星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第七章 七夜の花(1/2)

第七章 七夜の花

 最初にあったのは、圧力だった。

 全身が締めつけられて、頭が押し出される感覚。ただしそれは、私が経験しているのではなかった。もう終わったことの余韻として、身体の側に残っていた。私はその余韻の中へ、あとから入った。

 肺に何もなかった。

 息を吸おうとした。吸えなかった。喉が詰まっているのではない。動かし方が分からない。この身体は、まだ一度も息を吸ったことがない。

 水の外の空気が、皮膚に触れて冷たかった。誰かが私を逆さに持ち上げた。背中を叩かれた。誰かが指を口に入れた。声がした。遠い。

「息をしていません」

「先生」

「湯を」

 ――吸え。

 私は自分に命令した。命令の意味を身体が知らなかった。

 どのくらいそうしていたか、私には分からない。中にいると、時間ではなかった。

 誰かが私の胸を指で押した。押されたはずみに、肋のあたりが動いた。動いた場所を、私は掴んだ。掴んで、引いた。

 空気が入った。

 入った瞬間、私は泣いた。泣こうと思ったのではなかった。空気が通ると、この身体は勝手に泣くようになっていた。声が出るというより、身体全部が音になる。喉が焼けるように痛かった。

 部屋の中で、誰かが「あああ」と声を上げた。誰かが泣き出した。金盥の音がした。

「戻ってきた」

 女の人の声だった。かすれていて、力がなかった。

「戻ってきました。奥様、お嬢様です。息をしております」

「三分だ。よく戻った」

 男の人の声がした。落ち着いた声で、少し息が上がっていた。

「戻ってきた」

 もう一度、女の人が言った。

 私は目を開けようとした。開いたが、何も見えなかった。白い明るさと、黒い影の塊があるだけだった。

 布に包まれた。誰かの腕の中へ移された。

 その人の匂いがした。汗と、血と、髪油の匂い。そのもっと奥に、香の匂いがあった。

「瑠璃」

 その人が言った。

 天導藤乃。二十四歳。

 前の人生で私が知っていたのは、三十四歳からのこの人だった。十二歳の私に珈琲の淹れ方を教え、十八歳の夜に星の間で私を見た人。そして、この日から四年と四か月後の夏に、四歳の娘へ薬を飲ませる人。

 いま、この人は、私の頭のてっぺんに顎を乗せて、震えていた。

 私は、この人の腕の中で泣き続けた。

 *

 それからの幾日かは、眠って、飲んで、泣いて過ぎた。口に押し込まれるものが何なのかは二度目に目が覚めたときに分かったが、分かっても、空腹のほうが羞恥よりずっと強かった。おむつが濡れても止められず、止められないものを誰かが開いて、拭いて、替えた。目は白い明るさと影の塊しか映さない。首は持ち上がらない。腕は、動かそうとすると一つの塊のように跳ねる。二十七年と、こちらで過ごした八年。三十五年近い意識が、それを全部、天井を見ながら受け取った。受け取るしかなかった。恥ずかしがっている暇は、すぐになくなった。

 考えなければならないことがあった。

 四歳の八月十五日。

 私はそれを、生まれた日から知っていた。

 前の人生の十八歳の夜に、私は全部を知った。

 母が組み立てて、伯父が実行した。四歳の四月から、母は蘆田医院で「眠れない」と言って薬を受け取っていた。八月十五日の夕方、偽の電報が父を帝都へ呼び出した。四歳の娘は匙で何かを飲まされて、舟屋に置かれた。桟橋の柱は、前もって切られていた。灯籠の夜、宗一郎はその桟橋から落ちた。九月の親族会で、父は血の検査の紙を見せられて、否認の書類に署名し、家を出た。

 その前のことも知っている。

 二歳の冬に、宗一郎の奥様の百合子さんが亡くなる。三歳の十二月に、宗一郎と静子さんの婚約が決まる。同じ月に、宗一郎は母に求められて、自分が死んだときにだけ効く認知の紙を書く。婚礼は、四歳の十月。

