天導ルリカは生まれるのを止めた
第十四章 生まれてこなければ(2/2)
朝、起きる。顔を洗う。飯を食う。庭で遊ぶ。昼寝をする。おやつを食べる。夕方、玄関で音がする。「今日は何だ」と言われる。「なんもない」と答える。
私は、その二週間で、何も役に立たなかった。
役に立たなくても、食卓に私の席があった。私の茶碗が出た。私の靴が玄関に並んでいた。
その二週間のあいだに、宗一郎が一度、家へ来た。
肋がまだ痛むらしく、歩き方がゆっくりだった。彼は座敷に座って、恭介と何か話した。話は短かった。
それから、彼は私を呼んだ。
「瑠璃花」
「はい」
「私が、お前の血の父だという話は、聞いたか」
私は頷いた。
「そうか」
彼は、それだけ言って、しばらく庭を見ていた。
「私は、お前をこの家から連れて行かん」
「うん」
「私が引き取れ、と親族会で言う者もいる。だが、恭介君が届けを出した父だ。名前もあの人がつけた」
「跡取りのことも、いまは決めん。お前が大きくなったら、お前と、そのとき生きている当主とで決めればいい。死んでから効く紙は、もう作らん」
彼は、湯呑を持った。
「私は、決めるのが下手だ。今度だけは、早く決めた」
決めない人が、決めたのだと思った。私を手元に引き取らないこと。死んでから効く紙に、あとのことを決めさせないこと。決めるのを、生きている者に残すこと。
「おじさま」
「なんだ」
「とけい、なおした?」
彼は、私を見た。
それから、笑った。笑って、肋が痛んだらしく、顔をしかめた。
「まだだ」
「なおして」
「……そうだな」
彼は、帰るときに、玄関で恭介にこう言った。
「時計を直せる者を探す。見つかったら、この子を呼ぶ」
「はあ」
「あの部屋の音は、全部鳴っていたほうがいい」
彼は帰った。
その二週間、私は何度か学院の話を聞いた。いずれ通うことになる。女中頭が先々のためにと制服の見本を持ってきて、お絹が「まだ大きゅうございます」と言った。
夕方には、庭で遊んだ。木の船を盥に浮かべた。帆柱は、恭介が一臣の抜いたところへ楔を打って、直してあった。
私は、盥の縁に顎を乗せて、船が回るのを見ていた。
この生活が続くところを、私は想像できた。
想像できてしまうことが、少し困った。
だから、私は毎晩、あの三行を待った。
面会の日から、夜ごとに、布団の中で思い浮かべた。前の人生の十歳の最初の夜にやったのと同じように。つづきから。はじめから。やめる。文字の形まで細かく思い描いた。
出なかった。
出ないことは知っていた。前の人生の十歳の夜も、十七の冬の夜も、この人生の三月の夜も出なかった。自分では開けられないと母に言ったのは、私だ。それでも、思い浮かべるのをやめられなかった。
この子の四つの秋を、私は一日ずつ使っていた。朝の飯も、盥の舟も、夕方の「今日は何だ」も、本当はあの子が受け取るはずのものだった。扉が開かなければ、私はそれを使い続ける。使い続けるうちに、きっと惜しくなる。惜しくなれば、開いた扉の前で、私はまた「次はぜひ」と言う。
私は自分のことを、それくらいには知っていた。
だから、早く来てほしかった。この家の朝を惜しむ気持ちが、まだ扉を選ぶ気持ちより小さいうちに。
十八の夜まで、扉は八年開かなかった。今度も八年かもしれない。十年かもしれない。一生、開かないのかもしれない。
そう思いながら、毎晩、目を閉じた。毎晩、瞼の裏は暗いままだった。昼の私は盥の舟を見て笑い、夜の私は来ないものを待った。どちらも、本当だった。
*
九月二十七日の夕方、恭介が帰ってきて、こう言った。
「明日は休みだ」
「うん」
「明後日、造船所へ行くか」
私は、立ち上がった。
「いく」
「よし。朝が早いぞ」
「いく」
「靴を出しとけ」
私は棚から箱を下ろした。赤い靴だった。
湖へ持って行って、湖では一度も履かなかった。荷ほどきのときに布に包んだまま、棚に戻してあった。
私は靴を出して、玄関に並べた。彼が貼った革が、内側についていた。踵は滑らない。
「はいる」
「入るか」
「はいる」
翌二十八日の夜、彼は私が寝るまで部屋にいた。
いてくれと、私が言った。
「とう」
「ん」
「ここに、いて」
「おるよ」
「ずっと」
「ずっとは無理だ。父さんも寝る」
「ねるまで」
「寝るまでな」
彼は、私の布団の横に座った。胡座をかいて、壁に寄りかかった。
