星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第十五章 二度目の十八歳 / 九月二十九日の朝――恭介

第十五章 二度目の十八歳

九月二十九日の朝――恭介

 九月二十九日の朝、恭介は娘の泣き声で目を覚ました。

 まだ暗いうちだった。障子が青い。彼は布団から出て、隣の部屋の襖を開けた。

 娘は布団の上に座って、泣いていた。

「どうした」

 声をかけると、娘は彼のほうを見た。見て、両手を出した。

 左手のほうが先に出た。

 彼は座って、抱き上げた。娘は彼の首に腕を回して、耳のあたりに顔を押しつけた。

「パパ」

 娘はそう言った。

 恭介は、動きを止めた。

 しばらくそのままでいて、それから、背中を叩いた。

「うん」

「パパ」

「おるよ」

 彼は、そのまま部屋を三周ほど歩いた。歩いているうちに、娘は泣きやんだ。

 ――そんな呼び方もするのか、と彼は思った。

 娘が初めて自分を呼んだときから、ずっと「とう」だった。「パパ」は初めてだった。誰かの真似をしたのだろうか。

 娘は彼の首へ腕を回し直した。恭介は問いかけるのをやめて、その背中を支えた。

 台所へ行くと、お絹が竈の前にいた。

「おはようございます。お早いこと」

 娘は彼の腕の中から、お絹を見た。

「おきぬ」

「はい、おきぬでございますよ」

 お絹は笑った。

 娘は下ろされると、お絹の足元へ寄っていって、袂を掴んだ。お絹が「重うございますよ」と言いながら、片手で竈の火を見た。

 朝飯のとき、娘はよく食べた。

 飯を茶碗に半分と、卵と、味噌汁。汁の椀を両手で持って、傾けすぎて、膝にこぼした。お絹が拭いた。娘は「あー」と言って、笑った。

 庭に出ると、まだ空に星が一つ残っていた。

 娘はそれを指した。

 左手だった。

「ほし」

「ああ、残っとるな」

「ほし」

 娘は左手を伸ばした。届くはずのない高さへ、手を伸ばして、指を開いた。

 恭介は、その手をしばらく見ていた。

 この子は、赤ん坊のころから星に手を伸ばす。夜中に見に行くと、枕元の銀の星のほうへ手が出ていることがあった。誰に似たのか分からない。自分でも、藤乃でもない。

 彼は、それを不思議だと思ったことはあるが、意味があると思ったことはなかった。

「そら、朝飯も済んだ。顔を洗え」

 彼は言った。

「うん」

 湖のことを、娘は何も言わなかった。

 湖から帰ってきてからの、ひと月半ほど、この子は湖の話をしなかった。恭介はそのほうがいいと思っていた。四つの子が見た夜のことなど、忘れたほうがいい。

 昨日の晩、この子は「もういっかい呼んで」と言った。何度も言うので、彼は四回だか五回だか名前を呼んだ。あれも、覚えていないだろう。

 彼は縁側に座って、煙草に火をつけて、それから、消した。

 娘が横に来た。

 彼は、一昨日約束したことを言おうとして、口を開けて、閉じた。

 ――言い方を、変えよう。

 なぜそう思ったのか、彼にも分からなかった。一昨日の夕方、造船所と聞いて立ち上がった子と、いま隣で足をぶらぶらさせている子とが、どこか違って見えた。どこが違うのかは、言えなかった。約束を覚えているものとして話すのは、やめておこうと思った。

「瑠璃花」

 娘が彼を見た。

「今日な、父さんの仕事場へ行こうと思うとる」

「しごとば」

「船を作るところだ。うるさいぞ。鉄を叩く音がする。埃も立つ」

「ふね」

「そうだ」

 彼は、娘の顔を見た。

「行きたいか」

 娘は、しばらく考えた。四つの子が考える顔をしていた。

 それから、頷いた。

「いく」

「よし」

 彼は立ち上がった。

 玄関に、赤い靴が並べてあった。一昨日の夕方、この子が自分で出して並べたものだ。

 彼は靴を持ってきて、縁側に置いた。

 娘の足を、片方ずつ持った。踵を合わせて、指の先を押した。指一本ぶんの余りがある。中に貼った革は、はがれていない。

「入るか」

「はいる」

「歩いてみろ」

 娘は立って、縁側から庭へ降りた。三歩歩いて、振り返った。

 脱げなかった。

「あるける」

「歩けるな」

 彼は、しゃがんだまま、その足元を見ていた。

 この靴を買ったときは、大きすぎて、三歩で脱げた。砂利の上に裸足で立った子を、慌てて抱き上げた。あれから一年五か月だ。

「よし、行くか」

「うん」

 彼は娘の手を取った。

 左手のほうが、先に出た。

 門を出るとき、恭介は一度だけ家を振り返った。

 昨夜、この子が眠るまで隣に座っていた。何度も名前を呼んだ。呼ぶたびに、この子は「もういっかい」と言った。あの声と、いま自分の手を握っている左手とが、同じ子のものなのかどうか、彼には分からなかった。分からないことを考えるのは、彼は得意ではなかった。

