星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第九章 左手(2/2)

 母は私を抱きしめた。強く抱きしめた。私の耳が母の鎖骨に当たって痛かった。

 私は母の肩越しに、庭を見ていた。

 いま自分がやったことを、私はごまかさずに確かめた。

 私は、母を安心させるために、左手を押さえて「かあ」と言った。父へ伸びた手を隠して、母のほうへ言葉を渡した。母の機嫌がよければ、この家は静かで、私は話を聞きやすい。

 打算だった。

 同時に、母が笑ったのを見て、私も嬉しかった。それも本当だった。

 私はこの一つのことについて、自分に言い訳をしない。私が母と同じだとか、私が母を欺いた極悪人だとか、そういう大きな話ではない。ただ、私はこの日、そういうことをした。

 *

 一歳の秋の終わりに、恭介が舟を作った。

 手のひらに乗るくらいの、木の舟だった。船体を彫って、帆を紙で作って、爪楊枝の帆柱を立ててある。

「見とれよ」

 彼は庭の盥に水を張った。私は縁側に座らされて、それを見ていた。お絹が後ろにいた。

 彼は舟を水に置いた。

 舟は、置いた瞬間に横倒しになって、沈んだ。

 帆の紙が水を吸って、白いものが盥の底へ沈んでいった。

 沈黙があった。

「……あー」

 彼が声を出した。

 お絹が吹き出した。

「旦那様、船をお作りになる方が」

「言うな」

 彼は盥に手を突っ込んで、舟を拾い上げた。ぐったりした紙の帆が垂れた。

「錘が要る。底に鉛を入れんといかん。分かっとったんだ。分かっとったが、鉛を削るのが面倒でな」

 彼は濡れた舟を持ったまま、私を見た。

「瑠璃花。父さんの計算が悪かった」

 私は笑った。

 声を出して笑った。この身体で、たぶん初めて、腹から笑った。笑いすぎて縁側から落ちそうになって、お絹に支えられた。

「あ、笑っとる。笑うか。父さんの失敗を笑うか」

 彼も笑っていた。

 その日、彼は縁側で鉛を削った。削って、舟の底に埋めて、もう一度浮かべた。今度は浮いた。浮いたが、帆が水を吸って重くなっているので、ゆっくり傾いた。

「明日、紙を張り替える」

「とう」

「ん」

「とう」

「はい、はい」

 夕方の風が出て、盥の水面が揺れた。傾いた舟が、ゆっくり回った。

 これは、私が役に立ったから与えられた時間ではなかった。

 前の人生で、私はこの家の「良い子」を八年やった。良い子でいると、生活が楽になり、人が優しくなる。私はその交換に慣れすぎていた。

 この午後、私は何もしていない。彼の失敗を笑っていただけだ。

 それでも、この午後は起きた。

 私は、母にはこの話をしなかった。まだ話せる口でもなかったが、話せたとしても、しなかったと思う。母に話すと、母は「まあ」と言うだろう。言ったあとで、たぶん何かもう一つ言う。

