星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第二章 渡しても燃やしても

第二章 渡しても燃やしても

五つの春から、私は本家の屋敷で暮らすようになった。

帝都の本家の屋敷は、廊下が長かった。子どもの足で端から端まで歩くと、途中で一度休みたくなる長さだった。養女指名の書面というものがあって、私はそれによって天導宗一郎の跡を継ぐ子になったのだと、前年九月の親族会が終わってから、伯父の貞光が私に言い聞かせた。

伯父は大きな声の人だった。低く、よく通る。私の頭を撫でるとき、指輪が髪に引っかかった。

「瑠璃は賢い子だ。私が後見をする。何も心配はいらない」

私は「はい、おじさま」と言った。

ゲームでは、この人が桟橋の柱に鋸を入れた。私は頭を撫でられながら、指輪の石の色を覚えた。五つの子どもにできる抵抗は、それくらいだった。

母も本家の屋敷に移った。母の部屋は東の端で、いつも香の匂いがした。母は私の着物を選び、髪を梳き、箸の持ち方を直した。左手で箸を持つと、母は黙って私の手首を取り、右へ持ち替えさせた。この身体はもともと左利きで、私はもともと右利きだった。どちらの手を使えばいいのか、しばらく分からなくなった。人前では右、一人のときは左、と決めた。

母は私を叱らなかった。叱る代わりに、よく言った。

「あなたは本家の子ですよ」

そう言うときの母は、嬉しそうだった。私はそれが、いちばん怖かった。

 *

私が知っていることを、私は一度だけ紙に書いた。六つの冬、手習いの紙の裏に、平仮名で。

 じゅうはちのよる だんざい
 うみのむこう しゅうどういん
 じゅうななのふゆ ちょうめんをやかない
 みおさんを いじめない

書いてから、火鉢で燃やした。燃やしながら、この身体がいつか同じことを帳面でやるのだと思って、少し笑ってしまった。笑ったところをフミに見られた。フミは何も言わずに火箸で灰をならした。

最後の行は、案外むずかしかった。

七つで入った学院の初等科で、私の周りには、頼みもしないのに女の子たちが集まった。本家の跡取りのそばにいれば得をすると、その家の親たちが教えたのだと思う。女の子たちは、私が嫌な顔をした相手を、私の代わりに虐めようとした。

だから私は、嫌な顔をしないことにした。誰に対しても同じ顔で「ごきげんよう」と言った。そうすると、取り巻きの子たちは何を目印に動けばいいのか分からなくなって、三年もするといなくなった。代わりに、図書室の隅の席が私の場所になった。

小暮さんという下級生に階段で会ったとき、私は手すりのほうへ寄って道を空けた。ゲームの瑠璃は、この階段でこの子を突き飛ばした。小暮さんは眼鏡を押し上げて、ぺこりと頭を下げて、急いで上がっていった。それで終わりだった。何も起きなかったことは、どこにも記録されない。それでよかった。

 *

九つの夏、私は佐伯の仕事を手伝うようになった。

家令の佐伯は、背の高い、白髪まじりの人だった。屋敷の奥に書庫があって、代々の帳簿と、宗一郎が集めた本が、ほとんど順番なしに押しこまれていた。私はそれを見た日の夜、眠れなかった。

「佐伯さん。あの書庫、並べ直してもいいですか」

「お嬢様がですか」

「本の背に、紙の札を貼ります。帳簿は年ごとに、本は中身ごとに分けます。どこに何があるか、札を見れば分かるようにします」

佐伯は私の顔をしばらく見て、それから「では、夏休みのあいだだけ」と言った。

夏休みは三回続いた。

佐伯は、私が帳簿の頁をめくる速さに、何度か目を丸くした。私は読むのが速い。前の人生で、それだけは誰にも負けなかった。

四つの年の帳簿は、九月の頁が分厚かった。葬儀の払い、親族会の仕出し、星見荘の桟橋の修繕。その中に、一行だけ、別の手で書き足した行があった。

 九月十八日 恭介殿御荷物 南浦 蓬田造船気付 運賃

南浦。

ゲームでは、遼ルートで一度だけ出てくる港町の名前だった。遼と澪が、家を追われた瑠璃の父親を訪ねていく町。一度しか出てこないから、覚えている人は少ない。私は覚えていた。遼ルートのその場面は、あの人が一枚絵の外で喋る数少ない場面だったからだ。