 ただ、もし昨夜まで誰か別の者がこの家にいて、今朝どこかへ行ったのなら、その誰かも、どこかで靴を履いて歩いていればいいと思った。

 理屈は知らない。そう思っただけだ。

 彼は娘の手を握り直して、坂を下りた。

十四年後の四月二十日――瑠璃花

 私のいちばん古い記憶は、造船所だ。

 赤い靴を履いて、父の手を握って、鉄を叩く音の下を歩いた。靴の中で爪先が少し余っていた。見上げると、組みかけの船の腹が、空の半分を塞いでいた。それより前のことは、ほとんど覚えていない。

 私は天導瑠璃花という。天導恭介の娘で、今日、十八になった。

 十八の誕生日の夜、星の間の時計は、四十三がすべて動いていた。

 おじさまが、私の六つの年から一つずつ直させてきたものだ。直せる職人は帝都に一人しかいなくて、一年に二つか三つずつしか進まなかった。最後の一つは、私が十六の冬に、その職人の手元を見ながら自分で直した。瑠璃丸に載っていたという、いちばん高いところの時計だった。

 四十三の秒針は、少しずつずれて刻む。ずれた音が重なって、部屋の中では、雨が屋根を叩いているような音がずっと続く。この音を、私は物心ついたころから知っている。どこで最初に聞いたのかは、覚えていない。

 今夜は、その音の中で私の成年が披露される。その前に、私は本家の二階に用意してもらった支度の部屋で、鏡の前に立っていた。

 衣装は、黒地ではなかった。

 この家では十八の成年披露に、当主の血筋の子は黒地を着ることになっている。私はおじさまの血を引いていると、この家の誰もが知っている。黒を着ていい、と親族会の人にも言われた。

 それでも、黒は選ばなかった。黒は、この家を継ぐ血の色だ。跡取りのことは、私が大きくなってからおじさまと決める約束になっている。その話を、今夜の衣装の色で先に済ませてしまいたくなかった。

 私は、少し緑がかった青を選んだ。瑠璃という色に近い、染屋が一番手を抜けないという色だ。裾に、小さな白い花を刺繍してもらった。花の名前は決めていない。仕立屋に、名前のない花にしてください、と頼んだ。

「動くな」

 父が後ろに立っていた。手に、銀の星を持っていた。

 六つの角を持つ、掌に隠れるほどの小さな星だ。裏には「瑠璃へ」と彫ってある。私が生まれる前に、おじさまが注文したものだという。

 父は、それを私の髪に留めようとして、一度落とした。拾って、もう一度やって、斜めに留まった。三度目で、お絹が横から手を出した。

「旦那様、そこでは星が逆さでございます」

「逆さか」

「逆さでございます」

「船なら沈むな」

 父はそう言って、お絹に任せた。お絹は笑いながら星を留め直した。目がなくなる笑い方だった。

 父は、自分の背広を着ていた。去年、造船所の技師長になったときに仕立てたもので、肩の縫い目がちゃんと合っている。

「その色でよかった」

 父は、鏡の中の私を見て言った。

 私はうなずいた。自分で選んだ色だった。

 *

 星の間に降りると、人が大勢いた。

 正面の壇の近くに、おじさまがいた。四十六になって、髪はもうほとんど白い。隣に静子さんと、十二になる息子の航がいた。航は私を見つけると、手を振りかけて、母親に袖を引かれて、やめた。

 澪が、人の輪を抜けてこちらへ来た。

 澪は、星見荘の番人の娘で、私の四つの夏からの友達だ。いまは帝都の女学校の師範科にいる。弥吉さんは、今夜も湖で桟橋を見ているはずだった。今年の春、澪の父は、桟橋の杭を全部新しいものに替えた。

