星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第八章 揺りかごの話(1/2)

第八章 揺りかごの話

 三か月で、目が見えるようになった。

 正確には、輪郭がぼやけなくなった。人の顔が顔として見える。誰が誰かが分かる。天井の木目が追える。それだけのことが、私にはとても大きかった。

 最初にちゃんと見たのは、母の顔だった。

 細い人だった。抱かれていると、顎の線が上のほうに遠い。背が高いのだ。目が切れ長で、目尻が少し上がっている。十歳の朝、鏡の中で見た私の目と、同じ形だった。着物は、藤色の地に白い花を散らしたような、明るいものを好んだ。抱かれると、髪油の下から香の匂いがした。

 二十四歳の母は、私の知っている母より頬が丸かった。

 見えるようになって気づいたのは、自分が人の口ばかり見ているということだった。

 声だけでは、この家の誰が何を言っているのか掴みきれない。誰の口が動いたかを見れば、話者が分かる。私は無意識にそれをやっていた。

 母が私を抱いて、庭を見ながら女中と話していた。私は母の顎の下から、母の口を見上げていた。

 母が、途中で黙った。

 私を見た。

 目が合った。

 私は――しまった、と思った。思ったときには遅かった。赤ん坊は、目が合ったら笑うか、そらすか、泣くかする。私はどれもせず、母の口を見つめ返してしまった。

「……瑠璃」

 母は私の顔を、正面から覗き込んだ。

 私は今度こそ目をそらした。そらし方が遅かった。

 その日から三日、母は私の前で喋らなくなった。

 抱く。乳を飲ませる。おむつを替える。全部する。何も言わない。歌わない。「よしよし」も言わない。無言で、丁寧に世話をする。

 三日目の夜、私は試した。

 母が私を抱いたとき、私は目を閉じた。閉じて、眠ったふりをした。首の力を抜いて、口を少し開けた。

 しばらくして、母が話し始めた。

「今日はね、庭の梅を切ったの。切りすぎたと女中頭が言うのだけれど、あれくらいでいい」

 私は目を閉じたまま聞いていた。

 この人は、私が見ていないときには喋る。

 この人にとって、私はまだ人間ではないほうがいい。人間になった瞬間に、この人は口を閉じる。

 その二日後、お絹が私を抱いた。

 お絹は十八の女中で、この春に入ったばかりだった。小柄で、丸い顔で、よく笑う。笑うと目がなくなる。いつも前掛けをしていて、前掛けからは糠と石鹸の匂いがした。彼女は私を抱くとき、必ず自分の顔を私の顔のすぐ前に置く。

 私は、彼女の口を見た。

 お絹は、私が口を見ているのに気づいた。気づいて、こう言った。

「あー」

 口を大きく開けて、はっきりと。

「あー。あーって言うんですよ。お嬢様。あーあー」

 彼女は私の視線に合わせて、口の形を作ってみせた。

「うー。うーうー。ほら、口が違いますでしょう」

 私は嬉しくなって、手足をばたつかせた。ばたつかせたのは、私が動かしたのではない。この身体が勝手にやった。でも、そのとき私は本当にばたつかせたかった。

「わあ、喜んだ」

 お絹は私を抱き直して、部屋中を歩き回った。

 同じことをして、母は三日黙り、お絹は口の形を教えてくれた。

 *

 眠ったふりは、そのうち私の仕事になった。

 母は、夜、私が眠ったと思うと話をした。揺りかごの縁に手をかけて、低い声で。梅の枝のこと、客のこと、兄のこと。それから、いちばん長く、宗一郎のことを。

 私は、聞くつもりで聞いていた。

 四年後の夏の形が、この人の頭の中のどこかにあるなら、それを拾いたかった。いつ思いついたのか。誰と話したのか。どこまで決めているのか。星の間で知ったことの、始まりのほうを、この耳で確かめたかった。

