星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第七章 七夜の花(2/2)

 呼ばれた気がした。この子の名前としてではなく、私の名前として。だから私はここに来たのだろうか、と一瞬だけ思って、その考えはそこで止めた。答えの出る問いではなかった。

 この名前は、天導瑠璃花という別の子についた名前だ。私はそれを、あとから借りて聞いている。

 全部わかっていて、私は嬉しかった。

 嬉しかった、というのが、まず最初にあった。理屈はそのあとに来た。

 恭介が私を抱き上げた。今日はもう、少し上手になっていた。首が落ちなかった。

「瑠璃花。父さんはな、名前をつけたのは初めてだ」

 彼は誰にともなく言った。

「船には名前をつけたことがある。人は初めてだ」

 *

 夜が更けて、人々が下がった。

 私は揺りかごに寝かされていた。灯りが一つ残っていた。

 母が来た。

 母は揺りかごの縁に手をかけて、しばらく黙っていた。それから、低い声で話し始めた。

「瑠璃」

 母は、花を足さなかった。命名紙には瑠璃花と書かれ、さっき母自身も「はい」と言ったのに、揺りかごの前で母が呼んだのは、宗一郎がつけた名前だけだった。

「瑠璃、というのはね。本家の船の名前なの」

 私は目を開けていた。

「初代が乗った船。この家で一番古い名前。あなたのお父様が――宗一郎さまが、あなたにその名をくださった。あなたはそれを持って生まれてきたの」

 母の指が、揺りかごの縁を撫でた。

「私も兄も、天導の名を持っています。でも、三代前の養子から続く分家には、初代の血がありません。私にはない血が、あなたにはある」

 母は少し笑ったようだった。

「いつか、あなたがこの家の本家になる日が来ます」

 私の背中が冷たくなった。

 本家になる日。

 前の人生で、この子が本家の跡取りになったのは、四歳の九月だった。宗一郎が桟橋から落ちて、ひと月あとの親族会で。

 この人は、もうその形を頭の中に持っているのだろうか。生まれて七日の娘の揺りかごの前で。

「おやすみ、瑠璃」

 母は揺りかごを軽く揺らした。

 揺れは優しかった。手つきに乱暴なところは一つもなかった。

 私は、その揺れの中で考えていた。

 同じ夜だ。

 父が「花」を足した夜と、母が「本家になる日」を語る夜が、同じ夜だ。私はこの二つを、別々の日に受け取ることができない。両方、今日だ。

 *

 母が下がって、灯りが小さくなった。

 私は暗い天井を見ていた。見えるのは、灯りの滲んだ丸だけだった。

 三分、と宗一郎は言った。三分、呼ぶ名前がなかった、と父は言った。

 前の人生で、フミは、この子は生まれてすぐに泣いたと言っていた。産婆さんが笑っておられた、と。前の人生の七夜には、廊下で三分立ち尽くした父はいなかったのだと思う。だから父は花を足さなかったし、この子は十八年間、瑠璃のままだった。

 今度は、三分があった。父はその三分を廊下で過ごし、怖さのあとで、庭で笑うところを見たいと願って、一字足した。

 だとすれば、この世界で最初に変わったことは、私がしたことではない。私はまだ何もしていない。泣いて、乳を飲んで、眠っただけだ。名前を変えたのは、息のなかった三分と、その三分を廊下で過ごした父の怖さだった。

 なぜ前の人生になかった三分が、今度はあったのか。私があとからこの身体に入ったことと関係があるのかどうか。答えは出なかった。出ないものを、私はそのまま置いた。

 四年しかない、と昼に思った。一歳の年、蘆田先生。二歳の冬、百合子さん。三歳の十二月。四歳の四月。八月十五日。並べようとして、並べる前に、別のものが先に浮かんだ。

 瑠璃花、と呼んだあの人の声だった。

 私は、それが順番を間違えていることに気づいた。宗一郎を死なせない計画のほうが先でなければいけない。四年後の八月十五日を止めたい。あの人を追い出させたくない。それは本当にある。

 でも、いま、私の中でいちばん先に来ているのは、そんなに立派なものではなかった。

 名前を、もう一回呼んでほしい。

 明日の朝も、あの人は来るだろうか。

 眠気が来た。抵抗する方法はない。私はそれに負けながら、四年の順番を三つ目まで並べて、そこでやめた。