天導ルリカは生まれるのを止めた
第二章 良い子の勘定(2/2)
彼はそう言って、少し立っていた。それから、「門まで戻る」と言った。私は「お見送りします」と言った。門の前で彼は頭を下げて、帳簿と本を抱え直して出ていった。
一臣さんは、いい人だった。ゲームの立ち絵より、ずっといい人だった。婚約者の顔を見て話す人だった。
でも、あの人の手袋は、澪のために外されるものだ。私はそう思っていた。婚約は、たぶんこのまま決まる。ゲームのとおりに。私は何も言わずに、それを待つことにした。
*
十四歳の夏に、学院で誘われた。
講読会のあと、上級生の二人が「これから菓子屋に寄るのですが」と言った。
私はその場で、三つのことを同時に考えた。着替えていない。馬車が門で待っている。菓子屋というのがどこの店か分からない。
三つとも、断る理由になる。私は元の世界でも、こちらに来てからの四年も、この三つで断ってきた。「またぜひ」も、何度も言った。北原さんに言った「次はぜひ」は二回。こちらで言った「またぜひ」は、十回を越えたあたりで数えるのをやめた。
「行きます」
言ってから、心臓が鳴った。
馬車は帰した。御者に「一時間後に、菓子屋の前へ」と伝えた。伝えるのに、私は三回言い直した。
店は学院から五分のところにあった。狭くて、机が四つしかなくて、天井に扇がついていた。上級生の一人が「ここの葛餅がおいしいのです」と言った。もう一人が「私は氷のほうがいいと思います」と言った。二人はそれで少し言い合った。
私は葛餅を頼んだ。
三十分、私はほとんど喋らなかった。
喋れなかったのではない。二人が喋っていて、そこに入る隙が見つからなかった。頷いて、笑って、頷いた。同じことを二十回くらいした。
途中で、一人が言った。
「天導さんは、お家では何をなさっているの」
「……本を読みます」
「まあ。どんな」
「船の本を」
「船?」
「氷に挟まれた船が出てきます。三か月動けなくて、乗っている人が犬を飼い始めます」
二人が顔を見合わせた。
「犬」
「はい」
「船に犬が乗っているの」
「氷の上で拾ったみたいです」
「氷の上に犬がいるの?」
三人で少し笑った。
その笑いは、私が面白いことを言ったから起きたのではなかった。話が噛み合わなくて、噛み合わないことがおかしかっただけだ。それでも、笑いは起きた。
一時間で店を出た。馬車は来ていた。
帰りの馬車で、私は窓の外を見ていた。
うまく喋れなかった。一時間のうち四十分は聞いていただけだった。二人は明日、私を誘わないかもしれない。
それでも、私は行った。
それだけで、帰りの馬車の中で、私は少し落ち着かなかった。落ち着かないのは、悪い落ち着かなさではなかった。
二人はその後も、月に一度くらい誘ってくれた。三回に一回は、私の都合が悪くて断った。断っても、次があった。断っても次があるということを、私はそのとき、初めて経験した。
*
十四歳の冬、私は母の文机を探った。
口実は切手だった。学院の上級生へ礼状を出すつもりで、それ自体は本当だった。菓子屋に誘ってくれた二人の片方が、落とした手袋を届けてくれた。それだけのことに礼状を書くのは、私が人と続きを作るための、たぶん唯一の方法だった。
でも、切手の場所なら女中に訊けば済む。私が母の居間に一人で入ったのは、四年前から探していたものが、そこにあるかもしれなかったからだ。
ゲームの瑠璃は、十七の冬にそれを燃やす。だから、それまではこの家のどこかにある。母の部屋か、母の居間か、仏間の奥か。十歳の夏から、私は母が留守にするたびに一か所ずつ見てきた。見ても何も触らず、元どおりにして出た。四年かかったのは、私が慎重だったからというより、見つけるのが怖くて、毎回すこし早めに切り上げていたからだと思う。
切手は二段目にあった。二段目の奥に、藍色の表紙の帳面があった。
家計簿だった。古いものだった。表紙の年号は、十年前――宗一郎が死んだ年のものだった。呉服、炭、氷、書生の月謝、車代。字は几帳面で、月の合計まで出してある。
同じ字で、別の記入があった。
四月、薬。
四月、薬。
五月、薬。
五月、薬。
六月、薬。
七月、薬。
金額はまちまちで、四月のものが一番大きい。
そして、最初の「四月、薬」の横に、小さく四つの語が続いていた。薬の記入と同じ墨だった。
八月、湖、灯籠、舟屋。
私は帳面を持ったまま、抽斗を閉めるのを忘れて座り込んだ。
膝が震えたのは、薬の回数のせいではなかった。ゲームでは、瑠璃がこの帳面を燃やしたあと、澪が医院の処方簿から薬の回数を数え直す。数は同じだった。けれど、この四語をゲームで見た記憶はない。
震えたのは、その四語を母の字で見たからだった。
その字は、私の学院の書類の保護者欄と同じ字だった。呉服屋への支払いと同じ列に、薬が並んでいる。同じ人が同じ日に、氷の代金と薬の代金を書いている。
私は、母がこれを書いた瞬間の指を想像した。想像したくなかった。
四月、と私はもう一度見た。最初の薬と同じ行の四語を、指でなぞらずに追った。ゲームで伯父が妹に話を持ちかけたのは、いつだったか。私は思い出そうとして、思い出せなかった。ゲームはそこまで細かく日付を出さなかった気がする。出していたとしても、七周のあいだの私は、そこを読み飛ばしていた。
しばらくして、私は帳面を懐に入れた。
燃やさない。四年前に決めたとおりだ。燃やせば、ゲームの瑠璃と同じになる。
この帳面がここにあると誰かが気づいたら、母は捕まる。捕まったら、この家はどうなる。私はどうなる。
――違う。
私は自分に言い聞かせた。母を助けるためだ。この帳面がなければ、母は決定的な証拠を持たずに済む。私が持っていれば、母のしたことが明るみに出る時期を、私が選べる。伯父だけが裁かれて終わるなら、それでいい。
自分の部屋に戻って、鏡台の底の板を外し、帳面をそこへ入れた。板を戻し、白粉の瓶を上に並べた。
手が止まらなかった。
止まらないまま、私はもう一つのことを考えていた。
この帳面を誰かに見せたら、この家は終わる。この家が終わったら、朝の昇降口の「おはようございます」も、川口先生の薄い印も、フミの櫛も、月に一度の菓子屋も、なくなる。四年かけて、やっと手に入れた、小さい良い子の毎日が。
私はそれを、そのとき、確かに考えた。
考えたことを、「そんなつもりではなかった」と言い直すことは、できなかった。
文机の抽斗が開いたままだったことに気づいたのは、夜になってからだった。私は夕食のあと、母が風呂に入っている間に居間へ戻って、抽斗を閉めた。切手は一枚だけ取った。礼状は、翌朝出した。
母は、帳面がなくなったことに気づかなかった。少なくとも、私にはそう見えた。十年前の古い帳面を、母は毎日開くわけではない。
鏡台の底の板は、その夜から少しだけ重くなった。重くなったのは板ではなく、私が板の前を通るときの足だった。