。寮に入るのだという。朝の礼拝のあとで、教師が名前を読み上げたとき、講堂の後ろのほうで、何人かが私のほうを振り向いた。
「小野って、あの」
「湖の、番人の」
「天導さんのおじさまが亡くなったときの」
声は小さかった。小さくても、言いたいことは全部聞こえた。
六年前の湖のことは、この学院では皆がうっすら知っていた。天導の当主が湖に落ちて死んだ。桟橋の番人の見回りが足りなかった、と新聞に書かれた。番人は暇を出されて、何年かあとに病気で死んだ。その娘が、天導の分家の商会の奨学金で、天導の跡取りと同じ学院に来た。
皆、天導の令嬢は番人の娘を憎んでいる、と思っていた。そういう筋書きのほうが、話としてはよくできている。
私は、振り向いた顔を一つずつ見返した。見返すと、皆、前を向いた。
*
最初の一週間、私は遠くから澪を見ていた。
日に焼けた子だった。学院の女の子たちは、皆、日傘の下で育った色をしている。その中で、澪の首筋と手の甲だけが、夏の湖の色をしていた。髪は肩の上で短く切ってあって、学院では後ろで一つに結んでいる。制服は奨学生の揃いの、飾りのない紺だった。何度も洗ったらしく、袖口が少し白っぽい。
目が、まっすぐだった。
誰かに話しかけられると、澪は相手の顔をまっすぐ見て答える。見られた相手のほうが、先に目をそらす。
三日目の昼休みに、中庭の銀杏に帽子が引っかかった。風で飛ばされた、下の組の子の帽子だった。持ち主は木の下で泣きそうな顔をしていた。小暮さんだった。
澪は、何も言わずに木に登った。
靴を脱いで、幹に手をかけて、するすると登った。見ていた女の子たちが悲鳴を上げた。澪は二番目の枝まで登って、帽子を取って、下りてきた。下りてきて、帽子の埃を払って、小暮さんに渡した。
「湖のそばで育ったので」
それだけ言って、靴を履いた。
五日目には、澪の周りに人がいた。昼休みに、澪が包みを開けると、三人か四人が寄っていった。小暮さんも、その中にいた。
私は、渡り廊下の端から、それを見ていた。
主人公は、本当に主人公だった。
ゲームの画面で、私は澪の返事を選ぶ側だった。澪が何を感じているのかは、選んだ返事の向こうにしかなかった。いま目の前にいる澪は、誰にも選ばれずに、自分で木に登る。
この子を、一臣が好きになる。ゲームでは。
*
九月の終わりに、一臣が学院へ来た。
奨学金の手続きの書類を、商会から届けに来たのだという。放課後、職員室の隣の応接で、澪と会っていた。私は、たまたまその前の廊下を通った。たまたまではなかった。一臣が来ると、朝のうちに聞いていた。
応接の扉は、少し開いていた。
「覚えています」と澪の声がした。「一臣さまは、湖で、父の舟に乗せてもらっていた方でしょう。星見荘の坊ちゃまの」
「……坊ちゃまは、やめてくれ」
澪が、声を出して笑った。
私は扉の隙間から見た。一臣は、椅子に座って書類を揃えながら、口の端を動かしていた。声を出さない、あの笑い方だった。逆さの本を持ち替えたときの。
私は、廊下を歩いた。足音を立てないように歩いた。立てないように歩いているのが、自分でも馬鹿みたいだった。
ゲームの一臣は、澪の率直さに気づいて、好きになる。いま、一臣は澪の前で笑った。
寮の門で待っている一臣の絵が、頭に浮かんだ。用はなくなったが、まだいる、と言う一臣が、澪の前に立っている。私が七周ぶん見た絵だった。
胃の上のほうが、固くなった。
私は、嫉妬していた。十六の身体で、二十四の頭で、両方で。
その夜、鏡台の底の板を外した。
藍色の帳面は、三年前に入れたときのまま、そこにあった。
ノートの頁をめくった。十三の冬に書いた行があった。出庫、小野澪さんが学院に来たら、すぐ。
すぐ、と書いてあった。澪が来てから、もう三週間たっていた。
*
十月の最初の日の放課後、澪を銀杏の下に呼んだ。
