天導ルリカは生まれるのを止めた
第十一章 期限(1/4)
第十一章 期限
その日は、十一月の半ばに来た。
昼過ぎに、母は湯屋へ出かけた。門の閉まる音を、私は自分の部屋で聞いた。
廊下には、たみがいた。
私が部屋を出ると、たみは立ち上がらなかった。膝の上の洗濯物を畳みながら、庭のほうを向いていた。遠くのものが、よく見えない人の向き方だった。私はその背中の横を通った。たみの手は、一度も止まらなかった。
二月に、たみは「遠くのものが、よく見えません」と言った。見ないことにする、という申し出だった。私はそれを九か月しまっておいて、この日に使った。
母の居間に、文箱がある。黒漆の、蓋に蒔絵のある箱だ。母はそこに大事なものを入れている。
私は廊下を這っていった。三歳の私は歩けるが、廊下を歩くと足音が響く。這うほうが静かだ。
母の居間に入った。文箱は違い棚の下の、引出しの中にある。
引出しは重かった。
三歳の腕では、開かなかった。
私は両手で取っ手を掴んで、身体ごと後ろへ引いた。二センチ動いた。もう一度引いた。また二センチ。四回目で、手が滑って、私は尻もちをついた。
息が上がっていた。汗が出ていた。
五回目で、手が入るくらい開いた。
文箱を引き出した。重い。畳に置いた。
蓋を開けた。
中に、紙が何通か入っていた。私は一番上を取った。
この世界の崩し字は、前の人生の八年で少しずつ読めるようになった。読み方は覚えている。けれど、薄暗い棚の下で小さな紙を繰る指がもどかしく、廊下の音がするたびに字の続きを見失った。
二通目に、それがあった。
――藤乃へ。
――私たちの子に、名を考えた。
――男の子なら勝手にせよ、女の子なら瑠璃としたい。瑠璃丸の瑠璃だ。
私は、その紙を掴んだ。
十八歳の誕生日の朝に読んだのは、写しだった。いま、私は原本を持っている。
続きには、銀の星を注文したことも書いてあった。瑠璃、とこの名が選ばれたときの紙だ。
私はその一通を胸に抱えて、文箱を戻し、引出しを閉めようとした。
閉まらなかった。
開けるより、閉めるほうが重かった。私は畳に足を突っ張って、両手で押した。半分閉まったところで、腕が震えて力が抜けた。
時間がなかった。
私はそのまま部屋を出た。引出しは、五センチほど開いたままになった。
自分の部屋に戻って、私は紙を布団の下に隠した。
手が震えていた。
*
夕方、恭介が帰ってきた。
「今日は何だ」
彼は玄関で靴を脱ぎながら言った。
縁側の二つの棚には、半年ぶんの石と花とボタンが並んでいた。父は今日も、そのどれかだと思っていた。
私は両手で紙を持っていた。
「あげる」
「お、なんだ、紙か。……絵か?」
「ちがう」
彼は受け取った。
受け取って、玄関の上がり口に立ったまま、それを広げた。
彼の顔から、表情が消えた。
私は、その顔を見ていた。
彼は手紙を最後まで読んだ。それから、最初へ戻って、二度読み返した。「私たちの子」の一行で、紙を持つ指が止まった。
そのあいだ、私はずっとそこに立っていた。
彼は紙を下ろした。
「瑠璃花」
「うん」
「これは、どこから持ってきた」
「……はこ」
「箱」
「かあさまの、へや」
彼はしゃがんだ。しゃがんで、私と目の高さを合わせた。
叱られると思った。
彼は、叱らなかった。
彼は、私の脇の下に手を入れて、抱き上げた。抱き上げて、上がり口に座って、自分の膝の上に私を置いた。
それから、紙をもう一度、膝の横で開いた。
「……瑠璃、か」
彼は言った。
「女の子なら瑠璃、と書いてある」
私は彼の膝の上で、じっとしていた。
「わしは、あの晩」
彼の声が、掠れた。
「あの晩、この手紙のとおりに名前がついた。わしはそれに、花を足したいと言うた」
「うん」
「わしは、この子はわしの子だと思うとった」
彼の腕が、私の腹のあたりで少し締まった。
「思うとった、というのは、嘘だな」
彼は言い直した。
「分からんかった。分からんかったが、わしの子だと思うことにしとった。それで、名前をつけたいと言うた」
私は何も言えなかった。
三歳の口では言えない、ということではない。三十年を超える口があっても、この人に言うことは何もなかった。
彼はしばらく黙っていた。
それから、立ち上がった。
「これは、返しに行く」
「え」
「元の場所へ返す。奥様の物だ。お前が取ってきた物は、返さんといかん」
彼は私を下ろした。
「一緒に来い」
彼は母の居間へ行って、引出しを開けて、文箱を出して、手紙を戻した。戻して、引出しをきちんと閉めた。閉めると、隙間がなくなった。
これで、母が湯屋から戻っても、引出しには何の跡も残らない。父がそこまで考えて閉めたのかどうかは、分からなかった。
それから、彼は私の手を引いて、自分の部屋へ戻った。
座って、私を膝に乗せた。
彼は、泣いていた。
