天導ルリカは生まれるのを止めた
第十一章 期限(2/4)
――せめて、亡くなったときに効く紙を、この子にください。
――私はもう待ちません。
私は、上がり口から飛び降りた。
「お嬢様!」
お絹の手が離れた。私は佐伯の袖を掴んだ。
「だめ」
「お嬢様?」
「それ、だめ」
私は封書に手を伸ばした。三歳の手は、佐伯の胸の高さまで届かなかった。袖を引いて、引いて、佐伯の腕が下がったところで、指の先が封書の角に触れた。
封書の角が、少し折れた。
「瑠璃」
母の手が、私の手の上に重なった。
冷たい手だった。力は入っていなかった。それでも、三歳の指は、その手の下で動かなくなった。
「放しなさい」
「だめ」
「放しなさい」
母は、私の指を一本ずつ、封書から外した。
佐伯は困った顔をしていた。彼は封書の折れた角を膝の上で伸ばして、懐に入れた。
「行ってまいります」
「お願いね」
佐伯は出て行った。
門の閉まる音がした。
私は、上がり口の下の土間に立っていた。足袋のまま土間に降りていた。足の裏が冷たかった。
母は、私を見下ろしていた。
長く見ていた。
それから、お絹に「足を拭いてやって」と言って、奥へ入った。
*
あの手紙を止めても、何も変わらなかったのだと思う。
その日の午後、私は縁側で、そのことを考えた。
封書を破っても、母はもう一通書く。同じ字で、同じ文で。あの手紙は、紙ではなかった。母がもう決めたことだった。私が止めようとしたのは、紙のほうだけだった。
では、母が決めるのを止められたか。
止めたければ、宗一郎に母を選ばせるか、母に選ばれないことを受け入れさせるしかない。どちらも、三歳の子が決めていいことではなかった。三十年分の私が決めていいことでもない。
婚約を止めることもできない。止めるべきでもない。静子さんは、自分で包みを持って、自分で来る人だ。宗一郎は、家のために、やっと一つ決めた。
だから、私にできたのは、婚約が決まる前に、父にあの手紙を読ませることだけだった。
一歳のときと、同じだった。袖をつかんでも、人は発つ。手紙は届く。
――やっぱ無理じゃん、三歳で。
口に出さずに、そう思った。思ってから、自分の声の軽さに少し救われて、それから、救われたことが嫌になった。
*
十二月の終わりに、佐伯が三村の事務所の封筒を届けに来た。
母は茶の間の戸口で受け取り、封を切った。私はお絹に抱かれて、隣の部屋から出てきたところだった。
「花の字まで、そのまま」
母は紙を見たまま、小さく言った。
私は息を止めた。母が顔を上げた。すぐに紙を折り、封筒に戻した。
母は何も言わず、自分の居間へ行った。
昼寝の布団に入っても、私は目を閉じられなかった。
十八歳の誕生日に、三村の封書の中で読んだ紙には、こう書いてあった。
――余、天導宗一郎、天導瑠璃を余の実子として認知す。
瑠璃、だった。
届いたのがあの紙の写しなら、いまは、瑠璃花になっている。
止められなかった紙の中で、その一字が変わったらしい。父が七夜に足した一字だ。
私は、それを、しばらく考えていた。
この世界は、私のために作り直されてはいない。婚約は同じ月に来た。あの紙も、また十二月に書かれたのだろう。母の手紙は、たぶん同じ文だった。目につく違いは、父が一字足したことと、その日から後に人が書く紙に、その字が入ることだけだ。
その地味さが、今日は、ありがたくなかった。
その夜、母が私の部屋の戸口に来た。
襖を開けて、そこに立っていた。
私は布団に座っていた。目が合った。
母は、何も言わなかった。
一分か、二分か、母はそこに立っていた。
それから、襖を閉めて、行った。
私は布団に潜って、目を閉じた。
あの戸口の母は、何を確かめに来たのだろう。私がまだ起きているかどうかか。封書の角を折った子の顔に、何かが残っていないかどうかか。
私は、自分の顔が何も残していないことを祈った。祈って、それから、祈る相手がいないことを思い出した。三行は、呼んでも出ない。帰り道も、相談相手もない。
三歳の身体で、見張りのついた部屋で、あと八か月。私はそれを、ここで過ごすしかなかった。
*
年の暮れに、恭介が木の船を持ってきた。
二年ほど前に盥で沈んだ舟とは、まるで違うものだった。
長さは腕の半分くらい。船体が滑らかに削ってあって、船首が少し反っている。帆柱は三本。帆は薄い布で、糸で縫ってある。船体の横に、細い刀で字が彫ってあった。
「るりまる」
私は読んだ。人前でも、平仮名なら少しずつ読んでみせるようにしていた。
「読めるのか」
「よめる」
「そうか」
彼は嬉しそうだった。
「本物の瑠璃丸を、わしは見たことがある。若いころ、残してあった船体の修理に入った。船底の板を三枚替えた」
「うかぶ?」
「浮かぶ。底に鉛を入れた。今度は計算した」
私たちは台所から盥を借りて、水を張って、浮かべた。
浮かんだ。
