星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第七章 婚約解消していません(1/2)

第七章 婚約解消していません

 十七歳の十二月十八日、年の暮れの親族会は、星の間で開かれることになった。

 ふだんの親族会は応接で済む。星の間を使うと決めたのは三村弁護士で、三村にそう頼んだのは小野澪だった。呼ぶ人が多いので、広い部屋が要ります、と澪は言ったそうだ。澪は私にもそう言った。三日前の、学院の図書室の奥で。

「天導さんは、座っていてくださればいいです」

「座っているだけで、いいんですか」

「座っているだけが、いちばん難しいと思います」

 澪はそう言って、本を閉じた。

 一臣さんも来るのか、とは訊かなかった。十月の夜に、待つと決めた。訊いたら、待っていることにならない。

 その朝、母が私の髪を結った。

 鏡台の前に座らされ、櫛が入った。母の指は冷たかった。十二月の朝の指は、いつも冷たい。十歳の秋から七年、この人は月に何度か、こうして私の髪を梳いた。自分でできると言っても、母は櫛を放さなかった。

「今日は、上げなさい」

「はい」

「星をつけて」

「はい」

 銀の星の髪飾りが、結い上げた髪の根元に挿された。母は鏡の中の私を見て、少し首を傾げ、一度だけ挿し直した。

 この人の手で髪を結ってもらうのは、たぶん今日が最後だった。

 私はそれを知っていて、黙って座っていた。澪の言ったとおりだった。座っているのが、いちばん難しかった。

 鏡の中で、母の切れ長の目が私の目を見た。同じ形の目だった。十歳のとき、私はこの顔を初めて鏡で見て、母親に似すぎていると思った。七年経って、似ているのは形だけではなくなっている気がした。決めたら、待たない。そういうところが。

「顔色が悪いわね」

「寒いので」

「白粉を少し足しなさい」

 母は部屋を出て行った。香の匂いだけが残った。

  *

 星の間には、四十三の時計がある。

 壁一面の星図と海図の前に、船の時計が四十三、棚に並んでいる。天導の船が一艘退くたびに、一つずつ掛けられてきたものだ。動いているのは一台だけだ。おじさまが亡くなってから、佐伯が毎朝その一台だけを巻いている。その日は、時計の棚の前に椅子が三十ほど並べられていた。

 親族会の三人。伯父の貞光。母。家令の佐伯。三村弁護士。学院の教師が二人。蘆田先生と、慎。記者の早瀬遼。それから、私の知らない人が何人か。

 一臣は、伯父の隣には座らなかった。壁際の、いちばん端の椅子にいた。背広の膝に、何も置いていなかった。

 澪は、部屋の真ん中に立った。

 奨学生の質素な制服のまま、髪を後ろで一つに結んでいた。日に焼けた首筋が、洋燈の光の中でまっすぐだった。

「小野弥吉の娘、澪です。七年前の八月十五日、湖の星見荘の桟橋で、天導宗一郎様が亡くなりました。父はその晩、桟橋の番をしておりました」

 澪の声は、震えていなかった。震えないように何度も練習してきた声だと、私は知っていた。図書室で、一度聞かされたことがある。

 それから、一時間と少しかかった。

 澪は父の遺した手紙を読み、慎は父の診療所の処方簿を出した。お絹という人が呼ばれて、八月十五日の晩、奥様がお嬢様に匙で何か飲ませるのを見た、と言った。「十のお嬢様は、迷子になったのではありませんでした」。お絹はそう言って、泣いた。

 私は、自分の膝を見ていた。その晩、舟屋で眠らされていたのは、この身体だった。私がこの身体で目を覚ましたのは、その一か月後の九月の朝で、匙の味を覚えていない。覚えていないまま七年暮らした晩のことを、いま人の口から聞いていた。

 後ろの扉のそばに、大柄な男が立っていた。日に焼けて、背広が明らかに借り物だった。十歳の九月の朝、二階の窓から、門を出て行くのを見た人だった。天導恭介は、捨てられなかったという偽の電報を懐から出して三村に渡し、元の場所へ戻る途中で、一度だけ私のほうを見た。私は頭を下げた。それ以上のことは、どちらもしなかった。

 澪が、次の名前を呼んだ。

「天導一臣さん」

 伯父が、壁際を振り返った。

 一臣は立った。立って、背広の内側から、折った紙を出した。

「父の書斎にあった下書きです。親族会の三人に宛てたもので、日付は七年前の七月です」

 三村が読み上げた。

 ――万一の事あらば後見の儀、当方にて引き受け候。瑠璃の件、御含み置き願い上げ候。

「宗一郎さんが亡くなったのは、八月十五日です」と一臣は言った。「この紙は、その一か月前に書かれています」

「一臣」

 伯父の声は、まだよく通った。

「それを、どこから持ち出した」

「父の書斎の箱からです。私が取りました」

 一臣は、父親のほうを見て言った。

「出すと決めたのも、私です」

 それ以上、何も言わなかった。座らずに、紙を三村に渡して、壁際へ戻った。戻ってからも、座らなかった。

 私は、あの人の背中を見ていた。父を疑いたくないと言っていた人だった。窓の外を見ながら、父は自分を殴ったことがない、と言っていた人だった。その人が、父の顔を見て、私が決めた、と言った。