声を出さずに、目のところだけが濡れていた。彼は袖でそれを拭いた。拭いても、また濡れた。
私は、何もできなかった。
この人の役に立つことを、私は何ひとつ言えなかった。ちがう、あなたの子だよ、とは言えない。この人はもう読んでしまった。あなたは悪くない、とも言えない。それは慰めにもならない。
私は、彼の膝の上にいた。それだけだった。
しばらくして、彼が言った。
「瑠璃花」
「うん」
「お前は、お前だ」
私は顔を上げた。
「誰の子だとか、そういうのは、わしにはよう分からん。分からんが、お前は、わしがとうと呼ばれとる相手だ」
彼は鼻をすすった。
「それだけは、間違いない」
私は、彼の胸に額を押しつけた。
この人は、いま、母と宗一郎のあいだに子があるかもしれないという手紙を読んだ。見ないようにしていた疑いを、もう避けられなくなった。知って、そのうえで、さっきと同じ名前で私を呼んだ。
七夜に「瑠璃花」と呼んだときと、今夜「瑠璃花」と呼ぶときで、この人の声は変わっていなかった。
私はそれを、強く受け取った。
たぶん、必要以上に強く受け取った。この人が呼んでいるのはこの身体の子で、私はその声を横から聞いているだけだ。それは分かっている。
分かっていて、私はその夜、彼の膝の上で眠るまで、一言も喋らなかった。
*
十一月の終わりに、本家へ連れて行かれた。
母と、女中が一人ついた。馬車で四十分ほどの距離だった。門をくぐって、玄関で草履を脱いで、廊下を歩いた。
途中の仏間の前で、母が少し足を緩めた。襖の奥に、新しい位牌と、女の人の写真があった。色の白い、痩せた人が、少し笑って写っていた。笑うと目尻が下がる人だった。
百合子さんだ。
去年の冬に亡くなった。一歳の私が蘆田先生の袖をつかんで離さなかったのは、この人のためだった。先生は発って、戻ったときには手遅れだった。
母は写真に向かって、ほんの少し頭を下げた。それから、また歩き出した。
廊下の突き当たりに、あの部屋があった。
襖が開いていた。この人生で、あの襖が開いているのを見るのは初めてだった。
壁いっぱいに星図が貼ってある。北の空と、南の空と、海図。赤い糸で航路が引いてあって、折れ目に印がある。
その下に、真鍮の時計が並んでいる。
私は、母の手を離した。
離して、部屋の中へ歩いていった。
「瑠璃」
母が呼んだ。私は止まらなかった。
壁の前に立って、上を見上げた。
三歳の身長からだと、時計の列は頭のずっと上にある。十八歳の目で見たときとは、まったく違う光景だった。
音は、同じだった。
いくつもの秒針がわずかにずれて刻む音。屋根を叩く雨のような音。
「おや」
声がした。
「気に入ったか」
宗一郎が入ってきた。三十一歳。痩せて背が高く、こめかみの髪に、もう白いものが混じっていた。
私はこの人を、生まれてから数えるほどしか見ていない。生きて動いているところを見るのは、いつも少し慣れない。前の人生の私にとって、この人は仏間の写真だった。
彼は私の横に来て、しゃがんだ。
「これはな、船に載せる時計だ。海の上では、時計が狂うと場所が分からなくなる。だから、船屋は時計を集める」
「いくつ」
「四十三」
私は思わず彼を見た。
「数えたことがある」と彼は言った。「若いころ、暇な冬に数えた」
彼は立って、壁のいちばん端の時計を指した。
「動いているのは、そのうち十九だけだ」
私は口を開けた。
同じだ。十五年後も、動いているのは十九だ。
「なぜ、ぜんぶ動かさないの」
「直せる者がいない。ぜんまいを巻ける者はいるが、狂ったのを直せる者はもういない。祖父の代に一人いたそうだ」
「なおさないの」
「直したいと思っている。思っているうちに、十年経った」
彼はそう言って、笑った。
この人は、決めない人だ。
私はそれを、母から聞いた。前の人生の十二歳の夏に、珈琲を飲みながら。百合子さまが亡くなっても、あの人は私を選ばなかった、と母は言った。
実物のこの人は、確かに決めない。時計を直すのを十年先延ばしにしている。病身の奥様を、子ができなくても離縁しなかった。奥様が亡くなってからは、静子さんとの話を、親族会に急かされながら先延ばしにしている。
来月、それが決まる。この人が自分で決めるのではない。家が決めて、この人が頷く。そして、母に求められて、決めなくても効く紙を書く。
彼は私を抱き上げて、いちばん高い時計を見せてくれた。
「これは、瑠璃丸に載っていたやつだ」
「るりまる」
「そうだ。お前の名前の船だ」
そのとき、玄関のほうで声がした。
「旦那様、静子様がお見えです」
宗一郎の腕が、少し固くなった。
彼は私を下ろした。
「藤乃」
母が廊下から入ってきた。
「静子さんが来た。この子を、頼む」
母は私の手を取った。
その手つきに、何も乱暴なところはなかった。母はいつも通りだった。ただ、母の指が、私の手首を掴む位置が、いつもより上だった。
