星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第五章 知りません(1/2)

第五章 知りません

 十七歳の秋、蘆田慎が来た。

 二十二歳になっていた。彼は玄関ではなく、庭の勝手口から入ってきた。手に風呂敷包みを持っていた。

「天導さん。人のいないところで話せますか」

 東屋へ通した。彼は包みを解いた。中には帳面が二冊あった。表紙に年号と「処方」とある。

「父の診療所の処方簿です。去年、あなたに訊かれてから、探しました」

 私は動かなかった。

「十三年前の、春から夏の分です。天導藤乃様のお名前で、薬が六回出ています。四月と五月に二度ずつ、六月、七月」

 私は自分の顔が動かないように、頬の内側を噛んだ。

 ゲームの慎のルートで、何度も見た頁だった。画面の中では、それは澪の手に渡る。澪がそれを持って、湖の事件の最初の一行を書き足す。

「量が多い。四月のものは、通常の処方の三倍あります。父は、奥様が眠れないと訴えるので出したと言っています。父は何も知らなかったと思います。ただ、この量を続けて出したことは、父の落ち度です」

 慎は帳面を閉じた。

「私はこれを持ち出しました。父には言っていません。父が知れば、燃やすかもしれない。父は自分の落ち度を隠す人ではありませんが、患者の家のことを守る人です」

 彼は帳面を私のほうへ押した。

「これを、どうするべきか、あなたに」

 私は帳面を見た。

 その瞬間に、私の中で二つの声が同時に立った。

 一つは、受け取れ、と言った。受け取って隠せ。鏡台の底にはもう一冊入る。そうすれば、母を告発する道具が世界からもう一つ減る。

 もう一つは、この人にそれをさせるな、と言った。

 去年の十一月、私はこの人に「見てほしいのか、見てほしくないのか、分からない」と言った。この人は「それなら、私が決めます」と言って、父親に黙って帳面を持ち出した。私が決めなかったぶんを、この人が決めてくれた。その帳面を、今度は私に渡して決めさせようとしている。

 私は口を開いた。

「慎さん。それを、わたしに渡さないでください」

 慎が顔を上げた。

「わたしに渡したら、わたしはそれを隠します」

「……隠す」

「隠します。たぶん、今日のうちに」

 私は自分の声が震えているのを聞いた。

「わたしは、母を守りたいんです。守りたいから、そういうことをします。それは自分でわかっています。だから、渡さないでください」

 慎は長いあいだ黙っていた。彼の沈黙は長い。この日の沈黙は、たぶん今までで一番長かった。

「では、誰に渡せばいいのですか」

「小野澪さんに」

 私は言った。

「あの人は、自分で決められる人です」

 慎は帳面を包み直した。結び目を作る指が、一度ほどけて、やり直した。

「あなたは、この帳面が何を示すか、ご存じなのですね」

 私は答えなかった。慎はそれ以上訊かずに、勝手口から帰っていった。

 翌週、澪の机の上に、風呂敷包みがあった。私はそれを廊下から見た。澪は包みを開かないまま、授業のあいだずっと、机の端に置いていた。

 昼休み、栗饅頭の日だった。澪は走らなかった。私も走らなかった。

 *

 同じ秋の終わり、一臣が手紙を持ってきた。

 彼は南の小広間に入って、座らなかった。窓のところに立って、外を見て、それから懐から折った紙を出した。

「叔父上の行き先を探していて、父の机の奥で見つけた。叔父上のことは、何も出てこなかった。これが出てきた」

 私は受け取った。

 下書きだった。天導貞光の字で、天導家の親族会の三人に宛てた文面が、途中まで書かれている。日付は十三年前の七月。

 ――万一の事あらば後見の儀、当方にて引き受け候。瑠璃の件、御含み置き願い上げ候。

「万一の事」

 私は声に出して読んでしまった。

「そうだ」と一臣が言った。「宗一郎さんが亡くなったのは八月十五日だ。この下書きは七月に書かれている」

「これは」

「私は、父を疑いたくない」

 彼はまだ窓の外を見ていた。

「父は、私を殴ったことがない。学費を出してくれた。奨学の制度も、父が押し切って作った。小野さんが学院にいるのは父の金だ。私はその金で育った」

 彼の指が、窓枠を一度叩いた。

「それでも、これは七月の日付だ」

 私は紙を見ていた。

 七月。鏡台の底の帳面には、四月の薬と、その横の「八月、湖、灯籠、舟屋」があった。

 七月の下書きと四月の字を、私は並べた。並べて、すぐに目をそらした。ゲームでも伯父の根回しは夏だった。四語はあとから書き足したのかもしれない。母が先に薬を買っていたのは、眠れなかったからかもしれない。兄に言われる前から、兄の計画を察していたのかもしれない。理由はいくらでも作れた。作れる理由のうち、いちばん母に優しいものを、私はそのとき選んだ。