 ゲームの一臣は、澪に求婚するとき、「これは、私が決める」と言う。画面の中の台詞を、この人は知らない。知らないまま、同じ言葉を、恋のためではなく、自分の父のことに使った。

 誇らしいのと、遠いのとが、同じ重さで来た。

 澪が、最後に、藍色の帳面を出した。

「これは、天導藤乃様の家計簿です。去年の秋、天導瑠璃さんが私に渡してくださいました」

 部屋じゅうの顔が、こちらを向いた。

 私は立った。座っているだけでいいと言われていたけれど、名前を呼ばれたら立つものだと、ここの七年で体が覚えていた。

「母の家計簿です。十三の冬に、母の文机の奥で見つけました。三年近く、自分の鏡台の底に入れていました。去年の秋に、小野さんに渡しました」

 声は思ったより出た。

「薬の買い入れが六回あります。最初の四月の行に、八月、湖、灯籠、舟屋、と書いてあります」

 母は、座ったままだった。一度も立たず、誰の話にも異を唱えず、私が立ったときも振り向かなかった。

 伯父が立ち上がった。

「四月に、湖のことまで?」

 声が、裏返っていた。

「それは妹が勝手に考えたことだ。私が相談を受けたのは六月だ。四月の計画まで、私は知らん」

 広間の音が止まった。自分が何を言ったのかに、伯父は少し遅れて気づいたようだった。

 壁際で、一臣が目を閉じるのが見えた。

 三村弁護士が、宗一郎様の遺言に、亡くなったときに瑠璃様を実子と認める条項がある、と明かした。八年前の冬、静子様とのご婚約が決まった折に、藤乃様のお求めで書かれたもの。ゲームでは十七の冬に帳面と一緒に暖炉で燃えた紙の中身を、三村がいま口で言っていた。

 死んだら効く紙を書かせたのは、母だった。今朝、あの人の指が、私の髪を結った。

 警察が来たのは、それから三十分ほど後だった。

 伯父は、何か言いながら連れて行かれた。何を言ったのかは、聞き取れなかった。

 母は、自分で立った。誰にも腕を取らせなかった。扉のところで一度だけ振り返って、私を見た。何も言わなかった。私の髪の、星のあたりを見たのだと思う。それから、前を向いて出て行った。

  *

 その夜のうちに、親族会の結論が出た。

 三村弁護士が、応接で読み上げた。

 一つ。天導瑠璃は宗一郎の実子である蓋然性が高い。ただし、遺言の認知の条項は藤乃の求めで書かれたものであり、養女指名の手続は貞光が進めた。したがって、調べが済むまで、瑠璃の跡取りとしての権限を停止する。

 二つ。この停止は、血縁の否定ではない。

 三つ。天導瑠璃と天導一臣の婚約は、これを取り決めた貞光が罪に問われる以上、解く。

 三村はそこまで読んで、私に小さく頭を下げた。

「帳面の件は、隠していたと言うには、あなたが自分から出しておられます。一年と少し前に。隠滅には問えません」

「はい」

「ご不満は」

「ありません」

 本当に、なかった。十歳の秋の夜、配合表の見込みの行に、私は書いた。帳面を出せば、跡取りは止められる。婚約は解かれる。この子の血は、そのまま。三つとも、そのとおりになった。

 残ったのは、同じ頁の原価の行の下に、小さく書き足した一語だけだった。受益者。

  *

 応接を出ると、廊下の先に澪がいた。

 人のいない窓の前で、外の暗い庭を見ていた。私の足音で振り向いた。

「天導さん」

「小野さん。……お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」

 澪は少し笑った。笑ってから、真顔に戻った。

「約束は、守りました」

「約束」

「一臣さんには、色目を使っていません」

 私は、一瞬なにを言われたのか分からなかった。去年の秋、帳面を渡すときに、私がこの人に言ったことだった。これはさしあげますから、一臣さまに色目を使ったり、悪く言ったりしないって約束してください。

「……それは、ありがとうございます」

「悪くも言っていません。今日は、言うことがありませんでした」

「はい」

「天導さんは、断罪されませんでしたね」

「されませんでした」

「覚悟はできている、とおっしゃっていたのに」

「拍子抜けです」

 澪は、今度ははっきり笑った。笑うと、日に焼けた頬に皺が寄った。

 それから、ふいに窓のほうへ顔を戻した。

「私、今日、父の名前を返してもらいました。桟橋を見ていなかった番人、ではなくて、小野弥吉という名前を。……天導さんが帳面をくださらなかったら、もっと、ずっとかかりました」