朝のうちに、澪の机に紙を一枚置いておいた。「放課後、銀杏の下で。天導」。それだけ書いた。
澪は来た。鞄を両手で持って、私の前で立ち止まった。
「天導さま。今日は、何をなさるんですか」
警戒している声だった。無理もなかった。天導の令嬢に、人のいないところへ呼ばれた。番人の娘が。
「小野さん」
私は、風呂敷の包みを差し出した。
「これを、さしあげます」
澪は、包みを見た。受け取らなかった。
「何ですか」
「母の家計簿です。六年前の。宗一郎さまが湖で亡くなった年のものです」
澪の顔が、動かなくなった。
「四月から七月まで、蘆田医院の薬を、六回受け取っています。四月に二回、五月に二回、六月と七月に一回ずつ。最初の四月の行に、八月、湖、灯籠、舟屋、と書いてあります。母の字です」
「……なぜ、これを、私に」
「小野さんは、お父さまのことを調べに来たんでしょう」
「どうして、それを」
「私なら、そうするので」
澪は、私の顔をまっすぐ見た。見返されても、私は目をそらさなかった。そらしたら、この子は受け取らない気がした。
「これはさしあげますから、一臣さまに色目を使ったり、一臣さまのことを悪く言ったりしないって約束してください」
澪が、まばたきをした。
「……色目」
「はい」
「私が、一臣さまに」
「はい。一臣さまは、とても素敵なので」
言ってから、顔が熱くなった。熱くなっても、引っこめなかった。
澪は、何か言いかけて、やめた。包みと私の顔を、何度か見比べた。
「それから」と私は言った。「私のことは、どう言っていただいても結構です。断罪される覚悟はできていますので」
「断罪」
「たぶん、そういうことになります。私はこの家の跡取りで、この帳面を書いた人の娘なので」
銀杏の葉が、一枚落ちてきた。二人のあいだを通って、足元に落ちた。
澪は、長いあいだ黙っていた。
「天導さまは」
「はい」
「私を、憎んでいらっしゃると聞いていました。おじさまを死なせた番人の娘だから、と」
「憎んでいません」
澪の目が、少しだけ大きくなった。
「小野さんのお父さまが、見回りを怠ったとも、思っていません」
「それは、この帳面に書いてあるんですか」
「書いてあるのは、母のことだけです。お父さまのことは、書いてありません。……私が、そう思っているだけです」
澪は、包みに目を落とした。
それから、両手を伸ばして、包みを受け取った。受け取る手が、少し震えていた。震えているのに、落とさなかった。
「約束は」と澪は言った。「一つ目は、守れます。色目の使い方を、存じませんので」
私は、笑いそうになって、こらえた。
「二つ目は、一臣さまが悪いことをなさっていなければ、悪くは言いません。それで、よろしいですか」
正直な子だった。できない約束は、しない。
「していません。……それで、結構です」
「では、いただきます」
澪は、包みを鞄の中に入れた。入れてから、鞄を胸の前で抱えた。
「もう一つ、お願いがあります」と私は言った。
「何でしょう」
「これが私から出たことは、一臣さまには言わないでください」
「なぜです」
「いずれ、一臣さまのお父さまのことも、出てくると思うので。そのとき、一臣さまが、私から何かを聞いたから、ということにしたくないんです」
澪は、少し考えた。
「訊かれたら、嘘はつきません」
「……それで、結構です」
澪は、頭を下げた。下げたまま、少しのあいだ動かなかった。それから顔を上げて、寮のほうへ歩いていった。途中で一度、振り返った。私はまだ銀杏の下にいた。澪は、もう一度頭を下げて、それから走った。
*
帰りの車の中で、膝の上の手を見ていた。
軽かった。三年間、鏡台の底にあったものが、もうない。
軽いのと同じだけ、怖かった。あの帳面は、もう私の手を離れた。いつ、誰の前で、どう出るのかは、澪が決める。母がいつ連れていかれるのかも、伯父がいつ連れていかれるのかも。