 なかった。

 ひと月聞いても、ふた月聞いても、母の話の中に、湖も舟屋も薬もなかった。

 あったのは、別の話だった。

「百合子さまが、また臥せっておいでなの」

 ある夜、母はそう言った。

「今年の冬は、ずっと。宗一郎さまは、朝と晩に、必ずお部屋へお顔を出されるのですって。お忙しいのに」

 母の指が、揺りかごの縁を撫でていた。

「お優しい方なの。お優しすぎて、決められない。お身体の弱い奥様を、置いてどこへも行けない方」

 しばらく、揺りかごが揺れていた。

「でも、いつか」

 母は言った。

「いつか、宗一郎さまが選んでくださる。あなたと、私を。そうしたら、あなたは本家の娘。瑠璃丸の瑠璃。誰にも分家の子だなんて言わせない。あなたのお父様が、あなたを自分の子だとおっしゃる日が来る」

 声は、夢の話をするときの声だった。

「待つのは、慣れているの」

 母は、少し笑った。

「……こんなことを考えては、いけないのにね」

 それが何のことなのか、母は言わなかった。言わずに、揺りかごを揺らした。

 本家になる日、と母が言うのは、これのことだった。

 宗一郎が死ぬ日ではない。宗一郎が、自分と娘を選ぶ日だ。

 私は目を閉じたまま、息をしていた。

 前の人生で、私はこの人の、待っているところを一度も見なかった。十歳から十八歳まで、私が見たのは、もう待つのをやめた人だった。十二歳の夏、珈琲を淹れながら、百合子さんが亡くなっても選ばれなかった、と言った人。その声には恨みしかなかった。

 十八歳の夜、三村弁護士の封書の中で、私は母の手紙を読んだ。宗一郎に宛てた手紙だった。せめて亡くなったときに効く紙を、と書いてあった。私はもう待ちません、と書いてあった。

 もう、ということは、その前は待っていたのだ。

 私はその一行を読んだのに、その前のほうを一度も考えなかった。

 この人は、待つ人だった。

 私はそれを、揺りかごの中で初めて知った。

 待つ人の待ち方なら、私は少し知っている。次はぜひ、と送って、次を自分からは作らない。相手が決めてくれるのを待つ。待っているあいだは、何も壊れない。何も始まらない代わりに。