「私は、座っていただけです」

「座っているだけが、いちばん難しいと言ったでしょう」

 澪は、そのまま少し黙っていた。

「天導さんは、これから、どうなさるんですか」

「一つだけ、決めてあります」

「一つだけ」

「一つだけです。まだ、言う相手に言っていないので」

 澪は私の顔を見て、それ以上訊かなかった。頭を下げて、寮へ帰る馬車のほうへ歩いて行った。

  *

 廊下の端で、一臣に会った。

 深夜だった。星の間の灯りは消されて、廊下の突き当たりの洋燈だけがついていた。彼は柱に片手をついて立っていた。

「一臣さん」

「天導さん」

 彼は手を柱から離して、姿勢を直した。まっすぐな眉が、洋燈の下で影になっていた。

「今日のことは、正しかった」

「はい」

「あなたがやったことは、正しい。それを言いに来た」

 私は頷いた。

「私は、父の息子だ」

 彼は自分の手を見た。

「今日、あの紙を出した。出したからといって、逃げたことにはならない。私はあの人の金で学校へ行き、あの人の商会で働いてきた。明日から、商会の帳簿を全部開く。本家から分家の商会へ流れた金がどこへ行ったか、誰かに調べられる前に、自分で調べる」

「はい」

「婚約は、解かれた」

「聞きました」

「あれは、父の計画の最後の一手だった。本家の娘と、分家の息子を結ぶ。どちらが跡を取っても、本家は父の家のものになる。十六の春に、あなたにそう言われて、私は、知っていると答えた」

「はい」

「欲の深い親の、欲の深い取り決めだと思っていた。父の考えそうなことだと。その下に何があったのかは、考えなかった」

「私は、知っていました」

 彼が顔を上げた。

「本家の乗っ取りなんてぜんぜんできない運命だけど、って、言いましたよね。あれは、知っていたから言ったんです」

「……運命、と言っていた」

「言いました」

 彼は長いあいだ黙っていた。洋燈の芯が、一度小さく鳴った。

「あなたは、帳面を去年の秋から小野さんに預けていた」

「はい」

「私の父のことも、そのときにはもう知っていた」

「はい」

「私には、言わなかった」

「言いませんでした」

 私は、そこだけはまっすぐに言おうと決めていた。言い訳の順番まで、何日も前から決めてあった。

「言ったら、一臣さんは、お父様の紙を、私のせいで出すことになったと思います。私に言われたから出した、になる。……それは嫌でした。一臣さんが、自分で決めて出すまで、待っていました」

 待たない、と十歳の秋に決めた。菓子の仕込み以外で待ったのは、これが初めてだった。

「待っていた」

「一臣さんが、自分で決めるところが、好きなので」

 言ってから、しまった、と思った。好き、と言うつもりはなかった。いまの話の中で言うつもりは。

 彼は何か言いかけて、やめた。耳が赤くなったのかどうかは、洋燈が暗くて見えなかった。

「……それでも、私は、少し傷ついている」

「はい」

「今すぐ、傷ついていないふりはできない」

「しなくていいです」

「それから、私はいま、あなたに何も約束できない」

「はい」

 そこまでは、分かっていた。分かっていたから、この先を用意してきた。

「一臣さん」

「なんだ」

「自分がどうしたいかは、自分たちで決めようって、言いましたよね。十六の春に」

「……言った」

「家の都合で婚約解消になっても、私は、婚約解消していません」

 彼が、私を見た。

「二年後に、帝都の下町で、菓子屋を探してくださいませんか」

 洋燈の芯が、また鳴った。

「菓子屋」

「菓子屋です」

「……探して、どうする」

「婚約してください。天導の本家の娘とじゃなくて、菓子屋の女と。今度は、私から申し込みます」

 言えた。十四のとき、口づけをせがんで、はしたないとたしなめられた。十六のとき、目を閉じて待って、眠いのかと上着をかけられた。言えなかった日もあった。今夜は、言えた。

 彼は、長いこと何も言わなかった。

「約束は、できない」

「約束はいりません。探してくれれば。探して、見つけて、嫌だったら、お菓子を一つ買って帰ってください。それでおしまいにします」

「一つ」

「一つです。二つ買ったら、嫌じゃなかったことにします」

 彼は、息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。声を出さない笑い方をする人なので、暗いところでは分からない。

「二年は、長い」

「仕込みには、ちょうどいいです」

「仕込み」

「お店を一軒、ちゃんと回るようにするには、そのくらいかかります」

 彼は、それには何も言わなかった。代わりに、廊下の窓の外を見た。庭は真っ暗で、何も見えなかった。

「風邪をひく。部屋へ戻ったほうがいい」

「一臣さんも」

「ひかない」

「知っています」

 彼は「では」と言って、行った。角を曲がる前に、一度だけこちらを見た。それだけだった。

 私は、洋燈の芯がもう一度鳴るまで、そこに立っていた。

  *

 部屋へ戻って、髪から星を外した。

 鏡台の上に置くと、小さな音がした。今朝、母が挿し直した星だった。裏返すと、「瑠璃へ」と彫ってある。十歳の秋から何度も見た字だった。

 私は机に向かって、ノートを開いた。

 十歳の秋から使っている、配合表のノートだ。最初の頁は、とうに端がめくれている。品名、一臣さんと結ばれる。原価、自分の悪評。仕込み、八年。焼き上がり、十八の春。十歳の私の字は、子どもの手の字なのに、書いていることがかわいくなかった。

 十八の春には、まだ四か月ある。焼き上がりの前に、窯の扉が開いてしまった。