私はその行を三回読んで、帳簿を閉じた。紙に写すことはしなかった。写した紙は、誰かに見つかる。頭の中の棚に、背表紙を一本立てておけばよかった。

 *

十の春から、小遣いを缶に入れるようになった。

本家の子の小遣いは、思っていたより多かった。私はそれを使わなかった。学院の帰りに友だちが甘味屋へ寄るとき、私は「今日は家の用がありますので」と言って帰った。缶は勉強机の抽斗の奥にあった。

十二の冬、缶を布の袋に移して、学院の鞄の底に縫いつけた。袋の中には、小遣いのほかに、写真が一枚入っていた。

写真帖から一枚だけ剥がしたものだった。作業着の襟のよれた男の人が、赤ん坊を抱いている。写真のために作った笑い顔が、ぎこちない。赤ん坊の左手が、その人の太い指を握っている。

私はこの写真を、毎晩見たわけではない。見ると、九月の窓を思い出した。思い出すと、あの窓の掛け金にまだ手が届かないような気がした。だから、袋の底に入れておいた。いつでも出られるように。

手紙は書かなかった。

本家の子が出す手紙は、佐伯が宛名を確かめて、ときどき伯父がそれを見る。家を追われた男に宛てた手紙など、届く前に伯父の机の上で開かれる。それに、会うなら、自分の足で行きたかった。手紙で「元気ですか」と書いて、あの人が「元気だ」と返す。それでは、四つの窓から何も進まない。

十三で、一臣さまとの婚約の話が出た。

分家の跡取りの一臣さまは十九で、背が高く、無口な人だった。眉がまっすぐで、いつも本を一冊持っていた。伯父が「ゆくゆくは」と言い、一臣さまは「父の決めたことだ」と言って、手の中の本の頁をめくった。私は「はい」と言った。

一臣さまの本は、宗一郎の書庫から借りていったものだった。私が背に貼った札が、まだついていた。

 *

十四の秋、学院の高等科に、奨学生が一人転入してきた。

小野澪。十五歳。湖の番人の娘。

ゲームより早い。けれどこの世界は、湖の事件からして六年早かったのだから、何が早くても驚かないことにしていた。

澪さんは、日に焼けた健康そうな人だった。肩までの髪を、学院の規則どおり後ろで一つに結んでいる。奨学生の制服は、襟の布が私たちのものより薄い。そして、人をまっすぐに見る。話すとき、相手の目から自分の目を外さない。画面の中では同じくらいに見えた人を、十四の私は見上げなければならなかった。

私は、澪さんを虐めなかった。廊下で会えば「ごきげんよう」と言った。澪さんは少し驚いた顔をして、「ごきげんよう」と返した。それだけだった。

冬になって、図書室で声をかけられた。

放課後で、窓の外はもう暗くなりかけていた。私はいつもの隅の席で、書架の札の貼り替えを勝手にやっていた。澪さんは私の机の前に立って、鞄を胸の前に抱えていた。

「天導さん。少し、よろしいですか」

「どうぞ」

澪さんは座らなかった。

「私の父は、星見荘の番人をしていた小野弥吉です。お屋敷を辞めて、何年かして、病気で亡くなりました」

「……存じています」

「父は亡くなる前に、手紙を残しました。あの夏、奥様が星見荘へ蘆田医院の薬の袋をお持ちになったそうです。春からよく通っておられると、お付きの女中から聞いた、と書いてありました。眠れないとおっしゃって、薬を」

澪さんの声は、震えていなかった。震えないように、息の量を決めて話している声だった。

「天導さん。お母様の、その頃の家計簿を、ご覧になったことはありませんか」

私は札の束を机に置いた。

「どうして、私に訊くんですか」

「天導さんは、私に意地悪をなさらなかったので」

澪さんは、そこで初めて目を伏せた。

「本家の方で、私に意地悪をなさらなかったのは、天導さんだけでした」

 *

その夜、母は茶会で遅くなった。

私は母の部屋に入った。東の端の、香の匂いの部屋。鏡台の横に、黒塗りの小さな箪笥がある。三段目の抽斗の奥に、藍色の布表紙の帳面が一冊、寝かせてあった。

ゲームでは、瑠璃が十七の冬に暖炉にくべる帳面だ。画面には、炎の中で頁がめくれる一枚絵しか出なかった。何が書いてあったのか、ゲームは最後まで見せなかった。

私は、ずっと探さなかった。

場所の見当はついていた。母は、あの箪笥の三段目だけは女中に触らせなかった。探そうと思えば、いつでも探せた。探さなかったのは、見つけたら、それをどうするか決めなければならないからだった。決めるのは、十七の冬でいいと思っていた。

