天導ルリカは生まれるのを止めた
第六章 二曲目(1/2)
第六章 二曲目
十七歳の春から、私はお菓子係になった。
言い出したのは澪だった。三月の図書室の奥で、澪は本棚の陰から私を手招きして、小声で言った。
「土曜の午後、蘆田医院の書庫で集まります。慎さんと、それから、新聞社の方が一人」
「新聞社」
「早瀬さんという方です。六年前の湖のことを、ずっと調べておられて」
ゲームで、澪の三人目の相手になる人だった。
「天導さんも、来てください」
「私が行っていいんですか」
「お菓子を持って」
澪は、真面目な顔で言った。
「話が長くなるので、お腹が空きます。慎さんは、食べるのを忘れる方なので」
*
蘆田医院の書庫は、診療所の裏の、土蔵を直した建物だった。窓が小さくて、紙と薬の匂いがした。棚に、年号ごとに紐で括った帳面が並んでいた。
私は、本の菓子を缶に詰めて持っていった。
「天導の……お嬢さん?」
最初に声を上げたのは、戸口の近くに立っていた男の人だった。声が大きかった。書庫の中で、その声だけが壁に跳ね返った。
癖のある髪を、帽子の中に押しこんでいる。日に焼けていて、背広の肘が擦り切れている。手帳を片手に持ったまま、もう片方の手で帽子を取った。取った帽子を、落ち着きなく指で回していた。
「早瀬さん、声」と澪が言った。「私の友人です。お菓子係です」
「お菓子係」
「はい」
早瀬遼は、私と澪の顔を見比べて、それから缶を見た。
「……それは、ありがたい。朝から何も食ってない」
奥の机にいた人が、眼鏡を上げて、こちらを見た。
細い人だった。医学生の白衣を、背広の上から羽織っていた。白衣の胸の物入れに、薄い本が一冊差してあった。背表紙の字が、詩集のものだった。
「蘆田慎です」と、その人は言った。柔らかい声だった。「どうぞ。狭いところですが」
机の上に、帳面が二冊、開いて並べてあった。一冊は、紐で括られていた跡のある、古い処方簿。もう一冊は、藍色の表紙の、見覚えのある家計簿だった。
私は、缶を机の端に置いた。置いて、少し離れた椅子に座った。
「父の処方簿と、こちらの帳面の日付が、全部合います」
慎は、指で二冊の頁を順に押さえながら言った。
「四月に二回、五月に二回、六月、七月。宛は天導家、奥様のお名前で、不眠の薬です。四月の最初のものは、父がふだん出す量の三倍あります」
慎は、処方簿の頁から指を離した。
「父は、何も知らずに出したのだと思います。それでも、この量を続けて出したのは、父の落ち度です。父には、私から話します」
誰も、この帳面がどこから来たのかを訊かなかった。
早瀬は、私のほうを一度だけ見た。見て、手帳に目を戻した。慎は、最初から私のほうを見なかった。見ないようにしているのだと分かった。
私は、机の端の缶の蓋を開けた。
「どうぞ。本を読みながらでも、食べられます」
早瀬が一枚取って、齧って、「うまい」と大きな声で言った。澪が「早瀬さん、声」と言った。慎は、処方簿の頁を見たまま、一枚取った。取って、しばらく持ったまま頁を読んで、それから口に入れた。粉は、頁に落ちなかった。
*
四月の二度目の集まりで、早瀬が言った。
「残りは、人だ。あの晩、湖にいて、口を閉じてる人。番人の小野さんはもう亡くなってる。女中が一人、暇を出されて、湖の近くの村にいるらしい。それから、天導恭介」
早瀬は、帽子を指で回した。
「恭介さんの行き先が、どこを当たっても出てこない。南のどこかの造船所だって話までは聞いたんだが」
私は、鞄からノートを出した。
十一の春から、同じ頁に挟んだままの紙があった。佐伯が反故紙の端に書いた、鉛筆の字。
「南浦の、蓬田造船です」
早瀬が、帽子を回す手を止めた。
「……お嬢さん、これ、どこで」
「家令が、六年前に書いてくれました。同じ人かどうかは分からない、と言っていました」
早瀬は紙を受け取って、手帳に写した。写してから、紙を私に返した。
「会いに行く。あんたの伝言は」
「ありません」
早瀬が、私の顔を見た。
「私から、言うことはありません。早瀬さんが会って、あの人が話したいことを、聞いてあげてください」
早瀬は、しばらく黙っていた。それから、「分かった」と、珍しく小さな声で言った。
*
早瀬が南浦から戻ったのは、六月の初めだった。
書庫の机に、早瀬は手帳を広げた。日に焼けた顔が、さらに焼けていた。
「会えた。蓬田造船の、船渠の技師だ。名前も、恭介のまま」
あの晩、本社から至急の呼び出しの電報が来た。それで湖を出た。帝都の本社で、誰もそんな電報は出していないと言われた。戻ったときには、宗一郎さんは湖から引き上げられていた。電報は、捨てずに持っている。
早瀬は、手帳を読み上げてから、顔を上げた。
「帝都へ出てきて話すかと訊いたら、話す、と言った。いつでも、と」
「……そうですか」
