天導ルリカは生まれるのを止めた
第六章 星の間(2/2)
自分の声が部屋に響いた。
「十一のときから、五通。全部、母に渡しました」
恭介が私を見た。
彼の顔が、ゆっくりと崩れた。崩れるという言い方しかできない。彼は口を開けて、閉じて、それから太い指の手で顔を覆った。
私は「お父様」と言おうとした。言えなかった。「パパ」も言えなかった。この身体はそう呼んでいたはずなのに、私の口はどうしても動かなかった。私は八年、この人を心の中で「恭介さん」としか呼んでいなかった。
伯父が立ち上がった。
「作り話だ」
彼の声は、まだよく通った。
「小野という男は解雇された使用人だ。その娘が持ってきた紙に何が書いてあろうと、死人の作文だ。処方は医者の落ち度で、私とは関係がない。辰巳が電報を打ったのなら、辰巳に訊け。電報など――そこの男が、十四年前に自分の失態をごまかすために作った話だろう」
「わたしは、電報を持っております」
恭介が言った。
彼は懐から、折り畳んだ紙を出した。
「十四年前の八月十五日、十五時、湖の星見荘で受け取ったものです。ずっと持っておりました」
彼は、その紙を胸の高さで持って、しばらくそこに立っていた。
「捨てられませんでした」
誰かが息を吐く音がした。
三村弁護士が前へ出て、紙を受け取った。裏を見て、局名と時刻を読み上げた。早瀬さんが手帳に書きつけた。
母は、椅子に座ったままだった。
母は一度も立ち上がらなかった。誰の話にも異議を唱えなかった。処方簿が読み上げられたときも、お絹さんが泣いたときも、恭介さんが顔を覆ったときも、母は前を見ていた。
私は、その母の背中を見ていた。
この人は、この八年、私に珈琲の淹れ方を教え、布を選んでくれ、髪を上げなさいと言った人だ。
同じ人が、あの六行と四つの語を書いた。
最後に、私が出した。
三村の封書と、藍色の帳面。
「これは、母の家計簿です。十四歳の冬に、母の抽斗から取りました。薬の購入が六回。四月に二回、五月に二回、六月、七月。最初の四月の薬と同じ行に、八月、湖、灯籠、舟屋と書いてあります」
誰も何も言わなかった。
「三年余り、隠していました。誰にも見せませんでした。今日まで、自分から出しませんでした」
三村が帳面を受け取って、頁を繰った。四月の欄を、親族会の三人に見えるように開いた。
そのとき、伯父が言った。
「四月に、湖のことまで?」
声が裏返っていた。さっきまでのよく通る声ではなかった。
「それは妹が勝手に考えたことだ。私が相談を受けたのは六月だ。四月の計画まで私は知らん」
広間の音が止まった。
伯父は、自分が何を言ったのかに、少し遅れて気づいたようだった。口を開けたまま、次の言葉が出てこなかった。相談を受けた、と彼は言った。自分の罪を小さく見せるために、妹を先に立たせた。そうすることで、相談を受けたこと自体を認めてしまった。
親族会の一人が、ゆっくりと「貞光さん」と言った。
私は伯父を見ていなかった。私は母を見ていた。
母は、前を見ていた。兄のほうを一度も見なかった。
そして、私は分かった。
四月の処方はゲームにもあった。けれど、医院の処方簿からは、母がその月に湖と灯籠と舟屋を思い描いたことまでは分からない。私は十四の冬に、その四語を見ていた。ゲームの瑠璃が燃やした帳面にしかなかった字だった。燃やされたあとで、澪が集められたのは、医院の処方簿と、伯父の下書きと、お絹さんと恭介さんの話だった。そこから組み立てれば、主犯は七月に根回しを始めた伯父になる。母は、兄に言われて娘を眠らせた人になる。
ゲームの真相は、燃やされた帳面を抜いた真相だった。
私が燃やさなかったから、四月の四語が残った。伯父はそれを見て妹を先に立たせた。母が兄より先に計画を持っていたことを、この広間の全員が、いま知った。
私が十歳の夜に選んだ「焼かない」は、この子を断罪から守るための手のつもりだった。それは、母を守らなかった。
警察が来たのは、それから四十分後だった。母と伯父が連れて行かれた。母は玄関で一度だけ振り返って、私を見た。何も言わなかった。
その夜のうちに、親族会が開かれた。
結論は、二つだった。
一つ。天導瑠璃は宗一郎の実子である蓋然性が高いが、遺言認知の実行および養女指名の手続には、逮捕された二名が関与している。したがって、調査が終わるまで、瑠璃の跡取りとしての権限を停止する。
二つ。この停止は、血縁の否定ではない。
三村弁護士が、そう読み上げた。読み上げてから、私に小さく頭を下げた。
追放、とは言われなかった。修道院、とも。証拠を隠していた娘は、隠していたものを自分で出した。三村はあとでそう言った。燃やしていれば、話は違いました、とも。