帳面を開いた。

母の字は細くて、右へ少し傾いていた。米、炭、呉服屋、茶の師匠への謝礼。一月から順に、きちんと並んでいる。四月の欄に、蘆田医院の名前があった。薬代。その行の横の余白に、同じ字で、もっと小さく書き足してあった。

 八月 湖 灯籠 舟屋

四つの言葉だけだった。

四月だった。湖の夜の、四か月前。

私は帳面を膝の上に置いたまま、しばらく座っていた。畳が冷たかった。

五月にも、六月にも、七月にも、蘆田医院の行があった。数えるのはやめた。四月の余白の四つの言葉で、足りていた。

それから、図書館で督促状の文面を考えるときの頭で、順番に並べた。

この帳面を、澪さんに渡したらどうなるか。

母が捕まる。伯父も捕まる。ゲームのTRUEルートでは、伯父の下書きと、医院の処方簿と、何人かの証言が揃って、宗一郎を死なせたのが伯父と母だと明らかになる。宗一郎の遺志で跡取りになった子でも、残るのは、人殺しの手伝いをした女の娘で、しかも、あの夜にいちばん得をした子だ。この家は、そういう子を屋敷に置いておかない。家の恥は遠くへやる。ゲームの瑠璃が送られた海の向こうの修道院には、たぶん、罪状が一つ少なくても同じ船で着く。

この帳面を、燃やしたらどうなるか。

それはゲームの瑠璃がやったことだ。証拠を焼いた罪で、十八の夜に断罪される。同じ船に乗る。

私は帳面を閉じた。

「あ、これ、渡しても燃やしても破滅するやつだ」

声に出していた。母の部屋に、自分の声が思ったより大きく響いた。

司書をしていると、ときどき、どこへ並べても落ち着かない本に出会う。分類の番号をどう振っても、隣の本と話が合わない。そういう本は、棚の問題ではなかった。本のほうの問題だった。

渡すのも、燃やすのも、この家にいる子の選び方だった。この家にいる限り、どちらを選んでも、最後は同じ船に乗る。

私は帳面を抽斗に戻さなかった。学院の鞄に入れた。

 *

翌日の昼休み、学院の門のところに、フミが来ていた。

風呂敷を抱えていた。守衛に「お嬢様のお弁当を」と言っていた。私は弁当を忘れていなかった。

フミは六十を過ぎて、背中がもっと丸くなっていた。私の顔を見ると、風呂敷を差し出して、そのまま私の手を握った。手が冷たかった。

「お嬢様」

小さな声だった。

「奥様は毎朝、あの抽斗をお開けになります。今朝は、中の物を全部出してお探しでした。お昼前に分家の旦那様がお見えになって、奥様とお話しになりました。お嬢様を今夜から、しばらく離れにお移しすると。学院で騒ぎにはしたくないから、いつも図書室をお出になる時刻に、佐伯さんがお車でお迎えに」

フミの指に力が入った。

「それから、海の向こうへ船を出している会社の方をお呼びするようにと、佐伯さんに」

私はフミの手を見ていた。十年前、熱の額に手拭いを載せてくれた手だった。はい、冷たいですよ、と言いながら。

「フミさん。どうして教えてくれるんですか」

フミは首を振った。

「お嬢様は、お屋敷の階段で、お客様のお子さまにも道をお譲りになる。わたくしは、それを見ておりました」

それだけ言って、フミは手を離した。

「お弁当は、召し上がってくださいまし」

フミは門を出ていった。背中の丸い後ろ姿が、角を曲がって見えなくなった。

風呂敷の中には、弁当箱と、握り飯が三つと、厚い毛糸の襟巻きが入っていた。

私は校舎の窓から、屋敷のある方角の空を見た。冬の空は低かった。

家に戻れば、今夜から離れに入れられる。離れの戸には外から錠がかかる。そのあとは、船会社の人が来る。十八の夜を待たずに、四年早く、同じ船に乗る。

鞄の底には、五年分の小遣いと、写真が一枚、縫いつけてある。

私は弁当の蓋を開けて、ご飯を食べた。食べ終えて、蓋を閉めた。

家には帰らない。