 母は、それを三歳の十二月まで続ける。そして、やめる。

 やめた人がどうするかを、私は知っている。

 *

 四か月のころ、夜泣きがひどくなった。

 私は泣きたくて泣いていたのではない。夕方になると腹のあたりが張って、身体が勝手に泣く。止め方が分からない。夜中に三度も四度も起きる。

 ある晩、母が匙を持ってきた。小さな器と、茶色い小瓶を盆に載せていた。

「糖蜜です」と母は言った。開いた襖のところに、お絹が控えていた。

「私が小さいころ、母がこうしてくれたの。泣きやまない子には、これを少しだけ。朝までよく眠るから」

 母は小瓶を傾けて、器の糖蜜に何滴か落とし、匙でかき混ぜた。

 匙が唇に当たった。甘い匂いがした。

 私は口を開けた。開けてしまった。この身体は甘い匂いに勝てない。

 舌に載った瞬間、私はそれを吐き出した。

 甘さの下に、苦いものがあった。舌の奥のほうが、じん、と痺れるような苦さだった。私は顔を背けて、口の中のものを全部押し出した。頬から首へ、生温かいものが流れた。

「あら」

 母は布で私の顎を拭いた。

「いやなの」

 母はもう一度、匙をすくった。

 私は首を横に振った。振ったつもりだった。実際には頭が左右に揺れただけだと思う。それでも、母の手が止まった。

「変な子ね」

 母は匙を器に戻した。

「甘いのに」

 母は顎を拭いた布をお絹に渡し、下で洗ってくるよう言った。お絹が頭を下げ、足音が階段を下りていった。

 母は私を抱き上げて、揺らした。

「眠ってしまえば、怖いことは何もないのよ」

 子守唄の声だった。

 私は動かなかった。

 匙。糖蜜。茶色い小瓶。

 四年後の八月十五日、この人は、同じ匙で、四歳の娘を眠らせる。眠った娘を、舟屋に置く。

 その匙が、いま、ここにある。

 この人はいま、何も企んでいない。夜泣きの子を眠らせたいだけだ。自分の母親にそうしてもらったとおりに。

 だから、怖かった。

 四年後の匙は、四年後に思いつかれたものではない。この人の手が、ずっと前から知っているものだった。

 母は十分ほど私を揺らして、それから、揺りかごへ戻した。戻す手つきは丁寧だった。私の頭を最後に支えて、そっと離した。

 母が出ていってしばらくして、私はまた泣いた。

 今度は、私が泣いた。

 足音がした。

「おう、おう、どうした」

 恭介だった。

 彼は私を抱き上げた。四か月経って、彼の抱き方はずいぶん良くなっていた。左手が首の後ろに来て、右手が背中を包む。安定していて、揺れの周期が一定している。

 私の身体は、その揺れで泣きやんだ。

 泣きやんでしまった、と私は思った。

 私はいま、四年後の匙を見たばかりだ。それなのに、この身体は、抱かれた瞬間に安心してしまう。心臓が落ち着いて、手足の力が抜けて、瞼が重くなる。

 私は、自分の身体に裏切られている気がした。

 同時に、それが救いだった。

 元の世界で、私は夜中に目が覚めても、誰も来なかった。誰かに来てほしいと思ったこともない。そういうものだと思っていた。

 ここでは、泣けば誰かが来る。この差は、私が思っていたより、はるかに大きい。

「腹が減ったか。おむつか。どっちだ」

 恭介は真面目に私の顔を覗き込んだ。

 灯りの下で見ると、この人は大きかった。肩が厚くて、首が太い。顔も腕も日に焼けていて、顎に無精ひげが伸びかけている。私の背中に当たっている指は、一本一本が私の手首くらいあった。