*
廊下の手前で、澪に呼び止められた。
星の間の扉の外で、人がまだ何人も立って話していた。澪はその人たちから少し離れたところにいて、私が出てくるのを待っていたようだった。淡い青の洋装の襟が、少し曲がっていた。
「天導さん」
「はい」
澪は、しばらく私の顔を見ていた。二月の空き教室と同じ顔だった。
「あのとき、言ってくれていたら」
澪の声は、あのときと違って、少し震えていた。
「私はあなたを守れた。……守りたかったんです」
私は、澪の顔を見た。
「間に合う、と言ったのは、あなたのことです」
澪は言った。
「二月なら、表に出す前に、早瀬さんや大人の方たちと相談できました。四つのときに眠らされて舟屋に置かれたことと、そのあとで帳面を持っていたことを、分けて話す支度ができた。あなたを、あの晩の子として、私の隣に立たせる支度が。それで何もかも免れたとは言いません。でも、一人で皆さんの前に立たせずに済みました」
澪は、一度、息を吸った。
「私は、あなたに訊いたんです。あなたは、知りません、と言いました」
私は、息ができなかった。
二月の教室で、私は思ったのだ。出したら、誰が救われるんだろう、と。死んだ人は戻らない。救われることってなくない? と。
救われる人は、いた。
私だった。
澪は、死んだ人の話をしていたのではなかった。十六の春に廊下で、もう遅いですよ、と言った人が、十七の冬には、まだ間に合う、と言いに来た。私のために。私は、自分がもう遅いと言われたことに意地を張って、そのことを聞かなかった。
「ごめんなさい」と私は言った。
澪はその言葉を、受け取らなかった。受け取らないまま、目を伏せた。
「借りているつもりの服は、お返しします」
「返さなくて」
「そういう問題ではないんです」
いつもと同じ言葉だった。いつもと同じようには、終わらなかった。澪は頭を下げて、人のあいだへ戻っていった。
二月に澪が用意してくれた席に、私は座らなかった。その席は、もうどこにもなかった。
*
廊下で、一臣に会った。
深夜だった。星の間の灯りは消されていて、廊下の端の洋燈だけがついていた。彼は柱に手をついて立っていた。
「一臣さん」
「天導さん」
彼は姿勢を直した。
「今日のことは、正しかった。それを言いに来た」
「はい」
「あなたとの婚約は、続けられない」
私は頷いた。分かっていた。
「あの婚約は、父の計画の最後の一手だった。本家の血を持つ娘と、分家の息子を結ぶ。それで乗っ取りが仕上がる。私はそれを知らずに、あなたに、嫌なら断れると言った。同じ形のまま続けたら、私は父の仕事を仕上げることになる」
「はい」
「明日から、商会の帳簿を全部開く。本家から分家の商会へ流れた金がどこへ行ったか、誰かに調べられる前に、自分で調べる」
一臣は、少し言葉を切った。
「父の机を開けたのは、あなたに頼まれたからだ。叔父上の居所を探してくれと。頼まれなければ、私はあの紙を見つけなかった」
私は顔を上げた。
「それだけは、言っておく」
彼は「では」と言って、行った。角を曲がる前に、一度こちらを見た。それだけだった。
十三の庭で、駆け落ちしてください、と言ったのを思い出した。……は? と言われたのを。
今夜は、言わなかった。
*
私は星の間に戻った。
誰もいなかった。割れたグラスは片づけられていた。四十三の時計のうち、動いている十九だけが鳴っていた。
椅子に座った。黒い裾が重かった。髪の星を外そうとして、手を止めた。
何も考えないようにしていた。考えれば、今日一日のことが、どれも自分の八年のどこかにつながってしまう。
そのとき、目の前に文字が浮かんだ。
私は何もしていなかった。目も閉じていなかった。タイトル画面を思い浮かべてもいなかった。七年のあいだ、何度呼んでも出てこなかったものが、呼んでもいないのに、そこにあった。
つづきから
はじめから
やめる
私は息を止めた。
暗い星の間に、三行だけが浮いている。手を伸ばしても触れない。目を閉じても消えない。十九の秒針の音が聞こえる。世界は止まっていない。廊下の遠くで、誰かが扉を閉める音までする。
ゲームで、何百回も見た画面だった。エンディングの歌が終わって、画面が暗くなったあとに出る。物語が終わったあとに。
終わったのだ、と私は思った。この身体で過ごした私の八年は、ここで終わった。
「つづきから」に意識を向けた。
このまま続けます。
それだけだった。この夜の続き。母のいない家、停止された権限、返される青い服、婚約のない春。
「やめる」に意識を向けた。
このゲームを終了します。
二度と再開できません。
よろしいですか?
