星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第三章 夕立(1/2)

第三章 夕立

 十五歳の春、母が寝込んだ。

 三日熱が下がらず、蘆田先生が呼ばれた。先生は往診で来られず、代わりに息子が来た。蘆田慎。二十歳。医学生で、父の指示で薬を届けに来たのだという。

 玄関に立った彼は、眼鏡をかけていた。鞄の口から、薬包の束と一緒に、薄い本の背がのぞいていた。医学校の白衣を畳まずに腕に掛けたまま来たらしく、フミが慌てて受け取った。

 彼は母を診て、脈をとり、目を見て、薬を置いていった。それから台所の隅で、私にこう言った。

「奥様は、夜に酒を召し上がりますか」

 柔らかい声だった。ゲームの声より、少し低い。

「……ときどき」

「今日置いていく薬は、酒と一緒になると効きすぎます。眠っているように見えて、呼吸が浅くなる。父は必ずそれを言えと言いました」

「はい」

「言いにくいことですが、量を管理する人が家に一人必要です」

 私は「わたしがします」と言った。

 慎は少し驚いた顔をして、それから頷いた。

「では、これを」

 彼は鞄から一冊出した。薄い詩集だった。

「待つあいだ、退屈でしょう」

 彼は縁側に座って、二篇読んでくれた。

 行の終わりで、彼は必ず一拍おいた。私は画面越しにその癖を知っていた。知っていたはずなのに、生きた声で聞くと、拍のあいだに庭の音が入るのだと初めて分かった。風とか、鳥とか、遠くの鋏の音とか。

「急がないんですね」

「急ぐと、詩がかわいそうですから」

 私は笑ってしまった。本物だ、と思った。本物が、うちの縁側で言った。慎が「変ですか」と言った。「いいえ」と私は言った。顔がゆるむのを止められなかった。

 詩集は二週間後に返した。返しに行くとき、私は玄関で三分ほど迷って、「面白かったところに紙を挟みました」と言った。慎は挟まった紙を見て、「これは私も好きです」と言った。

 その日の帰り道、私は馬車の中でずっと機嫌がよかった。

 *

 それから、母の薬は私が取りに行くことになった。

 蘆田医院は屋敷から歩いて十五分ほどのところにある。馬車を出すほどの距離ではない、と私が言うと、母は少し考えてから「フミを連れて行きなさい」と言った。フミは膝が悪いので、三回目からは私一人で行った。

 薬は一週間ぶんずつ出る。私はそれを母の簞笥の小引出しに入れて、一晩に一包ずつ出した。酒の匂いのする夜は、出さなかった。母は何も言わなかった。言わなかったけれど、酒の匂いのする夜は少しずつ減った。

 医院へ行くと、慎がいることもあった。いない日もあった。いる日は、待合の隅で詩集を一冊貸してくれた。私はそれを一週間で読んで、次の薬の日に返した。挟む紙は、だんだん増えた。

 九月の、蒸し暑い午後だった。

 薬を受け取って医院を出ようとしたとき、空が急に暗くなった。表の敷石に、大粒の雨が一つ、二つ落ちて、次の瞬間には全部が鳴っていた。

 夕立だった。

「傘は」と、後ろから慎が言った。

「持ってきていません。晴れていたので」

「医院の傘が一本あります」

 一本。

 私は、その言葉を聞いて、背中がぞわっとした。

 慎は傘立てから番傘を一本抜いて、戸口で開いた。

「お屋敷まで送ります。父には言ってあります」

「え、でも」

「薬が濡れると困りますから」

 断る理由は三つくらいあった。慎さんの仕事がある。雨はすぐやむかもしれない。一本の傘に二人で入るのは近すぎる。私はそのどれも口に出さなかった。口に出したら、この先に起きることが起きなくなる気がした。

 二人で一本の傘に入った。

 傘を持つのは彼だった。持つと、傘は私のほうへ傾いた。医院の角を曲がるころには、彼の左の肩が濡れて色を変えていた。

 知っていた。

 七周のあいだ、画面のこちらから何度も見た。診療所から寮まで、一本の傘を澪のほうへ傾けて、左の肩だけをぐっしょり濡らしている、あのスチル。

 いま、傾いた傘の下にいるのは私だった。

 慎は、ゆっくり歩いた。雨の音で、話はほとんどできなかった。彼は前を見ていて、ときどき私の足元を見て、水たまりの手前で少しだけ歩幅を変えた。私はそのたびに、薬の包みを胸に抱え直した。

