星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第四章 はんぶんこ(1/2)

第四章 はんぶんこ

 澪と廊下でやり合ったのと同じ月に、婚約が正式になった。

 といっても、儀式らしいことは何もなかった。応接に伯父と母がいて、書付が読まれ、私は「はい」と言った。伯父の天導貞光は、恰幅のいい人で、書付を読む声がよく通った。一臣の父でもある。一臣は私の隣にいて、書付が読まれるあいだ、まっすぐ前を見ていた。終わったあと、彼は私に「これで、あなたが断るときの手続きが増えた。すまない」と小声で言った。

「駆け落ちの手続きは、増えましたか」と私は小声で訊いた。

「……まだ言うのか」

「言ってみただけです」

 一臣は前を見たまま、少しだけ眉を寄せた。怒ったのではなく、困ったときの顔だった。私は笑ってしまって、母に見られた。

 一臣さんは、いい人だ。三年前の庭でもそう思った。いまも思う。婚約者として、きちんと隣に立ってくれる。それだけで、ゲームの婚約者よりずっといい。

 ただ、書付を読み終えた伯父が満足そうに頷くのを見て、私は少し寒くなった。この婚約は、十八の夜に破棄される。ゲームのとおりなら。

 *

 張り合いは、夏を越えても続いた。

 秋の中間の順位表で、澪は一番だった。私は十四番だった。前期の二十六番から、十二上がった。

「上がりましたね」と澪が言った。

「上がりました」

「私より上に、とおっしゃいました」

「次は行きます」

 講読会の窓際の席は、澪がほとんど毎回取った。私は三回に一回、早く来て取った。私が取った日、澪は隣に座って私の側の窓を開けた。十月になると、窓を開けられるのはさすがに寒かった。

「閉めてもいいですか」

「天導さんの席ですから、どうぞ」

「開けたの、小野さんですよね」

 同じ言い合いを、私たちは四回くらいした。四回目には、周りの生徒が先に笑った。

 栗饅頭は、毎月一日に十個届く。私はもう、鐘と同時に走ることに慣れていた。取れる月も、取れない月もあった。澪は、毎月取った。

 十月の一日だった。

 その日は下級生の組が早く終わっていて、私と澪が購買の前に着いたとき、盆の上には一つしか残っていなかった。

 二人で、同時に手を伸ばした。

 指が、饅頭の上でぶつかった。

 澪は手を引かなかった。私も引かなかった。購買のおばさんが、私たちの顔を交互に見た。

「……小野さんが、毎月取っているのは知っています」

「天導さんが、今年から走り始めたのも知っています」

「譲りません」

「私も譲りません」

 後ろに、下級生が二人並んだ。一つしかないのを見て、残念そうに帰っていった。

 私は、饅頭を取った。取って、両手で持って、真ん中から割った。

 栗が、ちょうど半分ずつになった。

「はんぶんこにしましょう」

 澪は、割れた饅頭を見た。それから私の顔を見た。

「……いじめではないんですか」

「いじめです。半分しか食べられないので」

 澪は、しばらく黙っていた。それから、半分を受け取った。

 *

 講堂の裏に、日の当たるベンチがある。私たちは、そこで饅頭を食べた。

 澪は、一口が大きかった。半分を三口で食べ終えて、指についた餡を見て、それも舐めた。令嬢の方の前ですみません、と言いながら。

「小野さんは、どうして毎月、栗饅頭を買うんですか」

「父が好きだったんです」

 澪は、ベンチの背にもたれた。

「父は、湖の別荘の番人をしていました。天導家の星見荘です。天導家に十二年お仕えしました。帝都から来る方々は、お土産によく角の店の栗饅頭を持ってきてくださって、父はそれを一つだけもらって、半分を私にくれました。半分こだ、と言って」

 私は、手の中の饅頭を見た。

「十二年前の夏に、天導の旦那様が湖で亡くなりました。桟橋が崩れて。父は、見回りが足りなかったと言われて、次の春に暇を出されました」

 知っていた。ゲームで読んだ。桟橋の番人は、管理の不行き届きを責められて職を失い、何年かあとに病気で亡くなった。一行で、そう書いてあった。

「それからは、海のほうの親戚の家で、網の繕いや、荷揚げや、できることは何でもしました。でも、胸を悪くして」

 澪は、空を見ていた。

「私が十三の年に、死にました」

 一行で読んだことが、いま、横に座っている人の口から出た。饅頭を半分こにした人の口から。

 ゲームの中では、澪の父はもう死んでいる人だった。宗一郎と同じだった。物語が始まったときにはいない人。私は七周、その人のことを「澪の父」としか思っていなかった。栗饅頭が好きだったことも、半分こだと言ったことも、知らなかった。