久我静子という人が玄関から入ってきた。二十歳だった。若い。背が高くて、髪をきっちり結っていて、風呂敷包みを自分で持っていた。
「宗一郎さん。お約束のもの、お持ちしました」
「ああ、すまん」
「ずいぶんお待たせしてしまって」
「いや、待たせているのはこちらだ」
二人はそう言い合って、笑った。
その笑い方に、含みはなかった。この人は、この人でこの縁談を待っている。待っているが、待っているだけの人ではない。彼女は自分で包みを持って、自分で来た。
私は、この人の顔を見ていた。
この人が、あと十一か月で、この家に入る。入れば、来月書かれる紙は、母の望む意味を失う。宗一郎が死んでも、嫡出の子が先に立つ家になる。
十一か月。
湖は、その前にある。
私は、母に手を取られたまま、廊下の奥へ身を乗り出した。
「しずこさん」
静子が私を見下ろした。
「あら。こんにちは」
「およめさん?」
廊下が、静かになった。
宗一郎が、咳をした。静子は少し目を大きくして、それから、口元を押さえて笑った。
「まあ。どなたに聞いたのかしら」
「はやく、きて」
私は言った。
「はやく、およめさんに、きて」
「気の早いお嬢さんだこと」
静子は屈んで、私の頭に手を置いた。手が大きかった。
「まだ何も決まっておりませんのよ。それに、決まっても、すぐにというわけにはまいりません。百合子さまのこともございますし」
静子は宗一郎を見た。宗一郎は、困った顔で笑っていた。
大人の婚礼の日取りは、三歳の子の「はやく」では動かない。
分かっていた。分かっていて、言った。婚礼が夏より前に来れば、あの紙は何の役にも立たなくなる。母には、宗一郎を死なせる理由がなくなる。私の手の届くところで、湖をなくせる道は、それしか見えなかった。
そして、それを言った私の手首を、母が掴んでいた。
私は振り返った。
母は、笑っていなかった。怒ってもいなかった。何も言わずに、静子の手が私の頭から離れるのを見ていた。
母は、揺りかごの横で、この人がいつか自分を選んでくれる日の話をしていた人だ。百合子さんが亡くなって、やっと、と思った人だ。その人の前で、私はいま、別の女の人に「はやく、およめさんに、きて」と言った。
言ってから、それが母の耳にどう入ったかを考えた。遅かった。
私は、もう一つだけ言った。静子さんと、その後ろの宗一郎に向かって。
「みずうみ、こないで」
静子が「まあ」と言った。
「みんな、みずうみ、こないで」
「湖が怖いのね」
「かわいそうに、水を怖がるんです」と母が言った。
母は私の手を引いた。強く引いた。
馬車の中で、母は何も言わなかった。
私は、窓の外を流れる塀を見ていた。
母は、まだ何も決めていない。
前の人生の十八の夜に知ったとおりなら、母が蘆田医院で薬を受け取り始めるのは、四歳の四月だ。いまの母には、まだ計画がない。この人は、宗一郎が自分を選ばなかったことを、これから一か月かけて、はっきり知らされる人だ。
その人の耳に、私はいま、湖と言った。およめさん、と言った。
どちらも、母にとっては、三歳の子の気味の悪い言葉のひとつだったかもしれない。そうではなかったかもしれない。母は、何も言わなかった。
私に分かるのは、母が一度も私の手首を離さなかったということだけだった。
*
十二月に、宗一郎と静子の婚約が決まった。
式は翌年の十月と決まった。
その話を、私は食卓で聞いた。本家から来た佐伯が母に日取りを伝えているのを、横で粥を食べながら聞いた。
十月。
私は匙を止めた。
知っていた。
知っていたことが、そのとおりに来た。婚約は、三村の封書の中で見た紙の日付と同じ十二月。式は、十二の夏に母から聞いたとおりの十月だった。答え合わせは、合っていた。
合っていて、少しも嬉しくなかった。
宗一郎が結婚すれば、正妻が来る。正妻に子ができれば、この子の順位は下がる。死んだときに効く紙は、宗一郎に妻も嫡出の子もいないうちに宗一郎が死んだときだけ、この子を本家のただ一人の子にする。静子さんが来たあとでは、そうはいかない。
式は十月。その前の夏に、湖がある。
前の人生で、私はこの計算を、十八の誕生日の朝に、三村の封書を読みながらした。今度は、三歳の暮れに、粥を食べながらしている。
同じ答えが出た。
*
翌朝、母が玄関で、佐伯に封書を渡していた。佐伯は昨夜、日取りを伝えたあと、そのまま泊まっていた。
父はもう造船所へ出たあとだった。私はお絹に手を引かれて、父を見送りに出たまま、上がり口に立っていた。
「本家へ。宗一郎さまに、直接お渡しして」
「かしこまりました」
佐伯は封書を両手で受け取った。
表書きが見えた。
宗一郎様。
その字を、私は知っていた。少し右へ流れる払いまで、知っていた。十八の誕生日に、三村の封書の中で、同じ字を見た。
中身も知っている。