「それから」
早瀬は、帽子を膝の上に置いた。
「娘さんは元気か、と訊かれた。元気で、菓子を焼いてる、と言ったら、そうか、と言って、しばらく黙ってた。それだけだ」
私は、机の端の缶を見ていた。
振り返らずに、門を出ていった人だった。十歳の朝、私は二階の窓から、その背中を見ていた。硝子に手の跡が残った。
あの人の娘は、菓子を焼かなかった。焼いているのは私だ。そう言いたかった。言っても、誰にも分からない。
「ありがとうございます」と、私は言った。
澪が、私の顔を見ていた。何も言わなかった。
湖の近くの村の女中も、見つかった。お絹という人で、澪が三度通って、三度目に話してくれたという。何を話したのかを、澪は書庫では言わなかった。「ご本人が、ご本人の口で話すとおっしゃったので」とだけ言った。
澪は、三月に十八になっていた。父親の小野弥吉が、十八になったら開けろと言って遺した手紙の封を、澪はその誕生日の夜に一人で切っていた。何が書いてあったかを、澪はそれまで私に言わなかった。七月の書庫で慎と早瀬に話したあと、帰り道で、私にだけ一言言った。
「父は、見回りを怠っていませんでした」
それだけだった。
私は、「はい」と言った。十月の銀杏の下で、私はそう思っていると澪に言った。思っていただけのことが、父親の字で書いてあったのだ。
「あと一つです」と澪は言った。「伯父様の側のものが、まだありません」
伯父様、と澪は言った。私の伯父で、一臣の父親だ。
「一臣さんに、訊いてもいいですか。商会のことや、後見が決まったときのことを」
澪は、私の顔をまっすぐ見ていた。
訊かないで、と言えば、澪は訊かないかもしれなかった。そういう子だった。去年の秋、一臣さまを悪く言わないで、と頼んだとき、澪は、悪いことをしていなければ、と答えた。
「それは、小野さんが決めることです」と私は言った。
澪は、頷いた。
*
八月の終わりに、分家の商会の舞踏会があった。
港に新しい倉庫ができた祝いで、帝都のホテルの広間を借りていた。本家も名を連ねていて、私は跡取りとして、婚約者として、一度だけ出るように言われた。婚約の日の着物と同じ緑がかった青で、この夏のために洋装を一着仕立ててもらっていた。
学院の奨学生も何人か、給仕の手伝いという名目で招かれていた。その中に澪がいた。借り物の白い前掛けをつけて、盆を持って、壁際に立っていた。
広間の奥の壇で、伯父が挨拶をした。
よく通る声だった。北の航路を開いたときの話をして、新しい倉庫の話をして、それから、壇の下に立っていた一臣を手で示した。
「この倉庫の図面を最後まで詰めたのは、息子の一臣です。親の欲目ではありますが」
広間に笑いが起きて、拍手が起きた。
一臣は、拍手の中で頭を下げた。下げてから、顔を上げて、壇の上の父親を見た。
私は、その顔を見ていた。
褒められて嬉しい顔では、なかった。照れている顔でもなかった。自分の父親を、下から見上げている息子の顔だった。十歳の廊下で、扉の向こうのよく通る声に、頁をめくる手を止めた男の子の顔と、同じだった。
私は、扇を持った手に力を入れた。
楽隊が三曲目を終えたとき、私は人のあいだを歩いた。
一臣は、荷主の年寄りに捕まっていた。話が途切れたところで、私は横から言った。
「一臣さん。一曲、お相手いただけますか」
一臣は、少し驚いた顔をした。
「……私から言うつもりだった」
「遅いです」
荷主の年寄りが、愉快そうに笑って、「行った行った」と手を振った。
彼の手が、型どおりに私の背に回った。私の右手は、彼の左手の中にあった。
彼は、踊りが上手ではなかった。四拍目で、いつも半歩遅れる。遅れるたびに、私の右手を握っている手に、少しだけ力が入った。謝るかわりのようだった。
私が笑うと、彼は言った。
「これは仕事ではないので、練習していない」
「知っています」
「知っているのか」
「四拍目で、分かります」
曲の途中で、彼は言った。
「あなたは、この家の人間に見えないときがある」
「どういう意味ですか」
「褒めている」
「褒め方が下手です」
「知っている」
ゲームで、一臣はこれに近い台詞を、澪に言う。彼のルートの中盤で、澪の率直さに気づく場面だ。
いま、それは私に向かって来た。
私は嬉しかった。舞い上がるほど嬉しかった。
曲が終わっても、彼は私の手を離さなかった。
「もう一曲。四拍目を、直したい」
「練習ですか」
彼は少し黙った。
「……口実だ」
二曲目も、彼は四拍目で遅れた。直す気がないのだと分かって、私は笑いをこらえるのに苦労した。
お茶が済んでも、いてくださいませんか、と頼んだのは、私だった。この人は、口実を作ってまで、いてくれた。
二曲目が終わって、手が離れた。
広間の向こうの壇の脇で、伯父が誰かと話して笑っていた。一臣は、そちらを一度だけ見た。私は、一臣の横顔を見ていた。