「父は、死ぬまで、私には、あの夜のことを話しませんでした。一度も」

 澪は、膝の上で指を組んだ。

「父が遺したものがあります。封がしてあって、十八になったら開けろと言われています。だから私は、まだ読んでいません」

「……開けたら、どうするんですか」

「分かりません。読んでから決めます」

 澪は、それ以上言わなかった。私も訊かなかった。

 鏡台の底の帳面のことを、私は考えていた。澪の父が話さなかった夜のことを、母は帳面の余白に四つの語で書いていた。私はそれを、二年近く板の下に置いている。

 言えなかった。饅頭の甘さが、急に喉に貼りついた。

「それから」と澪が言った。「天導さんとは、一度だけ会ったことがあるんですよ」

「え」

「あの夏、湖で。あなたは四つで、私は五つでした。岸で貝殻を拾いました。虹色のが出るのを、私が探すのがうまいと言って、あなたはずっと私の籠を覗いていた」

 澪は、私の顔を見た。

「覚えていないでしょう」

「……覚えてないです。ごめんなさい」

 本当に覚えていなかった。私は、その夏にはいなかった。この身体の子は、いたのだ。貝殻を覗いていたのだ。

「謝られると困ります」と澪は言った。「四つの子が覚えていないのは、当たり前ですから」

 澪は立ち上がった。スカートの裾の砂を払った。

「饅頭、ごちそうさまでした。来月は、私が取ります」

「来月は、わたしが取ります」

 澪は、少しだけ笑った。前に廊下で見たのと同じ、口の端だけの笑い方だった。今度は、呆れているのではないと分かった。

 澪が行ってしまってから、私はしばらくベンチに座っていた。

 もう遅いですよ、と澪は言った。あのとき私は、自分のことを言われたのだと思った。十歳までの天導瑠璃が小暮さんにしたことを、いまさら取り消せない、と。

 澪の父は、もう死んでいた。あの子が言った「もう遅い」の中に、その人がいたのかどうか、私には分からなかった。

 *

 一人では持っていられない、と思った。

 私は白石さんのように頭がよくない。――白石さんというのが誰なのか、私は知らない。ときどき見る夢の、罫線のノートの人の名前が、なぜかそれだった。あの人なら、たぶん一人で表を作って、一人で決めるのだろう。私にはできない。表を作っても四行目で止まる。

 だから、相談することにした。人に。帳面のことは言えない。言えることだけを。

 最初に慎に訊いた。

 十一月の、薬を取りに行った日だった。待合に人がいなくなるのを待って、私は言った。

「慎さん。眠り薬を、四つくらいの子どもに飲ませたら、どうなりますか」

 慎は、詩集を閉じた。

「……どなたが、どなたに」

「たとえばの話です」

 慎は私を見ていた。彼の沈黙は長い。その日の沈黙は、詩の会のどの一拍よりも長かった。

「量によります」と彼は言った。「少なければ、よく眠るだけです。多ければ、呼吸が浅くなる。大人の量なら、死ぬこともあります。子どもは、大人が思うよりずっと薬に弱い」

「はい」

「天導さん」

 慎は声を落とした。

「十二年前、湖で、あなたは迷子になって、舟屋で眠っていたと聞いています。朝まで起きなかったと」

 私は、何も言わなかった。

「父の古い帳面を、見てみてもいいですか」

 見てほしい、と言えばよかったのか。見ないでください、と言えばよかったのか。私には分からなかった。分からないまま、口が動いた。

「……わかりません。見てほしいのか、見てほしくないのか、自分でも」

 慎は、しばらく私の顔を見て、それから小さく頷いた。

「分かりました。それなら、私が決めます」

 *

 一臣には、父のことを訊いた。

 婚約が決まってから、彼は月に一度、本家に顔を出すようになっていた。婚約者としての挨拶で、たいてい三十分で帰る。私はその日、応接を出た彼を庭で呼び止めた。

「一臣さん。わたしの父が、どうしているか、ご存じですか」

 一臣は少し驚いた顔をした。

「南浦の造船所にいると聞いて、十一の年から五通、手紙を書きました。一通も返事がありません。生きているのかどうかも、分かりません」

「……私は知らない」

 一臣は、抱えていた本を持ち直した。

「だが、父の書類には、何かあるかもしれない。本家から出ていった人の行き先を、父が知らないとは思えない。見てみる」

「いいんですか。お父様の書類を」

「婚約者の父親の居所を知りたいと言われて、断る理由はない」

 彼はそう言って、少し考えた。

「ただ、起きたことは変えられない。叔父上――あなたの父上が家を出たのは、十二年前だ。いまさら居所が分かっても、戻ってくるとは限らない」

「分かっています」

「変えられるのは、これからどうするかだけだ」

 それは、正しかった。一臣さんはいつも正しいことを言う。

 *

 十七歳の春、学院の門の前で、帽子をかぶった男に呼び止められた。

「天導瑠璃さん? 早瀬っていいます。新聞の」

 声が大きかった。門の前にいた下級生が、二人振り返った。

 日に焼けた顔で、帽子の下から癖のある髪がはみ出している。手には、角の擦り切れた手帳を持っていた。立っているあいだも、片方の足で小さく拍子を取っていて、じっとしていない。

 早瀬遼。二十五歳。

 ゲームで、塀を乗り越える人だ。

「十三年前の湖の件を調べてましてね。小野さんに話を聞こうとしたら、父の封を開けるまでは話さない、と断られた。筋が通ってる。で、天導家の方にも、一言いただけないかと」