 屋敷の門の庇の下に入ったとき、彼の左の肩は、上着の色が変わるくらい濡れていた。右の肩は乾いていた。私はほとんど濡れていなかった。

 言ってはいけない、と思った。言ったら、ただの台詞の真似になる。

 言ってしまった。

「どうしてそんなに、ゆっくり歩いたんですか」

 慎は、傘を畳みながら、少し首をかしげた。

「急ぐと、あなたが濡れますから」

 私は門柱に手をついた。

 膝から力が抜けそうだった。同じだった。声も、言い方も、首のかしげ方も。画面の中のあの人は、ここにいた。

「大丈夫ですか」

「だいじょうぶです」

「顔が赤い。熱が」

「ありません。ぜんぜん、ありません」

 慎は眼鏡の奥で目を細めて、私の額に手の甲を当てた。医者の手つきだった。一秒で離れた。

「ないですね」

「ないです」

「お母様の薬を取りに来てくださる方を、濡らして帰すわけにはいきませんから」

 彼はそう言って、濡れた肩のまま、来た道を戻っていった。傘は私に預けていった。明日、返しに来てください、と言って。

 私は門の内側に立って、畳んだ番傘を抱えていた。

 これはもしかして、と思った。もしかして、慎さんとくっつきそうなのでは。

 思ってから、自分の頬を叩きたくなった。慎さんは、患者の家の十五歳の娘を濡らさなかっただけだ。医者の息子として当たり前のことをしただけだ。額に当てた手の甲だって、熱をみただけだ。

 分かっていた。分かっていて、その夜、私は布団の中で三回くらい、門柱に手をついたところを思い出した。

 *

 傘を返しに行った日から、私は月に一度、蘆田の家の詩の会に呼ばれるようになった。

 慎の母上が、近所の女学生や医学生を集めて、座敷で詩を読み合う会を開いている。慎は読み役だった。私は詩のことは分からない。分からないまま、慎が行の終わりで一拍おくのを聞きに行った。

 詩の会と聞いたとき、私はまた背中がぞわっとした。ゲームの告白は、詩の会で来る。いつもの一拍のところで、慎は次の行を読まない。

 もちろん、あれは澪のための場面だ。私は分かっていた。分かっていて、会のある日は朝から落ち着かなかった。

 十五歳の冬の終わり、二月の会だった。

 座敷の火鉢に炭が足されて、窓の硝子が曇っていた。慎は、冬の海の詩を読んでいた。一行読んで、一拍おく。一行読んで、一拍おく。その拍のあいだに、火鉢の炭が小さく鳴った。

 三連目の終わりで、慎は次の行を読まなかった。

 本を閉じた。

 座敷の誰かが、あら、と小さく言った。

 私の心臓は、耳の横で鳴っていた。

「これだけは、急いで言います」

 慎は私を見た。

 来た、と思った。来てしまった。

「天導さん。あなた、ちゃんと眠れていますか」

 ……。

 告白じゃなかった。

「顔色が、薬を取りに来てくださるたびに悪くなっています。秋の終わりあたりから。お母様の薬を管理するのはいい。でも、管理する人が眠れていないのは、よくない」

 座敷の人たちが、なんだ、という顔をして、それから気の毒そうな顔をした。私は膝の上で手を握った。顔から火が出そうだった。告白を待っていた自分と、眠れていないのを見抜かれた自分と、どちらのせいで顔が熱いのか分からなかった。

 眠れていないのは本当だった。鏡台の底に帳面を入れてから、一年と少し。夜中に目が覚めて、板の前を通れなくなる夜があった。

「……眠れて、ないです。ときどき」

「そうですか」

 慎は本を膝に置いた。

「すみません、会の途中に。父の口癖なんです。医者は、急ぐべきときに急がないと、一生悔やむ。私はいつも急がないので、急ぐべきときくらいは急ごうと思っています」

 会はそのまま続いた。慎は四連目から読み直した。行の終わりで、また一拍おいた。

 *

 会が終わって、ほかの人たちが帰ったあと、私は縁側で慎と少し話した。

「さっきは、すみませんでした」と彼が言った。

「いえ。……ありがとうございました」

「眠れないときは、薬に頼る前に、一度うちへ来てください。父に診せます」

「はい」

 庭の梅が、ひとつだけ咲いていた。慎はそれを見ながら、少し黙った。彼の沈黙は長い。

「父の口癖、と言いましたが」

「はい」

「口癖になったのには、わけがあります」

 慎は膝の上の本の角を撫でた。

「父は、本家の百合子さまの侍医でした。宗一郎さまの、最初の奥様です」

 私は顔を上げた。

「百合子さまのご病気は、早く見つかれば治るものだったそうです。父はそう言います。あなたが一つの年に、父は一年、帝都を離れていました。戻ってきて百合子さまを診たときには、もう手遅れだった。百合子さまは、次の冬に亡くなりました。あなたが二つの冬です」

 慎は梅を見たまま言った。

「父は、あのとき帝都にいなかったことを、ずっと悔やんでいます。口には出しません。ただ、毎年その日になると、一人で墓参りに行きます。私は子どものころ、なぜ父が急げと言うのか分かりませんでした。いまは、少し分かります」

 私は、何も言えなかった。

 百合子さまは、ゲームでは一行しか出てこない人だった。病身の奥様。二年前に亡くなった。それだけだった。

 この世界では、奥様が亡くなるところから六年ずれている。私はそれを、十二の夏に母の話で知った。なぜずれているのか、ずっと分からなかった。

 一人の医者が、一年、帝都にいなかった。

 それだけで、奥様の病が見つかるのが遅れた。奥様が早く亡くなって、婚約が早く決まって、事件が四つの夏に来た。――そういうことなのかもしれない。私にはそこまでしか分からなかった。それでも、ずっと宙に浮いていたものが、一か所だけ地面に着いた気がした。