「父さんには分からん。すまん」

 彼はそのまま、部屋を三十周くらい歩いた。私は途中で眠った。

 *

 九月、宗一郎が来た。父が、造船所の夜の当番で帰れないと言って出た晩だった。

 昼間ではなかった。夜だった。玄関からではなく、庭から入ったらしい。私は母の部屋の隅の揺りかごにいて、灯りは落とされていた。

 私は目を閉じた。目を閉じているほうが、この家では話が聞ける。

「百合子さまのお加減は」

 母の声だった。

「変わらない。変わらないのがいちばん良い、と蘆田は言う」

「そう」

 衣擦れの音がした。

「藤乃。私は、百合子を置いては行けない」

「存じております」

「あれは、身体のことで、ずっと肩身の狭い思いをしてきた。子ができないのも、あれのせいではない。私が離縁すれば、あれは帰るところもない」

「存じております。宗一郎さまは、そういう方ですもの」

「すまない」

「謝らないでください」

 沈黙があった。

「親族会が、一臣を養子にと言っている」

 宗一郎が言った。

「貞光君だ。私は、否とも応とも言っていない」

「瑠璃がいるのに」

「……あの子は、恭介君の子だ。そう届けた」

 母は何も言わなかった。

「私は、決めるのが下手だ。それは知っている」

「知っています」

 母の声が、少しだけ笑った。

「ですから、待ちます」

「藤乃」

「待つのは、得意ですから」

 また沈黙があった。

 私は目を閉じたまま、聞いていた。

 この二人は、いま、互いを好きなのだと思う。少なくとも母のほうは間違いなくそうだ。声の温度が違う。母がこの声で喋る相手を、私は他に知らない。

 前の人生では、この声の人が、この声の相手を死なせる側に回った。

 私は自分の指を握った。この身体の指は、握るか開くかしかできない。

 今夜の母は、殺す話をしていない。待つと言っている。

 待つと言った人が、どこで待つのをやめるのか。

 私はその日付を知っている。

 *

 十月、天導貞光が来た。

 応接ではなく、母の居間に通された。私はまた隅にいた。

「一臣の件だが」

 貞光の声は、十八年後と同じだった。よく通る。

「親族会の三人には、もう話してある。百合子さんに子ができんのは、もう誰の目にも明らかだ。万一の折は、一臣を本家の養子に入れる。宗一郎も、否とは言わん」

「兄様」

「あれは、何も言わん男だ。言わんことは、否とは違う」

 母が黙った。

「本家のことは、本家に決めていただくものでは」

「決めんから、こちらで整えてやるんだ」

 貞光は茶を飲んだ。

「お前も、本家には出入りを控えろ。一臣の話が固まるまで、妙な波風を立てられては困る」

 母は、しばらく黙っていた。

 私は、母が反論するのを待っていた。

 母は、こう言った。

「……はい」

 貞光は茶を飲み終えて、帰った。

 玄関の戸が閉まる音がして、しばらくしてから、母が揺りかごのそばへ来た。

 私は目を閉じていた。

「一臣さんではありません」

 母は、ほとんど声にならない声で言った。

「あなたです」

 それから、揺りかごを一度だけ揺らして、出ていった。

 私は、天井を見ていた。

 前の人生で、伯父は、事件のあと私の後見人になった。私が十三になるころには、一臣さんとの婚約を進めはじめていた。

 今夜、伯父は一臣さんを本家の養子に入れる話をしている。十何年か先には、私と一臣さんを結ぶ話をする。一臣さんが跡取りになっても、私が跡取りになっても、本家は伯父の家のものになる。

 いちばん先に動いていたのは、伯父のほうだった。

 そして母は、兄に「はい」と言って、兄が帰ったあとで、娘にだけ「あなたです」と言う。

 この兄と妹が、四年後に一緒に何かをする。そのことを、私はまだうまく想像できなかった。

 *

 同じころ、宗一郎が昼間に来た。

 こちらは隠れて来たのではなかった。玄関から入って、女中頭が茶を出して、母と二人で話をして、それから座敷に来た。

 私は、この人を初めてちゃんと見た。

 痩せていて、背が高い。座ると膝が高く出る。顔は穏やかで、目尻に笑い皺があった。二十八だと聞いていたが、こめかみのあたりの髪に、もう白いものが混じっていた。話しながら、懐中時計の鎖を指に巻いたりほどいたりする。その指先だけが、ほかのところより忙しかった。

 仏間の写真より、若かった。当たり前だ。あの写真は、この人が死ぬ少し前のものだ。

 彼は私を抱かなかった。抱き方を知らないらしく、座布団の上の私を上から覗き込むだけだった。

「大きくなったな」

「そうでしょうか」

「七夜のときより重そうだ」

「持ってごらんになれば」

「いや、落とす」

 彼はそう言って笑った。

 それから、彼は私の顔を見て、こう言った。

「瑠璃花」

 私の身体が、跳ねた。

 この人も、その名前を使う。この人がつけたのは「瑠璃」なのに、この人も「瑠璃花」と呼ぶ。

「よく動く子だ」

 彼はそう言った。

「藤乃。この子の目は、私に似ているか」

「さあ」

「似ていないほうがいい」

 母は返事をしなかった。

「百合子が、この子を見たいと言っている」

 宗一郎が言った。

「一つになって、外へ出られるようになったら、一度連れてきてくれないか。あれは、赤ん坊を抱いたことがないんだ」

 母は、少し間を置いた。

「……はい。いずれ」

 彼はそれで立った。

 帰り際、彼は玄関で恭介と会った。

「恭介君。花の字は、よかった」

「はあ」

「私は、あの晩、少し迷った。迷ったのは、断る理由を探したからだ。船の名を大事にしたかった。だが、あれでよかった」

「……ありがとうございます」

「あの子が庭で走るところを、私も見たい」

 彼はそう言って、行った。

 *