 その紙は、宗一郎が静子さんと結婚する前に死んだときにしか、母の望む意味を持たない。だから、四歳の夏だった。

 星の間で三行を見たとき、三十一日前じゃ足りない、と私は思った。四歳。もっと前。

 その「もっと前」に、いま、私はいる。首も据わらない身体で。

 四年しかない。

 四年のうち、初めの一年、私は喋れない。二年目も、たぶんまともには喋れない。三年目に喋れても、三つの子の言うことを大人がどこまで聞くだろう。四年目の夏には、もう終わる。

 それから、もう一つ、知っていることがあった。

 十五のとき、慎から聞いた話だ。百合子さんの病は、早く見つかれば治るものだった。私が一つの年、蘆田先生は遠方に出ていて、帝都に戻ったときには手遅れだった。慎は、自分の父がそれをずっと悔やんでいると言った。

 百合子さんが生きていれば、宗一郎は静子さんと婚約しない。婚約がなければ、あの紙は書かれない。紙がなければ、母には宗一郎を死なせる理由がない。

 最初の手は、そこにある。一歳の年だ。

 私はそれを、順番に並べようとした。一歳の年、蘆田先生。二歳の冬、百合子さん。三歳の十二月、婚約と紙。四歳の四月、薬。八月十五日。

 並べているうちに、乳の時間になった。

 飲んだ。飲むと眠くなる。眠気は、私が抗える種類のものではなかった。三十五年ぶんの意志は、この身体の眠気の前では何の役にも立たない。

 目が覚めると、並べたものの三つ目までしか思い出せなかった。

 私はもう一度並べ直した。並べ直している途中で、おむつが濡れて、泣いた。泣くと呼吸が乱れて、頭の中の順番が崩れた。

 四つ目、五つ目と数えかけて、私はやめた。数えると、残りの少なさばかりが目についた。

 *

 三日目に、私は男の人に抱かれた。

 抱かれた瞬間に、これは下手だ、と分かった。

 腕の角度が悪い。頭が支えられていなくて、後ろへ落ちそうになる。慌てて直される。直したせいで今度は首が前へ折れる。また直される。身体が前後に揺すられて、私は不安で泣いた。

「あああ、すまん、すまん」

 男の声だった。低くて、少し掠れている。

「奥様、これは、どうも、わたしがやると」

「首を、支えて。手のひら全部で」

「はい」

「肘のほうへ寄せて」

「はい」

 直されて、やっと安定した。安定すると、私は泣きやんだ。

 その人の胸は硬くて、広かった。私の背中に回った手の指が太い。服の生地が厚くて、少し油の匂いがした。機械の油だ。この人は毎日、船を作る場所にいる。頬のあたりに、ざらりとしたものが当たった。剃り残しの髭だった。

 天導恭介。三十一歳。

 前の人生で、私はこの人を写真帖の中で見た。日に焼けた顔で、作業着の襟がよれていて、笑い方が下手だった。娘が四歳の夏に湖で電報に呼び出され、九月に否認の書類に署名して、南浦へ行った人。十八歳の夜に、肩の合わない背広を着て、星の間の後ろに立っていた人。