私は、天井を見ていた。
「とう」
「ん」
「もういっかい、よんで」
彼は、笑った。
「また、それか」
「うん」
「瑠璃花」
「もういっかい」
「瑠璃花」
「もういっかい」
「瑠璃花。瑠璃花」
私は目を閉じた。
彼の声は、四年前と同じだった。七夜の晩、私の顔を覗き込んで、慌てて「泣くな、泣くな、瑠璃花」と三回呼んだときと、同じ声だった。
「そんなに、呼ばれたいか」
「うん」
「変な子だ」
「うん」
彼は、私が眠るまでそこにいた。
*
九月二十八日の夜。
彼は、私が寝入ったと思って、隣の部屋へ戻った。襖の向こうで布団を敷く音がして、それから、静かになった。
私は目を開けた。
天井が見えた。障子越しに、廊下の灯りが弱く入っていた。枕元の棚に、銀の星と、木の船があった。
そのとき、目の前に文字が浮かんだ。
私は何もしていなかった。今夜だけは、思い浮かべてもいなかった。父に名前を呼ばれているあいだ、私は三行のことを忘れていた。面会の日から毎晩呼んで、一度も出てこなかったものが、呼ぶのを忘れた夜に、そこにあった。十八の夜の星の間と同じだった。
面会から、十四日。八年かかった前の扉より、ずっと早かった。
早すぎる、と思った自分に、私は少し驚いた。
つづきから
はじめから
やめる
「はじめから」は、灰色だった。
ゲームなら、と私は思った。エンディングのあとに出る画面だ。物語が終わったあとに。
今度は、終わりまで来たのだ。湖の夜は、誰も死なずに終わった。
私は、「つづきから」を見た。
長く見た。
これを選べば、明日の朝が来る。造船所へ行く。船台を上から見る。赤い靴を履いて、うるさい場所を歩く。帰ってきて、飯を食う。
いずれ、学院に上がる。宗一郎が父だと公表された家の子として。母のいない家で、父と、お絹と、女中頭と暮らす。
十歳になる。十六歳になる。十八歳になる。
その十六歳の春に、天導一臣は二十二歳だ。彼の父は服役しているか、その後どうなっているか分からない。彼は商会にいるかもしれないし、いないかもしれない。彼と私は、たぶん婚約しない。
十三の春に駆け落ちを申し込んで、「……は?」と言われる日は、来ない。
十六の春に澪が転入してきて、「もう遅いですよ」と言う日も、来ない。この世界では、まだ何も遅くない。
あの人たちは、もう、いない。
私は、そのことを、はっきり惜しんだ。
あの人たちは、私が元の世界へ帰るための教材ではなかった。現実で人と関われるようになるための練習台でもなかった。ハーレムエンドの攻略対象でもなかった。そういう冗談を心の中で言いながら、私はあの人たちと八年暮らした。
天導一臣は、駆け落ちを申し込んだ私に「……は?」と言った人だ。それから三年して私の婚約者になって、十七の秋には、自分の父の机から下書きを持ってきた。父を疑いたくないと言いながら。
蘆田慎は、「急ぐと、詩がかわいそうですから」と言った人だ。百合子さんのことで自分の父がずっと悔やんでいると、十五の私に話してくれた人だ。
早瀬遼は、市場で私の手首をつかんで「はぐれるなよ」と言った人だ。あの子だって誰かの娘だろ、と、私のことを言ってくれた人だ。
小野澪は、同じ菓子を半分に割った人だ。十八の夜に、あのとき言ってくれていたら守れた、と言った人だ。
あの人たちに、私はもう会えない。
この世界には、十歳の一臣と、九歳の慎と、十二歳の遼と、五歳の澪がいる。会える。会えるけれど、それはあの人たちではない。
私は、布団の中で、しばらく泣いた。
声は出さなかった。
*
泣きやんでから、私は考えた。
七夜にもらった名前は、この子に残る。
瑠璃花。父がつけた名前。命名紙に書かれて、十二月の遺言認知の文書に書かれて、これから学院の名簿に書かれる名前。
私が持って帰るのではない。私はこの名前を、四年間、横で聞いていただけだ。
それでも、私が救われたことは、消えない。
三分息をしなかった子のために父が足した一字が、たまたま私の名前と同じだった。それは偶然で、天命でも所有権でもなくて、この世界が私のために誂えられた証拠でもない。
偶然だったのに、私は救われた。
あの晩、生まれて七日の身体で、私は返事をしようとして泣いた。あの涙を、私は取り消さない。三歳の誕生日に「もういっかい」と言った。あれも取り消さない。
私は、この家で、たくさん笑った。