「瑠璃花さん」

「澪」

 澪は、私の隣に座った。今夜、私の隣に座る人は、ずっと前から決まっていた。

 澪は私の顔を見て、それから、わざとらしく言った。

「言わないでくださいね。今は」

「え」

「待ってしまうから」

 それから、澪は自分で吹き出した。

「何それ」

「なんとなく。瑠璃花さんって、ときどき、何か言いかけてやめるでしょう。先に言っておこうと思って」

「言いかけてやめないよ」

「やめます。四つのときからそう」

 私たちは二人で笑った。どうしてその言い方がおかしいのか、二人ともよく分からないまま。

 一臣さんは、商会の若い主人として来ていた。二十四歳。私と彼のあいだに、約束は何もない。子どものころ、私の木の船の帆柱を抜いて謝った人で、それ以来、会うと必ず船の話をする。今夜も、会釈のあとに「進水式の写真を見た」と言った。私が図面を引いた小さな曳船の写真だ。

「来月、また見せてくれ」

「来月の茶会に持っていきます」

「片づけておく」

 彼はそう言って、人のあいだへ戻っていった。何を片づけるのかは言わなかった。

 蘆田慎さんが、父の蘆田先生の少し後ろにいた。眼鏡は子どものころと同じ丸い形で、医師になったばかりだという。目が合うと、一拍おいてから、頭を下げた。

 壇の上で、おじさまが挨拶を始めた。

 天導の船が拓いてきた航路のこと。この十四年、誰も湖で死ななかったこと。それから、私の名前。

「天導瑠璃花。瑠璃丸の瑠璃に、恭介君が花を足した名だ」

 広間に拍手が起きた。父が、後ろのほうで、頭を三回下げていた。

 悪人のいない集まりではないのかもしれない。大人の集まりには、いつも何かがある。それでも、この広間には、私が十八年かけて顔を覚えた人たちがいる。

 *

 挨拶のあとで、三村先生が私のところへ来た。

 三村先生は六十に近くなって、髪がすっかり白くなっていた。先生は私を人のいない壁際まで連れて行って、懐から封筒を一通出した。

「お渡しするように、頼まれておりました」

「どなたから」

 三村先生は、少しだけ間をおいた。

「藤乃様から」

 私は、封筒を見た。

 母は、私が四つの秋から、帝都にいなかった。長く塀の中にいて、去年の春に出てきた。いまは湖に近い町で、一人で暮らしていると聞いている。

 四つの夏のことを、私はほとんど覚えていない。湖で何かがあったことは知っている。大人たちが話すのを聞いて、あとから本で読んで、知った。母がそこで何をしようとしたのかも、知っている。

 知っていて、私は去年の冬、母に手紙を一通だけ書いた。成年披露の日取りと、それだけを書いた。来てください、とも、来ないでください、とも書かなかった。どちらを書けばいいのか、分からなかったからだ。

 封を切った。

 便箋が一枚入っていた。

 字は、一行だけだった。

 ――おめでとう、瑠璃花。

 私は、その一行を、しばらく見ていた。

 父から、何度か聞いたことがある。母は、私のことを「瑠璃」と呼んでいた、と。花の字を足したのは父で、母はそれが気に入らなかった、と。

 瑠璃は、おじさまがつけた本家の船の名前だ。花は、七夜の晩に、庭で笑うところを見たいと言って父が足した字だ。母は七夜の晩に一度そう呼んだきり、四年のあいだ、その一字を口にしなかった。

 便箋の上で、母は、花まで書いていた。

 本家の子としてではなく、父が名前を足した子として、母は私を祝ったのかもしれない。そうではないのかもしれない。一行では、分からない。

 私は封筒を懐に入れた。

 返事を書くかどうかは、今夜のあとで決める。母に会いに行くかどうかも。それは、私が決めることだ。誰かに決めてもらうことではない。どうしてだか、私はずっと前から、そう思っている。

 *

 宴が終わりに近づいて、父が私のところへ来た。

 父は少し酒が入っていて、顔が赤かった。

「瑠璃花」

 父が呼んだ。

「もういっかい」

 私は言った。

 父は笑った。

「また、それか」

「うん」

「瑠璃花」

「もういっかい」

「瑠璃花」

 澪が横で「またやってる」と言った。お絹が「このお家の、昔からのお決まりでございます」と言った。

 これは、家の中だけの冗談だ。父が名前を呼ぶと、私が「もういっかい」と言う。いつから始まったのかは、誰も覚えていない。父に訊いても、「お前が小さいころからだ」としか言わない。

 どうしてそんなことを言うようになったのか、私にも分からない。

 ただ、名前を呼ばれると、私は返事をしたくなる。何度でも。

 四十三の時計が鳴っていた。

 呼ばれたら、返事をすればいい。私は、そうやって大きくなった。