鏡台の底は、空だった。藍色の帳面は、澪の鞄の中にある。慎の処方簿と並べられて、日付が全部合った。南浦の人は、電報を持っている。湖の近くの村の人は、話すと言った。澪の父親の手紙には、何かが書いてあった。
残りは、伯父の側のものだけだった。
私は、二曲目の四拍目のことだけを考えようとした。考えようとして、うまくいかなかった。
*
十月の半ばに、一臣が一人で本家へ来た。
伯父の用ではなかった。帳簿を届ける日でもなかった。フミが「一臣様が、お嬢様にと」と呼びに来て、私は南の小広間へ下りた。
一臣は、座らなかった。窓のところに立って、外を見ていた。雨の日曜に、壊れた樋から水が落ちていた窓だった。
「父の机にあった」
彼は、窓の外を見たまま、懐から折った紙を出した。
私は受け取った。
下書きだった。伯父の字で、親族会の三人に宛てた文面が、途中まで書かれていた。日付は、七年前の七月だった。
――万一の事あらば後見の儀、当方にて引き受け候。瑠璃の件、御含み置き願い上げ候。
「小野さんに、後見が決まったときのことを訊かれた」と一臣は言った。「商会の古い記録を見てほしい、と。それで、父の書斎の箱を開けた。記録を探していて、これが出てきた」
「……はい」
「宗一郎さんが亡くなったのは、八月十五日だ。これは、七月に書かれている」
私は、紙を見ていた。
ゲームの一臣ルートで、何度も見た紙だった。画面の中で、それは澪の手に渡る。渡すのは一臣で、それで一臣は父親を失う。
「私は、父を疑いたくない」
一臣は、まだ窓の外を見ていた。
「父は、私を殴ったことがない。学費を出してくれた。奨学の制度も、父が押し切って作った。小野さんが学院にいるのは、父の金だ。私は、その金で育った」
彼の手が、窓枠の上で拳になった。
「それでも、これは七月の日付だ」
拳が、窓枠の上で白くなっていた。
私は、紙を持ったまま、窓のところへ行った。
行って、彼の拳の上に、自分の手を置いた。
何も考えていなかった。考える前に、手が動いていた。気持ちが先に出て、あとから考えが走ってくる。口だけではなく、手もそうなのだと、そのとき知った。
拳が、少しずつ、ゆるんだ。
一臣は、私のほうを見なかった。私も、彼の顔を見なかった。窓の外の庭を、二人で見ていた。東屋の屋根に、落ち葉が溜まっていた。どのくらいそうしていたのか、分からない。庭で鵯が鳴いて、私はそっと手を離した。
「どうするかは、私が考える」と一臣は言った。
私は、下書きを彼に返した。彼はそれを、背広の内側にしまった。
彼は、私に何も訊かなかった。この紙を見て、私が何を思うか。私が何か知っているか。何ひとつ、訊かなかった。
私も、何も言わなかった。
あなたのお父さまのことは、もう全部分かっています。母の帳面は、一年前に私が小野さんに渡しました。あなたが決めても、決めなくても、伯父さまはもうすぐ捕まります。
言えることは、いくらでもあった。
言えば、この人は、私から聞いたから決めた、ということになる。十六の春の東屋で、自分がどうしたいかは自分たちで決めよう、と言った人が、父親のことだけは、私に決められる。
それは、嫌だった。
一臣は、「では」と言って、帰った。玄関で靴を履くとき、一度だけ振り返った。何も言わなかった。私も、何も言わなかった。
*
その夜、母が部屋に来た。
ノックはなかった。母は私の机の上を見なかった。見なかったのが、かえって不自然だった。
「近ごろ、いろいろな人が家のことを聞き回っているそうね」
「……はい」
「新聞の人が、分家の商会に来たと聞きました」
母は、畳に座って、膝の上で手を重ねた。
「瑠璃。あなたはこの家の跡取りです。十八になれば、成年披露がある。あと少しなのよ」
「はい」
「今さら、家を壊さないでちょうだい」
責める声ではなかった。疲れた人の声だった。
母は立ち上がって、簞笥の上の肩掛けを取って、私の肩に掛けた。掛けてから、両手で襟のあたりを整えた。
「冷えるから、早くお休みなさい」
襖が閉まった。
私は、肩掛けの端を握っていた。温かかった。
*
眠れなかった。
四時に目を覚ます身体が、その夜は、四時まで眠らなかった。
布団の中で、十歳の夜のことを思い出した。洋燈の火を小さくして、配合表を書いた夜。帳面を渡せば、伯父は捕まる。一臣の父親が捕まる。ゲームの一臣ルートでも、一臣は父親の罪を自分の手で明るみに出す。それで父親を失う。一臣はそういう人だ。だから好きになった。
あの夜の私は、それを筋書きとして読んでいた。
今日、窓の前に立っていたのは、筋書きではなかった。父親に学費を出してもらって、父親の商会で図面を詰めて、父親に壇の上から褒められて、その父親を下から見上げていた人だった。その人の拳が、窓枠の上で白くなっていた。
この人は、父親を失う。