星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第十一章 期限(4/4)

 前の人生で、この人は十九歳の春に、十三歳の私から「一臣さん、私と駆け落ちしてください。私もちゃんと働くので。お菓子作りとか」と言われて、「……は?」と言った。十六の私と婚約して、十七の秋には自分の父の机から下書きを持ってきた。

 この十歳の子は、木の船の帆柱を抜いた。

 同じ手だ。指の形が同じだ。でも、この子は、あの人がしない間違いをする。

「ねえ」と彼は言った。

「うん」

「僕、君と結婚するんだって。父さんが言ってた」

 私は答えなかった。

「知ってる?」

「しってる」

「どう思う?」

 私は、庭の砂利を見ていた。

 この問いに、四歳らしい可愛い返事をすることはできる。「いや」でも「いいよ」でも、大人は笑う。

 でも、私はこの子に何かを約束させたくなかった。約束させて、それを十年かけて育てるようなことは、絶対にしたくなかった。

「おおきくなったら」

「え?」

「おおきくなったら、じぶんで、きめる」

 彼は目を丸くした。

「そうだね」

 彼はあっさりそう言った。

「そのほうがいいや」

 彼は帆柱を私に返して、庭を走っていった。

 私は帆柱を持って、縁側に座っていた。

 あの「……は?」は、もう起きない。

 駆け落ちを申し込んで断られた春も、婚約の日も、下書きを差し出す手も、あの人と私が前の人生の八年を重ねて、やっと起きたことだ。この世界では、私は四歳で、あの人は十歳で、あの八年は起きていない。

 断られたことまで惜しむのはおかしい、と自分でも思った。

 それでも、惜しんだ。

 誰にも言えないので、縁側で、一人で惜しんだ。

 *

 八月の初旬に、何も起きない日が一日あった。

 朝から暑くて、庭の蝉がうるさくて、私は縁側で氷を舐めていた。氷は女中頭が町から持ち帰ったもので、鉋で削って、砂糖水をかけたものだった。

 お絹が洗濯物を干していた。夕立が来て、彼女は慌てて取り込んで、それから、恭介の靴下を干し直していた。

「旦那様の靴下は、いつも右だけ穴があきます」

「なんで」

「歩き方でしょうねえ。右足を引きずっておいでですから」

 夕方、恭介が帰ってきた。

 疲れていた。肩が落ちていて、玄関で座り込んだ。

「今日は何だ」

 彼は、いつもの台詞を言った。

「なんもない」

「なんもないか」

「うん」

「そうか。父さんも今日は何もできんかった」

 彼は靴を脱いで、上がってきた。

「船台の材が、寸法が違うて届いた。一日、突っ返す相談だけで終わった」

「たいへん」

「大変だ」

 夕食は、三人だった。母と、恭介と、私。

 母は静かだった。恭介は材の話を三回した。三回目のとき、母が「その話は聞きました」と言った。恭介は「そうでしたか」と言って、笑った。

 夕食のあと、彼は棚から靴の箱を下ろした。

「そういえば、あれだ」

 赤い靴だった。

「履いてみろ」

 私は履いた。

 まだ大きかったが、去年ほどではなかった。踵が浮かない。爪先に指一本ぶんの余りがある。

「お」

「はいる」

「入るな」

 彼は靴の中を指で押した。

「ちょっと待っとれ」

 彼は道具箱を持ってきて、靴の内側に薄い革を貼った。

「これで、踵が滑らん」

 私は立って、廊下を歩いた。

 脱げなかった。

 廊下の端まで歩いて、戻ってきた。

「あるける」

「歩けるな」

「とう」

「ん」

「みずうみからかえったら、ふねのところ、いきたい」

「船?」

「とうの、しごとのとこ」

 彼は驚いた顔をした。

「造船所か」

「うん」

「あんなもん、うるさいし、危ないぞ」

「いきたい」

 彼は少し考えて、それから、笑った。

「よし。帰ったら連れて行く。船台は上から見せる。下は危ないから、上からだ」

「うん」

「靴を履いて来い。あれなら足を守る」

「うん」

 私は嬉しくて、その夜は赤い靴を枕元に置いて寝た。

 湖から帰ったら、造船所に行く。

 私は、八月十五日の向こう側に、予定を一つ作った。

 *

 八月十一日の夜、私は「行かない」と言ってみた。

 夕食のあとだった。母が席を立ったあとで、恭介に言った。

「みずうみ、いかない」

「行かんか」

「いかない。おうちにいる」

 彼は箸を置いた。

「お前一人で家におるか」

「おきぬと」

「奥様は行かれる」

「うん」

「父さんも行く」

「……」

 私は黙った。

 そこが行き止まりだった。

 私が家に残っても、湖では人が集まる。宗一郎が行く。母が行く。伯父も先に行く。父も行く。私が残れば、私は何も見られない。何も聞けない。伝えることもできない。

 それに、母が私を置いていくとは思えなかった。

「怖いか」

 彼が訊いた。

「こわい」

「うん」

 彼は、しばらく黙っていた。

「瑠璃花。父さんはな、湖では、お前から離れん」

「ほんと」

「本当だ。船台の仕事より、そっちが大事だ」

 彼は自分の膝を叩いた。

「もし父さんが離れんといかんことになったら、お絹さんにつける。お絹さんは、あれは頑固だ」

「うん」

 その夜、布団の中で、私は天井を見ていた。

 前の人生の私なら、ここであの三行を思い浮かべようとしたかもしれない。いまは、しなかった。出ないことは知っている。帰り道があるのかどうかも、知らない。

 それで、よかったと思った。帰り道が見えていたら、私はきっと、また選ばずに済むほうへ帰りたくなっていた。

 私は、この人たちがどうなるかを見たかった。それから、造船所へ行きたかった。

 その二つだった。

 *

 八月十二日に、荷造りをした。

 行李が三つ。私のものは、着替えと、木の船と、赤い靴だった。

「船は置いていきなさい」と母が言った。

「もっていく」

「壊れます」

「もっていく」

 母は、それ以上言わなかった。

 出発の朝、母が私の髪を梳いた。

 久しぶりだった。母が私の髪に触れるのは、たぶん半年ぶりだった。

 櫛が、丁寧に動いた。母は髪を分けて、耳の後ろで留めた。

 それから、銀の星を出した。

「これをつけていきなさい」

「ほし」

「そう」

 母は、星を私の髪に留めた。

「本家の子ですから」

 母はそう言った。

 鏡の中の私は、四歳だった。髪に銀の星があった。前の人生の十八歳の夜、私は同じ星を挿して星の間へ降りた。あのときも、母がこれを留めた。

 母の手が、私の頭から離れた。

 玄関で、恭介が行李を縛っていた。彼は最後に、赤い靴を布に包んで、上に載せた。

「これは、着いたら出す」

「うん」

 母が留めた星と、父が荷に入れた赤い靴。

 私は、その二つに挟まれていた。

 馬車が来た。

 私は、この家の玄関を振り返った。

 この家に、私は帰ってきたい。

 事件を止めて、それから、ここへ帰ってきて、造船所へ行って、赤い靴を履いて、来年の春も、その次も、ここで暮らしたい。

 そう思っている自分を、私は否定しなかった。

 八月十三日の朝、私たちは帝都を出た。