傾かなかった。
「おお」
「うかんだ」
「浮かんだな」
彼は腕を組んで、しばらく見ていた。
私は水に指を入れて、船を押した。船は盥の縁まで行って、跳ね返って戻ってきた。
「とう」
「ん」
「これ、もらっていい」
「お前のだ。名前が彫ってあるだろう」
「るりまる」
「そうだ」
私は船を持ち上げて、水を切って、抱えた。冷たかった。
その夜、私は布団の中で、木の船を横に置いて考えていた。
この人は、手紙を読んだ。この子が自分の血の子ではないかもしれないと知った。知って、それでも、船に「るりまる」と彫った。宗一郎の船の名前を、自分の手で彫った。
私は、決めた。
血がどうであれ、この人は父だ。
これを、私は事件の前に決めておきたかった。
もし、来年の夏に何かが起きて、そのあとでこの人が何かをしてくれたとしても、私はきっとそれを恩として受け取ってしまう。恩の交換で家族になるのは、私の悪い癖だ。前の人生の十歳のとき、フミの湯呑の破片を拾って、あと何回か手伝えば父の居場所を教えてもらえるだろうかと考えた、あの癖だ。
だから、何も起きていない年末の夜に、決める。
布団の中で、私の左手が動いた。
彼が部屋を出て、廊下を歩いていく音がした。その音のほうへ、左手が伸びた。
私は、押さえなかった。
伸ばしたままにした。手は、しばらく空中にあって、それから、力が抜けて落ちた。
枕元の棚には、銀の星がある。裏に「瑠璃へ」と彫ってある。
船の名前は瑠璃丸。刻印は瑠璃。呼ばれる名は瑠璃花。
三つとも、いま、この部屋にある。
*
冬のあいだ、私は父と数を数える遊びをした。
彼が仕事場から持ち帰った木の端切れを、床に並べる。十個ずつ束にして、十の束を十作る。百になる。
「百だ」
「ひゃく」
「船の板は、これの何倍要ると思う」
「しらない」
「わしも数えたことがない」
彼は本当に数えたことがないらしかった。二人で数え始めて、三十で飽きた。
そういう夜が、その冬に何回かあった。
母は、その部屋に入ってこなかった。廊下を通ることはあった。通るとき、足音が少し遅くなるのが分かった。
*
正月に、本家で人が集まった。
静子が来ていた。彼女は台所を手伝って、母と並んで働いていた。母は静子に丁寧だった。とても丁寧だった。
昼過ぎに、座敷で誰かが言った。
「夏は、湖へ行かれるので」
「ええ」と静子が答えた。「今年は私も伺うつもりです」
私は、母の顔を見た。
母は、湯呑を持っていた。
母の指が、湯呑の縁で止まった。ほんの一瞬だった。それから、母は湯呑を口へ運んだ。
私はそれを見た。
ただの嫉妬だったのかもしれない。十一月に、三歳の娘が言った「みずうみ」を思い出したのかもしれない。
私に見えたのは、母の指が一瞬止まったということだけだった。
その晩、家に帰ってから、私は恭介に言った。
「とう」
「ん」
「なつ、みずうみ、いや」
彼は、私を見た。
前とは、少し違う目だった。十一月に手紙を読んだ人の目だった。
「まだ言うか」
「いや」
「怖いか」
「こわい」
彼は座って、私を膝に乗せた。
「何が怖い」
「みずうみで、だれか、しぬ」
彼は黙った。
長く黙った。
「誰か、というのは」
「わかんない」
「誰かが、そう言うたのか」
「ちがう」
彼は、私の頭に手を置いた。
「分かった」
彼はそう言った。
「分かった。覚えとく」
覚えとく、と彼は言った。
それだけだ。彼は次の日に何かを調べたりしなかった。母に問い質したりもしなかった。三歳の子が湖を怖がっている、という話を、彼は自分の中に置いただけだった。
それでも、前とは違った。去年の春、彼は「大丈夫だ」と言った。今度は「覚えとく」と言った。
私は、その違いを大事だと思った。大事だと言えるほどの違いではないのかもしれない。それでも、何も変わらなかったわけではなかった。
*
三月の終わり、母が来た。
夜だった。見張りのたみは廊下にいた。母は入ってきて、襖を閉めた。
母は、私の布団の横に座った。
灯りは小さかった。
「瑠璃」
「かあさま」
「起きていたのね」
「うん」
母は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「あなたは、誰」
私は、母の顔を見た。
母の顔には、怒りはなかった。責めてもいなかった。母は、本当に訊いていた。
「あなたは、私が抱いた子です」
母は言った。
「三分、息をしなかった。産婆が諦めかけた。私は、この子は死ぬのだと思いました。そのとき、あなたが泣いた」
母の手が、布団の上に置かれた。
「戻ってきた、と私は言いました」
私は動かなかった。
「私は、あなたに乳をやりました。夜中に何度も起きました。歩いたのも見ました。かあ、と呼ばれました」
「うん」
「あなたは、私が眠っていると思って話したことを、覚えていました」
母の声は、震えていなかった。
