天導ルリカは生まれるのを止めた
第四編 恭介編
第四編 恭介編
第一章 舟屋の朝
八月十六日、朝。
最初に分かったのは、板の匂いだった。水を吸って乾き、また吸った木の匂い。それから、頬の下の毛布がちくちくすること。
目を開けると、屋根の隙間から白い光が何本も落ちていた。光の中で埃が回っていた。朝だった。
頭が重い。起き上がろうとして、腕がうまく届かなかった。肘をついたつもりの場所に肘がなくて、私は毛布の上へ顔から落ちた。
もう一度やった。今度は手のひらを先に置いた。
手のひらが小さかった。指が短くて、付け根にえくぼのようなくぼみが並んでいる。爪は桜の花びらくらいしかない。
私は立花灯、二十九歳で、市立図書館の司書をしている。最後に覚えているのは閉館後の返却ポストだった。雨の吹きこんだ絵本を一冊ずつ拭いて、乾かす棚に立てていた。その先がない。
そして、この手は、どう見ても四つか五つの子どもの手だった。
外で男の人の声がした。
「杭のあいだに――」
「旦那様だ。おい、戸板を持ってこい」
足音が板の上を走っていく。誰かが泣くような声を出しかけて、途中でのみこんだ。
私は四つ這いで戸口まで進んだ。膝が床に当たるたびに、頭の奥が遅れて揺れる。熱のときとも寝不足のときとも違う揺れ方だった。まぶたが下りてきて、そのたびに持ち上げなければならなかった。
戸は細く開いていた。
湖があった。朝の湖は白っぽい緑色をしていた。桟橋が右手から水の上へ延びていて、先のほうで折れている。折れたところから、柱が一本、斜めに水面へ突き出ていた。
岸に男の人たちが集まっていた。四人がかりで、戸板を一枚、水際から運び上げているところだった。戸板の上には筵がかけてある。筵の端から、濡れた袖が少しだけ出ていた。
私は、その袖の色を知っていた。
知っているのは、私ではなかった。この身体のほうだった。
夏の夜の縁台。細くて長い指が懐中時計の蓋を開けて、中を見せてくれる。かち、かち、と小さなものが動いている。「瑠璃。これが一秒だよ」。痩せて背の高い人で、髪にもう白いものが混じっていて、笑うと目尻がやさしく下がる。
おじさま、とこの口は呼んでいた。
その人の袖だった。
私は戸の隙間に額をつけて、戸板が岸を遠ざかっていくのを見ていた。膝の下の板が冷たかった。
*
瑠璃、という名前には覚えがあった。
私は、この名前を画面の中で何百回も見ている。
『帝都恋綺譚』。湖の事件の夜、舟屋で眠っているところを見つかった分家の娘が、天導瑠璃だ。物語の悪役で、十八歳の成年披露の夜に澪に断罪され、海の向こうの修道院へ送られる。
最後の場面は、屋敷の門の外だった。
「送っていこうか」
「……あなた、誰」
「昔、あなたを抱いていた者だ」
そこで一枚絵が出る。門柱の影に半分隠れた男の、日に焼けた横顔と、瑠璃の小さな荷物。
私はあの一枚のために、全ルートを回った。一臣ルートも慎ルートも遼ルートも、全部の選択肢を試して、TRUEルートを開けて、最後の門まで行った。行くたびに泣いた。設定資料集は三冊買った。一冊目は読みすぎて背が割れ、二冊目は司書仲間に貸したまま戻ってこない。
だから、おかしいと思った。
ゲームでは、湖の事件は瑠璃が十歳の夏だった。設定資料集の年表にもそう書いてあった。年表の頁は開きぐせがつくほど見たから、間違いない。
この手は十歳の手ではない。
私は自分の手を見て、それからもう一度、戸の外の湖を見た。桟橋の折れ方も、舟屋の場所も、画面の回想の一枚絵と同じだった。違うのは、この身体の大きさだけだった。
六年早い。