この子の母親だ。私の母親ではない。そう思おうとした。思おうとしたところで、呉服屋の座敷が浮かんだ。あなたに似合う、よく似合う。
私は目を閉じた。閉じたまま、屋敷に着いた。
夜、鏡台の底の板を外した。何もなかった。白粉の瓶の跡が、板の上に丸く残っていた。
ノートの、十三の冬の頁を開いて、その下に書いた。
十月一日
出庫 藍の帳面 一冊
渡した先 小野澪さん
条件 一臣さまに色目を使わない。一臣さまを悪く言わない(悪いことをしていなければ)。
私のことは、どう言われてもいい。
書いてから、祖母の店の厨房を思い出した。丸椅子に座って、ゲームの画面に向かって言った言葉を。
焼くな。出しなよ。
出した。
余白に、何も描かなかった。描けるものが、なかった。けれど、十三の冬のように、描かなかったのとは違った。
*
次の日曜、一臣が来た。
東屋は、もう少し肌寒かった。フミが膝掛けを持ってきてくれた。一臣は、商会の秋の荷の話をして、私は本の菓子の新しい配合の話をした。胡麻を入れてみた。香ばしいけれど、胡麻が一粒、頁に落ちる。
「一粒なら、構わない」
「構います」
「そうか」
そういう、いつもの話だった。
いつもの話が途切れたところで、私は訊いた。
「一臣さん。小野さんのこと、どう思いますか」
一臣は、湯呑を置いた。
「奨学生として、よくやっていると思う。成績もいい」
「そうですか」
「……なぜ、訊く」
「やきもちです」
言ってしまった。
一臣は、しばらく何も言わなかった。東屋の外で、落ち葉が風に鳴った。私は膝掛けの端を握っていた。
見ると、一臣の耳が赤かった。三度目だった。
「……そうか」
それから、彼は庭のほうを見て言った。
「小野さんは、湖の番人の娘さんだ。私は子どものころ、あの人の父親の舟に乗せてもらった」
「はい」
「あの人の父親は、見回りを怠るような人ではなかった」
私は、膝掛けを握ったまま、一臣の横顔を見た。
「子どもの目で見たことだ。当てにはならない」と彼は言った。「ただ、新聞に書かれたことと、私の覚えている人が、合わない。ずっと、合わないと思っていた」
一臣は、湯呑をもう一度持ち上げて、冷めた茶を飲んだ。
この人は、合わないものを、合わないまま持っている人だった。帳簿の、合わないところを見ているときの顔で、六年前の湖のことを見ている。
あの帳面は、もう澪の手にある。澪は調べる。調べた先に、何が出てくるのか、私は知っている。
私は、何も言わなかった。
「やきもちは」と一臣が言った。
「はい」
「焼かなくていい」
それだけ言って、彼は立ち上がって、「帰る」と言った。
玄関で靴を履きながら、彼は振り返らなかった。私も、何も訊き返さなかった。焼かなくていい、が、どういう意味なのか。訊けば、答えてくれる人だった。訊かなかった。訊かないでおくと、その言葉を、夜じゅう持っていられる。
*
十月の終わり、図書室の奥で、澪に声をかけられた。
「天導さん」
天導さま、ではなかった。
「蘆田医院の息子さんに、会いました。慎さんという、医学生の方です。お父さまの診療所の処方簿を、見てくださるそうです」
「そうですか」
「天導さんのことは、誰にも言っていません」
「……ありがとうございます」
澪は、本棚から一冊抜いて、頁を開いた。開いたまま、読まずに言った。
「天導さんは、なぜ、焼かなかったんですか」
「え」
「あの帳面。お母さまのものでしょう。焼いてしまえば、誰にも分からなかったのに」
私は、棚の背表紙を見た。
「焼いたら、何も残らないので」
澪は、頁から顔を上げて、私を見た。まっすぐな目だった。
「出せば、少なくとも、自分で選んだことになるので」
澪は、何も言わなかった。本を閉じて、棚に戻して、「では、また」と言った。
その「また」を、私は帰りの車の中で、何度か思い出した。