 どうして蘆田先生はその年に帝都を離れたのですか、と訊こうとして、やめた。慎の横顔が、それ以上を話す顔ではなかった。

「慎さんのお父様のせいじゃないです」

 口から出たのは、それだけだった。

「そう言ってくださる人は、多いです」と慎は言った。「父は、そう言われるたびに、頭を下げます」

 帰りの馬車で、私は窓の曇りを指で拭いた。

 もしあの年に、蘆田先生が帝都にいたら。ゲームと同じように、奥様はもう何年か生きて、事件は十歳の夏に来たのかもしれない。十歳で目を覚ました私は、窓に飛びついたあの朝に、まだ間に合ったのかもしれない。

 考えても仕方のないことだった。十歳の私が目を覚ましたとき、奥様はもう八年近く前に亡くなっていた。

 *

 奨学生が来る、という話は、冬のうちから学院で出ていた。地方の中学から選ばれた学生が三名。分家の商会が出している奨学金だそうよ、と上級生たちが話していた。じゃあ天導さんの婚家ね、と誰かが言って、それから、ばつが悪そうに黙った。私は笑って、「まだ何も決まっていませんよ」と言った。

 三名の中に、小野という名前があることを、私は名簿を見る前から知っていた。

 十六歳の春、その三名が来た。

 小野澪。十七歳。湖の星見荘を守っていた小野弥吉の娘。私が七周、返事を選んできた主人公。年は私より一つ上だけれど、編入の試験の都合で、私と同じ組に入った。

 初日、彼女は教室に入るなり、窓を開けた。誰に断るでもなく、当たり前のように。日に焼けた腕が、窓枠の上で動いた。髪は短めで、首のうしろで一つに結んでいる。奨学生の制服は、私たちのものより生地が薄く、袖口が少し擦れていた。

 振り返ったときの目が、まっすぐだった。人を見るときに、途中で逸らさない目。

 ゲームの立ち絵と同じ顔で、立ち絵より日に焼けていた。

 私はその週、何度も練習した。朝、鏡台の前で。馬車の中で。仲良くしましょう、は気持ちが悪い。天導の家を代表して、は偉そうだ。私は、ただの同じ組の生徒として、一回目で、ちゃんと言うことにした。

 四日目の昼休み、廊下で彼女を呼び止めた。

「小野さん。天導です」

 澪は振り返って、私を上から下まで見た。露骨だった。

「存じております」

「学院のことで、分からないことがあったら、何でも訊いてください。教室の場所とか、講読会の決まりとか。それから、あの、困っていることがあったら」

 私は右手を出した。握手のつもりだった。

 澪は、その手を見た。見て、取らなかった。

「いまさら良い子のふりをしても、もう遅いですよ」

 廊下の音が、遠くなった。

「天導さんのことは、来る前から聞いていました。十の年まで、下級生を階段で突き飛ばしていた方だと。それから急に、良い子になったと」

 澪の声は落ち着いていた。

「急に良い子になる方は、何か理由があって良い子になるんです。私は、その理由に使われるのはごめんです」

 もう遅い。

 その言葉が、頭の中で鳴った。

 十歳の朝、仏間で、六年前に死んだ人の写真を見たときから、私はずっとその言葉を自分に言い聞かせてきた。もう遅い。十歳からでは、もう遅い。それでも良い子でいようと決めた。六年、朝の「おはようございます」を一日も休まなかった。小暮さんは、いまでは目を合わせて返してくれる。

 それを、この子は、会って四日で、もう遅いと言った。

 知っている。そんなことは、私がいちばんよく知っている。

 くっそ、この子、いじめてやる!

 気がついたら、右手が上がっていた。握手のために出した手が、そのまま頬の高さまで上がっていた。

 澪は、よけなかった。目も閉じなかった。まっすぐ私を見たまま、立っていた。

 手が、止まった。

 澪の頬の、ほんの手前で。自分の手のひらの向こうに、日に焼けた頬の産毛が見えた。

 澪が、少し首をかしげた。

「なんでぶたないんですか?」

「いや、暴力はさすがにダメだ」

 口から出たのは、二十七年ぶんの私の声だった。

 澪が、瞬きをした。

「……ダメだ、って」

「ダメです。暴力は。いじめるにしても、もっとちゃんとしたやり方でやります」

「ちゃんとした」

「そうです」

 私は上げた手を下ろした。下ろし方が分からなくて、スカートの横で一度握って、開いた。

 澪は、しばらく私の顔を見ていた。それから、ほんの少しだけ、口の端を動かした。笑ったのか、呆れたのか、分からなかった。

「では、楽しみにしています。ちゃんとしたいじめ」

 彼女は教室へ戻っていった。

 私は廊下に立っていた。十歳の秋、小暮さんに逃げられたときと、同じ場所だった。あのときは、謝って怖がらせた。今日は、ぶとうとして止まった。どちらがましなのか、分からなかった。

 *

 ちゃんとしたいじめ、というものを、私は三日考えた。