「二つのとき、あなたは、るり、ほんけ、と言いました。私は、あの言葉を、あなたの前で何十回も言いました。眠っている子の前で。あなたは、それを覚えていた」
「……」
「三つの子が、湖で人が死ぬと言いました。静子さんに、早くお嫁に来てと言いました」
母は私を見ていた。
「私が宗一郎さまに手紙を書いた朝、あなたは佐伯の袖を掴んで、だめ、と言いました。あの手紙に何が書いてあるか、私は誰にも話していません」
母の手が、布団の上で、少しだけ握られた。
「あなたは、誰」
私は、答えなかった。
答えられなかった、のではない。答えなかった。
母がいま怖がっているのは、幽霊ではない。前の子と比べているのでもない。母は、自分が四年近く抱いて育てた子が、自分の言葉を全部覚えていて、まだ起きていないことを口にし、誰にも見せていない手紙の中身を知っているかのように振る舞う、という事実だけを見ている。
母は、その子に、直接訊いている。
この問いに答えれば、私はこの家で何かを失う。何を失うかも分からない。
私は、母の手を見ていた。布団の上に置かれた手。三年と十一か月、私を抱いた手。前の人生で、薬を六回買った手。
来月、この手は、蘆田医院で最初の薬を受け取る。
「かあさま」
「はい」
「ねむい」
母は、私を見ていた。
それから、立ち上がった。
「そう」
母は襖を開けて、出て行った。
問いは、そのまま部屋に残った。
*
その夜、私は眠らなかった。
布団の中で、三つのことを並べた。
一つ。この身体の左手。私の意思と関係なく、星へ伸びる。父の足音へ伸びる。
二つ。前の人生の石盤。「パパは かえってくる」。板の左側が擦れて曇っていた。あの子は左利きだった。私は右利きだ。
三つ。私がこの身体に入った日。三分の無呼吸。
この三つを、私はずっと別々に置いていた。
並べると、一つの形になった。
前の人生の十歳の朝、この身体の子は「……なければ、よかった」と言った。生まれてこなければよかった、と言ったのだと思う。母の話を聞いたあとで。
その子の願いは、たぶん、どこかへ届いた。
もし、あの子の拒んだ気持ちが、巻き戻すことでは消えなかったのなら。私が「はじめから」を選んで身体が生まれ直しても、生きる本人は来なかったのかもしれない。
あの三分は、その空白だったのかもしれない。
空いていた。
空いていたところへ、私が入った。
――違うかもしれない。
私はすぐにそう思った。
これは私の推理だ。誰かが教えてくれたのではない。星の間で見たあの三行は、そんなことを一言も表示していなかった。
あの画面は、あの子のことを何も教えなかった。私の帰り道のことさえ、教えなかった。
私は目を閉じて、あの三行を思い浮かべようとした。
出なかった。前の人生の十歳の最初の夜と同じだった。あれは、私が呼んで出るものではない。
――あの子は、どこ。
誰にも訊けなかった。答える画面も、ここにはなかった。
私は目を開けた。
枕元の棚に、銀の星がある。
私は左手を伸ばした。今度は、私が伸ばした。指先が棚に触れて、星の角に当たった。
「いるなら」と、私は声に出さずに言った。
「いるなら、この四年、ごめん」
返事はなかった。
この身体で言葉を選んで喋るのは、私だけだ。それでも、星へ伸びる左手や、父の足音に先に動く身体は残っている。本人が席を外していても、好きだったものの跡まで消えたわけではないのかもしれない。
布団の中で、私は自分の左手を見ていた。
この身体の子が生きていたら、この子は、たぶん、この四年を私と同じようには過ごさなかった。もっと素直に泣いて、もっと素直に笑って、母の言葉を覚えなかったかもしれない。静子さんに「およめさん」とは言わなかったし、佐伯の袖も掴まなかった。
でも、この四年に起きたことのいくつかは、この子のものだ。
七夜に「花」を足してもらったのは、この子だ。赤い靴を買ってもらったのは、この子だ。木の船に「るりまる」と彫ってもらったのも、この子だ。
私は、それを横で聞いて、救われた。
名前を呼ばれるたびに、私は嬉しかった。三歳の誕生日に「もういっかい」と言った。あれは、この子の名前だ。
それでも、私は、あの嬉しさを嘘だったことにするつもりはない。
私は本当に嬉しかった。それは起きたことだ。
問題は、その先だ。
私はいま、四歳になろうとしている。夏に事件がある。事件を止めたら、そのあと、私はどうするのか。
私は、まだ答えを持っていなかった。
持たないまま、朝が来た。
四月二十日に、私は四歳になった。
*
四歳になって最初に考えたのは、母に伯父のことを言うかどうかだった。
母は、兄に裏切られる。
前の人生の十七の秋に、一臣さんが自分の父の机から持ってきた下書きがあった。天導貞光の字で、親族会の三人に宛てた文面。「万一の事あらば後見の儀、当方にて」。日付は、事件の年の七月だった。