天導ルリカは生まれるのを止めた
第五章 知りません(2/2)
澪は、しばらく何も言わなかった。私の顔を見ていた。私は澪の顔を見られなかった。見れば、あれは嘘ですと言ってしまうと思った。言ってしまえばよかったのに、そう思った。
「……そうですか」
澪はそれだけ言った。
私たちは一緒に教室を出た。校門まで歩いた。歩けば、まだ言い直せる距離があった。校門までは二百歩ある。二百歩のあいだに、あれは嘘です、と言うことはできた。
一歩ごとに、言う言葉を頭の中で作った。あれは嘘です。帳面はあります。鏡台の底に。作るたびに、言う前の息を吸った。吸って、吐いた。吐いた息は白くて、何の言葉にもならなかった。
百歩目で、澪が言った。
「天導さん。去年の夏、服をくださったでしょう。あの青い」
「はい」
「あれ、まだ借りているつもりでいます」
「返さなくていいんです」
「そういう問題ではないんです」
いつもの言い合いだった。いつもと同じように終わった。
私は言わなかった。
澪は「では」と言って、寮のほうへ曲がった。私は馬車に乗った。
馬車の中で、私は自分の膝を見ていた。あの教室で、私は母を守ったのだと自分に言おうとした。言おうとして、それが三分の一しか本当でないことを知っていた。残りの三分の一は意地で、もう三分の一は、どうせ何も戻らないという、諦めだった。
諦めは、楽だった。十歳の朝から、私はその楽さに寄りかかってきた。もう遅い、と自分に言えば、何もしなくていい。
*
二月の終わりの夜、私は一度だけ、帰りたいと思った。
布団の中で、目を閉じて、あのゲームのタイトル画面を思い浮かべた。帝都の空と、桜と洋燈の意匠と、始まりの音。十歳の最初の夜にやったのと同じように。
何も出なかった。
七年前も出なかった。分かっていた。それでも、澪の「そうですか」を聞いてしまったこの冬だけは、どこかに帰り道があってほしかった。
帰りたい、と思ったのは、六畳の部屋が恋しかったからではなかった。あそこへ帰れば、帳面を出すか出さないかを、もう決めなくていい。澪の顔を見なくていい。饅頭の日に、走らなくていい。そう思ったとき、胸のどこかがひどく痛んだ。澪と張り合えなくなるのは嫌だった。嫌なのに、その夜の私は、それでも帰りたかった。
帰りたいというのは、私の場合、選ばずに済む場所へ行きたいということだった。
出ないと分かってから、私はしばらく暗い天井を見ていた。
あの画面は、少なくとも、私が呼んで出るものではない。十歳の最初の夜と、十七の冬のこの夜。二つの夜に何度も呼んで、一度も出なかった。
帰れないのだから、ここで決めるしかない。そう思ったのに、私はその夜も決めなかった。決めないまま、四月が来た。
それから十八の夜まで、私は一度もタイトル画面を思い浮かべなかった。