 言われたくなかった。

 *

 一歳の秋から冬にかけて、お絹が私に言葉を教えた。

 彼女の教え方は、物を持ってきて名前を言う、というだけだった。柄杓。笊。桶。手拭。庭の石。庭の木。

「これは、なんでございましょう」

「いし」

「そう。こちらは」

「いし」

「これも石でございますね。では、こちらは」

「き」

「木でございます。上手」

 彼女は手を叩いた。

 ある日、彼女が茶碗を落として割った。

 欠片が畳に散った。彼女は「ああ」と声を出して、すぐに拾い始めた。

 私は、そこへ這って行こうとした。

「お嬢様、いけません!」

 彼女は私を片手で押し戻して、片手で欠片を集めた。

「割れたものは、触ってはいけません」

「われた」

「はい。割れました」

「おきぬ、いたい?」

 彼女は手を止めた。

「……いいえ、痛くございません」

 彼女は指を見せた。少し切れていた。

「ちょっとだけ」

「ちょっとだけ」

「はい」

 彼女は笑った。

 その夜、私は彼女の指に巻かれた布を見ていた。

 四歳の八月十五日の夕方、この人は、台所へ行くように言われて、行った。前の人生の十八の夜に、この人は「わたくしは、あの晩、台所へ参りました」と言って泣いた。

 行ったのは、この人が弱いからではない。この人には、そのとき、誰も何も頼まなかったからだ。

 今度のあの夏には、この人に、母の匙を止めてもらえないだろうか。

 私は、それをこの冬に考え始めた。

 *

 年が明けて、一月の末に、本家の奥様が倒れた。

 本家から来た佐伯が母に告げるのを、私は隣の部屋で聞いた。

「今朝、お廊下で。すぐに岩井先生が来られたそうですが」

「……そう」

「旦那様が、おそばを離れられないと」

「そう」

 母は、それ以上何も訊かなかった。

 その夜、母は、私の寝床の横に座った。私は一歳九か月で、もう揺りかごには入らない。母の部屋の続きの間に、床を取られていた。

 私は目を閉じていた。

「百合子さまが、お倒れになったの」

 母は言った。

「宗一郎さまが、ずっとおそばにいらっしゃるのですって」

 しばらく、母は黙っていた。

「……いけないわね」

 何がいけないのか、母は言わなかった。

 私は目を閉じたまま、手を握っていた。

 この人はいま、自分の中に浮かんだものを、自分で叱っている。浮かんだことは本当で、叱っていることも本当だった。

 二歳の五月に、蘆田先生が戻った。

 お絹が台所で、女中頭から聞いてきた。

「本家の奥様を診られて、もっと早くに分かっていれば、とおっしゃったそうで。先生、お顔の色が変わっておいでだったと」

「まあ」

「発たずにいて、冬のうちに一度でも診ていれば、と」

 お絹は、私を抱いたまま、それを聞いていた。

 発たずにいて。

 私は、あの人が発つ日に、あの人の袖を掴んでいた。

 *

 二歳の六月、母子の健康検査があった。

 蘆田先生が来て、母と私を診た。血を採るというので、私は身構えた。二歳の身体で針を刺されるのが痛いのは分かっていたが、それより、何の検査かが分かっていた。

 先生の後ろに、七つの慎がいた。

「息子です。見学させております」

「大きくなられて」と母が言った。

 慎は白い前掛けのようなものをつけて、綿と瓶の載った盆を持っていた。手が緊張していて、盆が少し傾いていた。眼鏡が、鼻の上で少しずれていた。

 先生は、一年前より痩せていた。

 私の腕から血が採られた。痛かった。私は泣いた。二歳の身体は、痛ければ泣く。それでよかった。

 慎が綿を差し出した。彼は、押さえるところを間違えて、針の跡より少し下を押さえた。先生が黙って位置を直した。慎の耳が赤くなった。

 片づけのあいだに、先生が母に言った。

「去年、発つ日に、このお嬢様に袖を引かれましてね」

「よく覚えておいでで」

「ええ」

 先生は、鞄の留め金をかけようとしていた。その手が、少し止まった。

 それから、留め金をかけた。

「では、結果は来週」

 先生はそれ以上、何も言わなかった。

 翌週、結果が来た。

 母が紙を見ていた。私は畳の上で積み木を積んでいた。積み木は五個までしか積めない。手の震えのせいだ。

 母は紙を長く見ていた。

 それから、女中頭を呼んだ。

「これは、私が預かります」

「はい」

「蘆田先生には、結構ですとお伝えして」

「はい」

 母は紙を折って、袂に入れた。

 その日の夕方、恭介が帰ってきた。

「検査、どうでした」

「異状ありません」

「そりゃよかった」

 彼はそれで納得した。手を洗いに行った。

 母は、紙を出さなかった。