 いま、この人は、生まれて三日の赤ん坊を落としそうになって、汗をかいている。

 しばらくして、産婆が来て、私を取り上げた。

「旦那様、少し休まれては」

「ああ」

 私は産婆の腕の中から、その人のほうを見た。まだ、はっきりとは見えない。大きな影と、明るさの差だけだ。

 その人は、手を、そのままの形で持っていた。

 私を抱いていた形のまま、腕を胸の前に置いて、しばらくそこに立っていた。中身がなくなった腕を、下ろさずにいた。

 その形を、私は知っていた。

 十八歳の夜、星の間の後ろに立っていた人が、あのとき同じ姿勢をしていた。誰も抱いていない腕を、身体の前に置いて。

 この人は、娘を失う人だ。

 前の人生では四年後に、この人は娘を失った。娘は死なないが、この人からは取り上げられる。

 私は、この人をここに残したいと思った。

 宗一郎を死なせない、という計画の一項目としてではなく、この、抱き方の下手な人を、この家に残しておきたいと思った。

 *

 五日目、産婆が帰る日に、彼女は母にこう言っていた。

「息をなさらなかった子は、あとから追いつきます。慌てずに」

「はい」

「蘆田先生がおいでで、ようございました。あの先生でなければ、どうなっていたか」

「ええ」

「泣き声がしっかりしておいでですから、大丈夫でございます」

 あの落ち着いた男の声は、蘆田先生だったのだ。私の胸を押した指は、あの人の指だった。

 慌てずに、と私は頭の中で繰り返した。

 慌てずに、と言われても。

 私は、その「大丈夫」のほうだけを、自分に言われたことにして聞いた。

 *

 七日目の夜に、七夜の祝いがあった。

 私は襖を開け放った座敷の、真ん中の布団に寝かされていた。目はまだよく見えない。人の輪郭が四つ、五つ。声で誰かを見分けるしかなかった。

 産婆がいた。母がいた。恭介がいた。

 もう一人、いた。

「宗一郎様がお見えです」

 その声を聞いたとき、私の中で何かが跳ねた。

 仏間の写真でしか見たことのない人。前の人生で私が目を覚ましたときには、もう六年前に亡くなっていた人。

 その人が、畳を鳴らして入ってきた。細長い影だった。背が高くて、身体が薄い。

「藤乃。おめでとう」

 声は、思っていたより高かった。柔らかい。人を追い詰めない喋り方をする人の声だった。

「宗一郎さま」

「恭介君も。よく無事で」

「はい」

「三分と聞いた。蘆田が言うには、あれで戻る子は珍しいと」

 宗一郎は布団の横に膝をついた。私を覗き込んだのだと思う。私の視界の上半分が、暗くなった。

「小さいな」

 彼は言った。

「名前だが」

 彼は懐から紙を出した。紙を広げる音がした。

「藤乃に手紙で書いたとおりだ。女の子なら瑠璃。瑠璃丸の瑠璃。あの船は初代が乗って、初代が沈めなかった船だ。父が生きていれば、船の名を人につけるものではないと言っただろう」

 紙に何か書く音がした。

「これを命名紙とする」

 それから、彼はもう一つ、懐から出した。

「これも渡しておく」

 小さな、固いものが、私の枕元に置かれた。

「銀の星だ。生まれる前に注文した。裏に彫らせてある」

 母が「まあ」と言った。

「まだ男か女か分からないうちに、彫らせたのですか」

「気が早いのは昔からだ」

 私の枕元に置かれたそれを、私は見ることができなかった。でも、私は知っている。六つの角を持つ、掌に隠れるほどの星。裏に「瑠璃へ」。前の人生では十八歳の夜、母がそれを私の髪に留めて、私は星の間へ降りた。