それだけだった。
帰れる、とは書いていなかった。元の部屋へ、とも。六畳の部屋も、充電したままのゲーム機も、北原さんも、麻辣の店も、この三行のどこにも出てこない。終了する、とだけある。終了したあと、私がどこにいるのかは、どこにも書いていない。
私は、しばらくその行を見ていた。手が冷たかった。
「はじめから」に意識を向けた。
最初から始めます。
やり直しは一度だけです。
最初から。
どこからだろう、と思った。
頭のどこかに、数が一つ浮かんだ。三十一日。罫線のノートの夢の人が、事件の三十一日前の朝に戻って、そこから一か月で全部をひっくり返していた気がする。舟屋で目を覚まして、時刻表を作って。
三十一日前じゃ足りない。
事件は、四歳の八月だった。三十一日前に戻っても、この子は四つだ。母の帳面の四月の薬は、もう始まっている。
四歳。……もっと前。
三村の封書は、三つの十二月だった。百合子さまが亡くなったのは、二つの冬だった。蘆田先生が帝都にいなかったのは、この子が一つの年だった。
もっと前。
この身体の最初から、ということだと思った。この子が生まれるところから。
十四年前の湖より前。宗一郎がまだ生きているとき。百合子さまが、まだ病の見つかる前のとき。恭介さんがまだこの家にいるとき。小野弥吉が鋸の痕を見つける前。お絹さんが台所へ行かされる前。
零歳。首も据わらない。喋れない。歩けない。泣くことしかできない時間が、何年も続く。あの時間を、大人の意識のまま過ごす。想像しただけで、背中が冷えた。それに、戻ったからといって事件を変えられる保証はどこにもない。この画面は「変えられます」とは言っていない。「始めます」としか言っていない。
それに、最初からへ行けば、ここで過ごした時間は、どこにも残らない。栗饅頭のはんぶんこも、夕立の傘も、市場の手首も、窓際の席のくしゃみも。最初からの世界で私が会う澪は、まだ一つの赤ん坊で、私を知らない。慎さんは五つで、早瀬さんは八つだ。取り戻しに行くのではない。ここでのことは、ここで失う。そう思うと、息が浅くなった。
それでも、と私は思った。
あの背広の肩の縫い目が合っていない人が、九年、事務に手紙を訊きに行っていたということ。台所へ行きましたと言って泣いた人。桟橋で鋸の痕を見つけて、誰にも言えないまま病気で死んだ人。栗饅頭を半分こだと言って娘に渡していた人。そして、私が一度も会ったことのない人。写真の中で、少しだけ笑いかけている人。気が早い、と自分で書いた人。
その全部が、もう終わったあとだ。私が八年かけてやったのは、終わったあとの片づけだった。片づけすら、うまくできなかった。
最初からなら、会える。生きている宗一郎に会える。恭介さんに、あの背広を着る前の彼に会える。お絹さんに会える。小野弥吉に会える。彼らが死ぬ前に、追われる前に、泣く前に、会える。
それから、この子。
十歳の朝、喉に言葉の尻尾だけを残していった子。生まれてこなければ、と言ったのかもしれない子。最初からなら、この子が生まれる前から、私はいる。生まれてきた日から、この子の隣にいられる。何ができるのかは分からない。分からないけれど、十歳の朝よりは、前だ。
そして――これは、私が私のために言うことだ。
私も、もう一度暮らしたい。
この八年、私はここが好きだった。朗読を三度目でうまく読めた日が好きだった。菓子屋で「行きます」と言えた日が好きだった。饅頭を半分こにした日が好きだった。私はそれを、事件の前から、もう一度やってみたい。今度は、隠さずにやってみたい。
自分を全部捨てて誰かを救いに行く、という気持ちではなかった。私はそんなに立派ではない。
それから、もう一つ。
今度は、待たない。
出す時期を選べると思っているあいだ、私は一度も選ばなかった。三人が動くと言ってくれたから、私は動かなかった。澪が席を用意して待っていてくれたのに、私は座らなかった。もう遅い、と自分に言うたびに、私は楽になって、何もしなくなった。
次は、分かった瞬間に動く。怖くても、服も会話も三回目のことも考えずに、一回目で言う。
――私も、今度は。
そう思って、私は選んだ。
最初から始めます。
やり直しは一度だけです。
はい。
十九の時計の音が、遠くなった。