 私は積み木を六個目で崩しながら、それを見ていた。

 前の人生で父が見せられた紙には、この子はAB型とあった。恭介はO型、母はA型。十八歳の夜に、父自身から聞いた。今回の紙は、母の指に隠れて読めなかった。

 いま、この家で、その紙は母の袂の中にある。

 前の人生では、四歳の九月に、その検査結果が父へ突きつけられた。今度もそうなるとは限らない。そうさせないために、私はここにいる。

 *

 二歳の夏に、二つのことがあった。

 一つは、庭でのことだった。

 夕方、恭介が縁側に座っていた。私はその横で、石を並べていた。石を大きさの順に並べるのが、そのころの私の遊びだった。二歳の指では、これがけっこう難しい。

「瑠璃花」

「とう」

「あのな」

 彼は庭を見ていた。

「お前が生まれる前な、父さんは、月を数えたんだ」

 私は石を置いた。

「奥様が、身重だと分かった月から数えて、いつ生まれるかを数えた。数えて、数えて、それでな」

 彼は言葉を切った。

「途中でやめた」

 蝉が鳴いていた。

「数えるのをやめた。それだけだ」

 彼は何も言わなかった。

 二歳の私には、その意味が分かった。

 彼は数えた。数えて、合わなかった。合わないことに気づいて、それ以上数えるのをやめた。

 この人は、知りたくなかったのだ。知らなければ、この子は自分の子だ。知ってしまえば、この子は自分の子でなくなるかもしれない。だから、途中でやめた。

 数えかけてやめるのは、私にも覚えのあることだった。

 私は石を置いて、彼のほうへ這って行った。這って、彼の胸に額を寄せた。

 彼は、しばらく動かなかった。それから、私の背中に手を置いた。

「すまんな」

 彼は誰に謝ったのか、言わなかった。

 *

 もう一つは、その数日後だった。

 母が私を膝に乗せて、髪を撫でながら、いつもの話をしていた。

 私が眠たげにしていると、母はこの話をした。生まれた夜から、何十回も。揺りかごが寝床に変わっても、母は同じ話をした。

「瑠璃。あなたはね、本家の子です。あなたのお父様は、宗一郎さま。瑠璃というのは、本家の船の名前で――」

 母の指が、私の髪の分け目を行ったり来たりしていた。

「百合子さまは、冬を越せないかもしれないのですって。蘆田先生が、そうおっしゃったそうよ」

 母の指が止まって、また動いた。

「そうしたら、宗一郎さまは……」

 その先を、母は言わなかった。

 その日、私は疲れていた。昼寝を逃していた。母の膝は温かくて、髪を撫でる指の周期は、恭介の揺れと同じくらい眠気を呼んだ。

 口が、勝手に動いた。

「るり、ほんけ」

 母の手が止まった。

 止まって、二秒くらい何も起きなかった。

 私は自分が何を言ったか気づいて、身体を固くした。

 母は、私を膝から下ろした。

 下ろして、正面に座らせて、私の顔を見た。

「いま、なんて言ったの」

「……」

「瑠璃」

「まんま」

 私はそう言った。

 母は動かなかった。

「まんま」

 母は、しばらく私を見ていた。

 それから、立ち上がって、部屋を出た。

 私は畳の上に一人で座っていた。

 ――やばっ。

 あと二年しかないのに。

 二年と、ひと月と少し。四歳の八月十五日まで。そのあいだに、私はやらなければならないことが山ほどある。そのいちばん最初の道具を、いま、自分の口で壊した。

 母は今日から、私が眠っていても喋らなくなる。母にとって、この部屋はもう安全な部屋ではない。

 それから、私は母の顔を思い出した。

 膝から下ろして、正面から私を見た顔。あれは怒っている顔ではなかった。

 怖がっている顔だった。

 母が怖いのは、「ほんけ」ではない。

 分家の娘が大人の真似をして「本家」と言っても、客は笑うだけだ。母が怖いのは、その次の言葉だ。

 あなたのお父様は、宗一郎さま。

 母はその言葉を、生まれた夜から二年、この子の耳のそばで言い続けてきた。眠っていると思って。何も分からないと思って。この子が「ほんけ」を覚えていたのなら、それも覚えているかもしれない。

 この子がいつか、恭介の前でそれを言ったら。客の前で言ったら。伯父の前で言ったら。本家の、死にかけている奥様の枕元で言ったら。

 母の夢は、そこで終わる。宗一郎が母を選ぶ日は来なくなる。母は分家の不義の女になり、この子は分家の不義の子になる。

 母はまだ、何も企んでいない。湖も舟屋も、母の頭の中にはない。

 隠したいのは、娘の父親が誰かということだけだった。

 それだけのために、母はこれから何かをする。

 その夜、母の部屋の灯りは遅くまで消えなかった。