盥で沈んだ舟を笑った。大きすぎる靴を笑った。指で足を測った人を笑った。
あれは、全部、私が笑ったのだ。
私は左手を、枕元へ伸ばした。
指が銀の星に触れた。星は冷たかった。
左手が、星を握った。
私は、その手を見ていた。
これが返事なのかどうかは、分からない。この手は、四年間、私の意思と関係なく星へ伸びた。父の足音へ伸びた。それを、私は「あの子だ」と思ってきた。
思ってきただけだ。
証明は、していない。
私は、右手で、左手をそっと外した。星を棚に戻した。
*
元の部屋のことを、私は思い出した。
六畳と台所。折りたたみの机。充電したままのゲーム機。
仕事がある。月末だけ忙しい。北原さんがいる。麻辣の店の誘いを、私は断った。次はぜひ、と打った。
あの「次」は、まだ来ていない。
あちらの時間がどうなっているか、知らない。あちらへ戻れるのかどうかも、知らない。
――一回だけ、自分から出せた。
私は、そのことを思い出した。
十七の冬に、澪に「知りません」と言った。母の帳面を、春まで鏡台の底にしまっておいた。それでも十八の夜、星の間で、私は自分の手でそれを出した。遅かった。遅かったけれど、出したのは私だ。
それから、十三の春に、一臣さんに駆け落ちを申し込んだ。「……は?」と言われた。
断られても、私は死ななかった。次の朝には、ちゃんと朝ご飯を食べた。
どちらも、私がやったことだ。
私は、まだできるかもしれない。
私は、三行を見た。まだ、そこにあった。
「つづきから」を選べば、明日は造船所へ行ける。それから、また夜ごとに待てばいい。そう思いかけた。
思いかけて、その形に覚えがあった。
次はぜひ、と打った夜と同じ形だった。行きたいのに、次があると思って、今を断る。
この扉が次にいつ開くのか、画面は何も言っていない。十歳から十八まで、一度も開かなかった。次は、もう開かないのかもしれない。開いたとしても、そのときの私は、この家の朝を今夜よりもっと惜しんでいる。
面会の日、私は母に言った。もし開いたら、今度は後回しにしない、と。扉を開けることは、私にはできなかった。開いた扉の前で待たないことだけが、私に決められることだった。
扉は、開いた。思っていたより、ずっと早く。
今度は、後回しにしない。
「やめる」に意識を向けた。
このゲームを終了します。
二度と再開できません。
よろしいですか?
十八の夜と、同じ文だった。
帰れる、とは書いていない。元の部屋へ、とも。この身体がどうなるのかも、あの子が戻るのかも、どこにも書いていない。終了する、とだけある。
私は、四つのことを並べた。
左手は、まだ星へ伸びる。
あの子が生まれるのをやめた理由。十歳の朝に、母から言われるはずだった言葉。その朝は、もう来ない。母は逮捕された。宗一郎は生きている。父は追い出されない。この子は、パパの娘でいていい。
父は、恐ろしい三分のあとで、この子に花を足した。庭で笑うところを見たい、と。父が名前をつけたのは、これから生きる子だった。
そして、私は、この身体をもう返す。
それで、あの子が戻ってくると、私は信じたい。
信じたい、というのは、証明ではない。母が保証したのでもない。画面が約束したのでもない。私も、母に約束はしなかった。私は見届けない。
私自身がどうなるのかも、分からない。元の部屋で目が覚めるのかもしれない。目が覚めないのかもしれない。
もし、帰れたら。
北原さんに、自分から送ろう。麻辣の店、まだ行けますか、と。服のことも、二時間何を話すかも、三回目のことも考えずに。断られたら、また誘う。次がなくても、もう一回は言う。駆け落ちを断られた次の朝にも、私は朝ご飯を食べられたのだから。
もし、帰れなかったら。
それでも、この子の朝が来るなら、それでいい。
隣の部屋で、父が寝返りを打った。
私は、目を閉じたまま、その音を聞いた。
――ありがとう。
言わなかった。言えば、この人は起きてしまう。
天導瑠璃花。てんどう、るりか。
私が七夜に、返事をしようとして泣いた名前。
天導ルリカは、ここで、生まれるのをやめる。
このゲームを終了します。
二度と再開できません。
よろしいですか?
はい。
最後に感じたのは、手だった。
私の右手を、誰かの左手が、そっと離した。握っていたのは私のほうだったのか、向こうだったのか、分からなかった。
私は、選んだ。