 この紙は、私に渡された。私はこれも隠せる。鏡台の底には、まだ隙間がある。

 しかも、この人にこれを探させたのは、私だった。父の居所を知りたい、と言ったのは私だ。

「一臣さん」

「なんだ」

「これを、わたしに預けないでください」

 彼が振り返った。

「わたしに預けたら、わたしは隠します」

 私は同じ台詞を、この秋二度言った。

 一臣は紙を私の手から取り戻した。

「私が持っている」と彼は言った。「どうするかは、私が考える」

 彼は二週間考えた。

 そのあいだに一度、彼は婚約者の挨拶に来た。応接で茶を出すと、彼は湯呑を持ったまま言った。

「父は、若いころ天導の船に乗っていたそうだ。あの人は、天導の名前を――」

「お茶が冷めます」

 彼は口を閉じた。閉じてから、私を見た。

「そうだな」

 その日、彼はいつもの三十分より早く帰った。帰り際に何も言わなかった。

 私はそのとき初めて、隠し事が人との間を削るということを、体で知った。彼が父の話をしようとしたところに私が茶を置いた。それだけで、部屋の中の何かが一段冷えた。彼が父の話をすれば、次は私が母の話をする番になる。だから止めた。嘘をついたのではない。話を始めさせないことで、隠した。

 二週間後、一臣は下書きを持って学院へ行き、小野澪に自分で渡した。

 そのことを、私は彼の短い手紙で知った。

『父の紙は、小野さんに渡した。私が決めた。』

 私はその短い手紙を、何度も読んだ。ゲームの一臣は、澪に求婚するとき「これは、私が決める」と言った。画面の中の台詞を、この人は知らない。知らないまま、同じ言葉を、恋のためではなく自分の父のことに使った。

 彼は二週間で決めた。自分の父のことを、自分の手で。慎さんも、父親に黙って帳面を持ち出した。私は三年近く、母の帳面を鏡台の底に置いたまま、一度も決めていなかった。

 *

 冬に、早瀬遼に会った。

 珈琲店の二階だった。澪が呼び、私が付き添った。早瀬さんから、父のことで知らせがある、と手紙が来ていた。澪も、早瀬さんに会うと決めたところだった。

「父の封は、夏に開けました」と、店へ向かう道で澪が言った。「読んで、会うことにしました」

 何が書いてあったのか、澪は言わなかった。私も訊かなかった。

 早瀬は、コートの肩に雪を乗せたまま入ってきて、椅子に座る前から喋っていた。

「小野さん、どうも。今日は来てくれてありがとう。天導さんも」

「私が会うと決めたので、今日来ました」と澪が言った。

 早瀬は珈琲を三杯頼んだ。三杯とも自分の前に並べた。

「変ですか」と彼は言った。「一杯目は熱いうちに、二杯目は話しながら、三杯目は帰る前に。おれは喋ると喉が渇く」

 澪は自分から質問した。用意してきた紙を広げて、順に読み上げた。父の名前。星見荘。八月十五日。桟橋。事故と発表された経緯。

 早瀬は答えられるものには答え、答えられないものには「知らない」と言った。

 私は付き添いのふりをして黙っていた。黙っていれば安全だった。

 澪が最後の一つを読み終えたとき、早瀬が私のほうを向いた。

「天導さん。親父さんのこと」

 私は膝の上で手を握った。

「見つけた。南浦の蓬田造船に、九年いる。その前は三つ職を変えてる。名は恭介のままだ。会ってきた」

「会った」

「先月」

 早瀬は一杯目の珈琲を置いた。

「取材のことを、あんたたちに全部話す義理はない。話す気になったのは、あの人が、自分の口で話したがってるからだ」

「なんて」

「あの日、電報が来たと言ってる」

 私は息を詰めた。

「本社から至急の呼び出しだと。それで湖を出た。夕方の汽車で帝都へ向かい、翌朝、本社でそんな電報は出していないと言われた。それで戻った。戻ったときには、宗一郎さんは湖から引き上げられていた」

 澪が紙に何か書いた。

「電報を打った局は、湖の町の局だ。十三年も前だから控えは怪しいが、当時の局員が一人、まだ生きてた。打ちに来たのは若い男で、分家の書生さんだった気がする、と言ってる。いま、名前を当たってるところだ」

 早瀬は二杯目を持ち上げた。

「それから、あの人はこうも言ってる。娘さんから手紙が来ていないか、南浦へ移ってからずっと、何度も造船所の事務に確かめたそうだ」

 部屋の空気が、遠くなった。

「一通も来ていない。あの人はそれを、娘が書かないのだと思ってる」

 私は自分の手が冷たいのに気づいた。

「わたしは」と言いかけて、声が出なかった。

 五通、と言おうとした。十一の年から五通。全部、母に渡した。母は「出しておきます」と言った。

 言えなかった。言えば、次の言葉が出てくる。では、あの五通はどこへ行ったのか。

 早瀬は私を見て、それ以上何も訊かなかった。彼は「言うのは、あの人自身がすべきだ」と言った。「おれが代わりに書くと、あの人はただの証言者になる。あの人は、長いあいだ、誰にも話を聞いてもらえなかった人だ。おれは、あの人が自分で喋る場所を作りたい」