どうしてなのかを考えようとして、まぶたがまた下りてきた。口の中が甘かった。舌の奥に、どろりとした甘さと、少しの苦みが残っている。
糖蜜だ、と思った。ゲームでは、母が娘に匙で飲ませた眠り薬は、糖蜜に溶かしてあった。
私は板の上に座りこんだ。
この身体に私が入ったのは、ついさっきだ。目を開けたときには、筵はもうかけられていた。昨夜の宴も、灯籠も、匙も、私は見ていない。桟橋の柱が切られたのも、あの人が落ちたのも、私が来る前に済んでいた。
止められたはずのことは、一つもなかった。
そう分かっても、胸の奥は軽くならなかった。この身体が覚えている縁台の夜と、時計の音と、目尻の皺が、戸板の筵の下へ一緒に運ばれていったような気がした。
私は泣かなかった。泣いたのは、この身体のほうだった。四つの子どもの涙は、止めようと思っても止まらない。私は膝を抱えて、しゃくりあげる自分の肩を、自分で持て余していた。
*
「瑠璃!」
女の人の声だった。戸が大きく開いて、朝の光がまともに目に入った。
母だった。
天導藤乃、二十八歳。細身で背が高い。切れ長の目が、少し赤かった。藤色の地に大きな白い花を散らした着物を着て、帯の上から薄物を羽織っている。こういう朝にこの色を着る人なのだ、と思った。
母は膝をついて、私を抱きしめた。
強い腕だった。香の匂いがした。白檀に、花の蜜のような甘さが混じった匂い。私の頬の下の毛布と、同じ匂いだった。
「よかった。よかった、瑠璃」
外まで聞こえる声だった。岸の男の人たちが、何人かこちらを振り返った。
母の腕が少しゆるんだ。唇が、私の耳に寄った。
「何も覚えていないわね」
小さな声だった。問いの形をしていなかった。
私は答えを考えた。
ゲームのとおりなら、この人は昨夜、私に匙で糖蜜を飲ませ、ここへ運んで寝かせた。いまそれを言ったら、四つの子どもの話を誰が聞くだろう。聞いたとしても、その子をどこへ置くだろう。私の手の届く範囲には、この人の腕しかない。
それに、私は本当に何も覚えていない。私が来たのは、全部が終わったあとだった。
「……うん」
四つの声は、思ったよりずっと高かった。
母はもう一度私を抱いて、それから声を上げて泣いた。外に聞こえる声で。
*
それから何日か、私は熱を出して寝ていた。
星見荘の二階の小さな部屋だった。天井の木目が、目を閉じても瞼の裏に浮かぶくらい、長く見ていた。女中のフミが粥を運んできて、額の手拭いを替えた。フミは五十を少し過ぎた、背中の丸い人で、手拭いを絞るときに必ず「はい、冷たいですよ」と言った。
熱の中で、この身体の記憶が少しずつ浮いてきた。四つの子の記憶は、絵本の頁を一枚ずつ抜いたみたいに飛び飛びだった。
大きな手。太い指が、私の脇の下に入って、高く持ち上げる。天井が近くなる。木屑の匂い。「ほれ、高いぞ」という低い声。
パパ、とこの口は呼んでいた。
十五日の夕方、パパは汽車で帝都へ行った。本社から至急の電報が来たからだ。行きたくないなあ、と言って、私の頭に手を置いた。その手の重さまで、この身体は覚えていた。
ゲームの筋では、あの電報は偽物だ。伯父の手の者が打った。パパを湖から遠ざけるために。
三日目の夜、廊下で話し声がした。
「瑠璃は」
低い声だった。記憶の中の「ほれ、高いぞ」と同じ声だった。
「お休みでございます。奥様が、どなたもお入れしないようにと」
フミの声だった。
障子に、大きな影が映っていた。廊下の行灯の光で、肩のところが障子の桟からはみ出している。影は少し屈んでいた。
「起きとるか」
影が、障子越しに言った。