 逃げるべきだと思った。天導の娘が記者と話すなんて、伯父が知ったら何と言うか。

 でも、私は相談する相手を探していた。

「わたしも、訊きたいことがあります」

 早瀬は、手帳を持った手を止めた。

「……へえ」

「どこか、話せるところはありますか」

 早瀬は懐中時計を見た。

「いまから河岸で人に会う。歩きながらでいいなら、ついてきな。馬車は?」

「一時間後に来ます」

「じゃあ一時間で戻す」

 *

 河岸の市場は、朝の競りが終わったあとでも人でいっぱいだった。

 魚の匂いと、氷の溶ける匂いと、人の汗の匂いがした。桶を担いだ男が怒鳴りながら通り、籠を背負った女の人がその脇をすり抜ける。私は三歩で、早瀬の帽子を見失いかけた。

 手首を、つかまれた。

「はぐれるなよ」

 早瀬は前を向いたまま言った。私の手首を握る手は、乾いていて、力が強かった。

 私は、息が止まりそうになった。

 知っていた。人混みで、遼は澪の手首をつかんで「はぐれるなよ」と言う。人混みを抜けても離さない。七周のあいだ、画面のこちらから見ていた。

 早瀬は、人のあいだを縫うように歩いた。桶をよけ、荷車をよけ、私の手首を引いた。私はついていくだけで精いっぱいだった。

 市場の奥の、小さな魚屋の前で、早瀬は止まった。

 店の奥から、年を取った男が出てきた。片方の目が白く濁っている。早瀬を見て頷き、それから私を見た。

「……誰だ、その娘は」

「天導の」

 男の顔が、変わった。

「天導の娘を、ここへ連れてくるとは、どういう了見だ。あの家は、弥吉を追い出した家だぞ。弥吉が桟橋を見てなかったなんて、よくもまあ」

 男は私に向かって、濁っていないほうの目を細めた。

「当主が死んで、いちばん得をしたのは、その娘だろうが」

 私は、何も言えなかった。本当のことだった。

 早瀬が、私の手首を握ったまま、半歩前へ出た。

「親方。あの子だって、誰かの娘だろ」

 男が黙った。

「親に何をされたか、当時四つだった子に分かるわけがない。得をしたかどうかは、この子が決めたことじゃない」

 私は、早瀬の背中を見ていた。帽子の下の癖毛が、耳の上で跳ねていた。

 ゲームで、遼はその一行を、天導瑠璃について言った。画面のこちらで、私はいつもその一行のところで手を止めた。いま、その一行は、私の目の前で、私のために言われた。

 男は、しばらく黙っていた。それから、店の奥の木箱に腰を下ろした。

「……わしは、星見荘で舟を出してた。弥吉とは、二十年の付き合いだ」

 男はそれだけ言って、早瀬の質問に答え始めた。私は店の軒下で、それを聞いていた。男が話したのは、どれも昔の湖の話だった。最後に男は言った。

「弥吉は、死ぬまで、あれは事故じゃねえと言ってた。言っただけだ。誰も聞かなかった」

 *

 帰り道も、人混みだった。

 早瀬は、また私の手首をつかんだ。市場を抜けて、広い通りに出た。人がまばらになった。

 手は、離れなかった。

 私は、言ってしまった。言ってはいけない、と思いながら。

「……もう、はぐれませんけど」

「知ってる」

 早瀬は前を向いたまま答えた。

 私は、次を待った。手首から、手のひらへ。

 早瀬は、手を離した。

「悪い。妹の手を引く癖でさ。下に三人いるんだ」

 彼は帽子をかぶり直して、手帳を開いた。

 スチルの続きは、来なかった。

 来なくてよかった、と私はすぐに思った。たぶん、よかった。私は十七で、この人は二十五で、この人にとって私は取材先の家の子どもだ。妹と同じように手首を引いた、それだけのことだ。

 それでも、手首のところが、しばらく熱かった。

「で、あんたが訊きたいことって何だ」

 広い通りを歩きながら、早瀬が言った。

 私は、帳面のことは言わなかった。言えることだけを言った。

「父を探してほしいんです。天導恭介。十三年前に家を出て、南浦の造船所にいると聞きました。五通手紙を書いて、一通も返事がありません」

 早瀬は、手帳に何か書いた。

「心当たりはある。確かめたら知らせる」

「それから」

 私は、少し迷った。

「いまさら調べても、死んだ人は戻らないのに、どうして調べるんですか」

 早瀬は、立ち止まった。

「戻らないよ」

 あっさり言った。

「記事は、死んだ人を生き返らせない。そんなことは、記者なら誰でも知ってる。でも、名前は返せる。番人の名前も、あんたの親父さんの名前も。生きてるうちに返せたら、もっといい。死んでからでも、返さないよりはいい」

 彼はまた歩き出した。

「あんたの名前は、あんたが自分でどうにかしな。そこまでは、おれの仕事じゃない」

 門の前に、馬車が来ていた。早瀬の言ったとおり、ちょうど一時間だった。

 *

 その夜、私は布団の中で、指を折った。