 彼は三杯目を飲み干してから、もう一つだけ付け足した。

「それと、小野さん。湖の近くの村に一人、話せるかもしれない人がいる。十三年前に天導家に勤めていた女中だ。名前はお絹。会うかどうかは、あんたが決めてくれ」

 澪は「会います」と即答した。

 早瀬は雪の中へ出て行った。

 店の前で、澪が私を見た。何か言いたそうだった。私は「寒いですね」と言った。澪は「寒いですね」と言って、寮のほうへ歩いていった。

 *

 年が明けて二月、澪に空き教室へ呼ばれた。

 放課後で、窓の外はもう暗くなりかけていた。教室の暖炉は火が落ちていて、机の上の埃が白く見えた。澪は教壇の横に立っていて、手に何も持っていなかった。慎の処方簿も、一臣の下書きも、ここにはなかった。

「お絹さんに会いました」と澪は言った。

 私は扉を閉めた。

「湖の近くの村で、洗濯の仕事をしておられます。十三年前のことを、私に話してくださいました。最初は話したくないとおっしゃって、三度目に伺ったときに」

 澪は私の顔を見ていた。

「八月十五日の晩、奥様がお嬢様に匙で何かを飲ませるのを見た、とおっしゃいました。そのあと台所へ行けと言われて、行った。戻ったら、お嬢様がいなかった。明け方、舟屋で眠っているのを見つけた。揺すっても、なかなか起きなかった」

 私は黙っていた。

「四つのお嬢様は、迷子になったのではありませんでした。眠らされて、舟屋に置かれていたんです」

 澪の声は震えていなかった。震えないように、何度も練習してきた声だと思った。

「天導さん。私は、父の名前を返してもらいたいんです。桟橋を見ていなかった番人、という名前を。父は、あの柱の鋸の痕を見つけて、誰にも言えないまま死にました」

「……はい」

「それで、今日は、お願いがあって来ました」

 澪は一歩、こちらへ来た。

「奥様の帳面があるなら、あなたから出してください」

 私は澪を見た。

「慎さんの処方簿は、薬が出たことを示します。一臣さんの下書きは、伯父様が後見を準備していたことを示します。お絹さんの話は、あの晩に何があったかを示します。でも、それを誰の手が決めたのかは、まだ分かりません。私はそれを、奥様ご自身の字で確かめたいんです」

「……」

「今なら、まだ間に合います」

 澪はそこで一度、息を吸った。

「だから、表に出す前に、あなたにだけ訊きに来ました」

 教室の窓で、風が一度鳴った。

 言えばよかった。あります、と。鏡台の底に、と。八月、湖、灯籠、舟屋、と書いてあります、と。

 私は、口を開いた。

 開いて、閉じた。

 間に合う、と澪は言った。

 何に。

 頭の中で、三つのことが同時に動いた。

 一つ目は、意地だった。

 十六の春、廊下で、この子は私に言った。いまさら良い子のふりをしても、もう遅いですよ。私はあの言葉で、手を上げかけた。あれから二年近く、成績と、窓際の席と、栗饅頭で張り合ってきた。饅頭を半分こにしても、洋装を贈っても、あの言葉は取り消されていない。

 もう遅いと言ったのは、あなたでしょう。

 それを、いまになって、間に合う、と言う。私は、それが悔しかった。こんなときに悔しがっている自分が情けなくて、それでも悔しかった。

 二つ目は、母だった。

 帳面を出せば、母は伯父と同じ席に座らされる。ゲームでは、母は従犯だった。兄に命じられて娘を眠らせた人で、それで済むはずのことを、私が母の字で重くする。

 布を選んでくれた人だ。あなたに似合う、と言ってくれた人だ。珈琲の淹れ方を教えてくれて、薄い、と言ったあとで、湯の落とし方は上手、と言ってくれた人だ。私が一晩に一包ずつ薬を出すのを、何も言わずに受け取って、酒の匂いのする夜を少しずつ減らしてくれた人だ。

 あの人が、警察に連れていかれる。私の出した帳面で。十歳の夜に胃が縮んだのと同じ場所が、いまも縮んだ。

 三つ目が、いちばん大きかった。

 出したら、誰が救われるんだろう。

 宗一郎さんは戻らない。澪さんのお父さんも戻らない。お絹さんが台所へ行った十三年も、父が造船所の事務に手紙を訊きに行った九年も、戻らない。

 澪さんは、帳面を出さなかったら『もっと早く出してくれれば救ってあげたのに』とか言いそうだけど、実際それで救われることってなくない?

 救う、というのは、死んだ人の名前のことだろう。番人の名前を返すこと。それは大事だ。早瀬さんもそう言った。でも、名前が返っても、あの人は栗饅頭をもう半分こにできない。母が捕まっても、仏間の写真の人は、写真のままだ。

 十歳の朝から、ずっとそうだった。もう終わってしまったことの、あとだった。いまさら何を出しても、終わったことは終わったままだ。

 三つは、別々のことのはずだった。それが、一つの結び目になっていた。どれか一つをほどけば、残りの二つもほどけたのかもしれない。私は、どれもほどかなかった。

 麻辣の店を断った夜と、同じ形だった。行きたいのに、服と会話と三回目のことを考えて、一回目から逃げる。

「知りません」

 言ってしまった。