私は返事をしようとした。パパ、と言おうとした。喉が熱で腫れていて、出たのは息だけだった。布団から腕を出そうとして、腕が重くて、途中で落ちた。
影はしばらく、そこにいた。
それから、「そうか」と言った。「ようけ寝え」
影が障子から離れて、足音が廊下を遠ざかった。右足を少し引きずるような足音だった。
*
九月の半ば、帝都の屋敷で親族会が開かれた。
私は二階の子ども部屋にいた。フミが一緒にいて、絵本を読んでくれていた。階下の広間から、ときどき男の人の声が上がって、すぐに低くなった。何を言っているのかは聞き取れなかった。
聞き取れなくても、私は知っていた。
ゲームの回想では、この親族会で、瑠璃の父親は血の検査の紙を見せられる。娘の血の型は、この夫婦のあいだには生まれないものだった。お前の子ではない、認めろ、と言われて、父親は嫡出否認の書類に名前を書く。そして家を出ていく。瑠璃は、宗一郎の遺志として、本家の養女になる。後見人は伯父の貞光。
書類に名前を書いたら、この身体とあの人は、法律の上では親子ではなくなる。
いまごろ、あの人は紙に名前を書いている。フミの読む「ももたろう」を聞きながら、私はそのことばかり考えていた。桃が川を流れていった。
昼を過ぎて、玄関のほうで戸の音がした。
私は窓へ走った。窓は私の背よりずっと高いところにあった。椅子を引きずってきて、よじのぼった。フミが「お嬢様、危のうございます」と言った。私は窓枠にしがみついた。
門へ続く砂利道を、男の人が一人、歩いていた。
大柄な人だった。肩に行李を一つ担いでいる。借り物のような黒い羽織の下から、日に焼けた太い首が出ていた。歩くたびに、右の肩が少しだけ下がる。
あの人だ、と思った。
ゲームでは八年後、この世界ではたぶん十四年後の、門の外に立っている人。一枚絵の、日に焼けた横顔の人。私が何十回も、最後の三行のために会いに行った人。
画面の中より、ずっと若かった。背中が大きかった。
私は窓を開けようとした。掛け金は、私の手がやっと届くところのさらに上にあった。指先がかすって、動かなかった。
男の人は門の前で立ち止まった。
行李を担ぎ直して、振り返った。屋敷の玄関を見て、それから、ゆっくり上へ、二階の窓のほうへ顔を上げた。
私は手を振った。
両手で振った。窓硝子に手のひらが当たって、ぺたぺたと音がした。四つの身体でできることは、それしかなかった。声を出しても硝子の向こうへは届かない。走っていっても階段の下で誰かに抱き上げられる。私は手を振った。硝子の向こうで、あの人の顔は小さくて、どこを見ているのか分からなかった。
あの人は、帽子のつばに手をやった。
屋敷に向けた挨拶だったのかもしれない。私に向けたものだったのかもしれない。
それから門を出て、塀の向こうへ見えなくなった。
私は窓硝子に手のひらをつけたまま、しばらく動かなかった。硝子に、小さな手の跡が二つ、白く曇って残った。
「お嬢様」
フミが、後ろから私の腰を支えていた。
「お父様は、お仕事で遠くへいらっしゃるんですよ」
フミの声は、少し震えていた。
私は頷いた。四つの子どもは、頷くしかない。
ゲームのあの人は、八年、どこかで待っていた。瑠璃が全部を失って門を出てくる夜まで。この世界では、それが十四年になる。門の外で、あの人は二言しか話さない。それで終わる。
窓硝子の手の跡が、少しずつ消えていった。
私は椅子の上で考えた。四つの頭で考えるのは骨が折れた。考えがすぐに眠気にすり替わる。それでも一つだけ、はっきり決めた。
今度は、あの人を門の外で待たせない。
私のほうから、門を出ていく。