 ――何も、変わっていない。

 時間を巻き戻しても、この星の裏の文字は同じだった。

「ありがとうございます」と恭介が言った。

 彼の声は、部屋の隅から聞こえた。

「あの、ありがとうございます。あの」

 言葉が続かなかった。

 彼はもう一度、「ありがとうございます」と言った。

 それから、こう言った。

「あの、わたしも、一字、足させてもらえませんか」

 部屋が、静かになった。

 畳の擦れる音がした。誰かが姿勢を変えた。

「恭介さん」

 母の声だった。低い声だった。

「宗一郎さまがお決めになったものです」

「はい」

「あなたが口を出すことでは」

「はい」

 彼はそう答えた。答えて、それでも続けた。

「あの、三分、この子は息をしませんでした」

 声が震えていた。

「わたしは、廊下におりました。中で先生が湯を、と言うのが聞こえて、それから、誰も何も言わなくなって。わたしは、廊下で、立っておりました」

 彼は言葉を探していた。探して、見つからないまま喋っていた。

「そのとき、わたしは、この子を呼べませんでした」

 私は、白い明るさの中で、その声を聞いていた。

「名前がまだ決まっておりませんでしたから。息をしてくれと言うにも、呼ぶ名前がない。それで、ただ、あの、立っておりました」

 誰も何も言わなかった。

「この子は息をしました。それで、わたしは、これからこの子が庭で走るところを見たい。走って、転んで、笑うところを見たいと思いました」

 彼は一度、息を吸った。

「花の字を、いただけませんか」

 沈黙があった。

 長い沈黙だった。

 宗一郎が「ふむ」と言った。

「花」

「はい。あの、大それたことを申しました。取り消します」

「いや」

 宗一郎はそう言って、また黙った。

 私は、彼が何を考えているか分からなかった。この人は決めない人だ。十二歳の夏、母は珈琲を淹れながらそう言った。決めないことで人を待たせる人だ、と。

「瑠璃花」

 彼は言った。

「るりか。……語呂は悪くない」

「宗一郎さま」と母が言った。

「藤乃。恭介君はこの子の父だ」

 その一言で、部屋の空気が変わった。

 母は何も言わなかった。

「瑠璃丸の瑠璃に、花を足す。船に花か。悪くない。船首に花を彫る国もある」

 宗一郎は紙を引き寄せた。筆の音がした。

「天導瑠璃花。これでいい」

 産婆が「よいお名前です」と言った。声が明るかった。彼女は本当にそう思ったのだと思う。

 恭介は、何度も頭を下げているらしかった。畳の擦れる音が、何度もした。

「ありがとうございます。ありがとうございます」

「そう何度も下げるな」

「はい」

 母は、そのあいだ、一度も声を出さなかった。

 私は母の顔を見ることができなかった。でも、母がそこにいて、黙っていることは分かった。

 宗一郎が選んだ「瑠璃」は、船の名で、本家の名だった。そこへ、夫が一字足した。母は反対して、通らなかった。「恭介君はこの子の父だ」と言ったのは、宗一郎だった。

 母は結局、こう言った。

「瑠璃花。……はい」

 その「はい」を、私は覚えている。

 *

 人が座り直して、酒が運ばれてきた。

 恭介が、私のそばへ来た。

 彼は膝をついて、私の顔を覗き込んだ。視界の上半分が暗くなった。

「瑠璃花」

 彼は言った。

 私の身体が、跳ねた。

 跳ねてから、私は自分が何をしたのか分かった。

 ――返事をしようとした。

 るりか。

 それは私の名前だ。二十七年、私が呼ばれてきた名前だ。母がそう呼び、学校の先生がそう呼び、会社の人がそう呼び、北原さんが「瑠璃花さん、辛いの平気でしたっけ」と打ってきた、あの名前だ。

 漢字まで同じだった。瑠璃花。

 前の人生の八年、この身体は瑠璃だった。誰も瑠璃花とは呼ばなかった。私は八年、自分の名前を一度も聞かなかった。

 私の喉が、勝手に鳴った。

 声を出そうとして、出せなくて、そうしたら涙が出た。この身体の涙腺は、私の意思とは関係なく働く。目尻から耳のほうへ、熱いものが流れた。

「おお、おお」

 恭介が慌てた。

「泣くな、泣くな。瑠璃花。瑠璃花」

 彼は名前を三回呼んだ。呼ぶたびに、私はもっと泣いた。

 この人は、私の名前を知らない。

 当たり前だ。この人は、私が別の世界から来たことも、私が二十七歳であることも、何ひとつ知らない。この人が「花」を足したのは、この子が庭で走るところを見たかったからだ。それだけだ。

 これは偶然だ。

 私はそう自分に言った。言いながら、涙が止まらなかった。

 ――誰かが、私を呼んでいる。