天導ルリカは生まれるのを止めた
第三章 夜行列車
第三章 夜行列車
放課後の図書室は、火の気がなくて寒かった。
澪さんは、窓際の机にいた。私が来るのを待っていたのか、ただ本を読んでいたのかは、顔を見ても分からなかった。澪さんは本を閉じて立ち上がった。
私は鞄から藍色の帳面を出して、机に置いた。
澪さんは帳面を見て、私を見た。
「四月のところです」と私は言った。「薬代の行の、横の余白」
澪さんは、すぐには手を伸ばさなかった。
「天導さん。これを私に渡したら」
「はい」
「天導さんは、どうなるんですか」
私は少し考えた。本当のことを全部言う時間はなかった。
「私は今日、いなくなります」
「いなくなる」
「家には帰りません。どこへ行くかは、言いません。探さないでください」
澪さんは、まっすぐに私を見た。人の目から目を外さない人の目だった。しばらくそうしていて、それから、小さく頷いた。
「……分かりました。天導さんが、そうしてほしいなら」
澪さんは帳面を両手で取って、胸に抱いた。私は母の細い字を、もう一度だけ見たいような気がした。見なかった。
図書館の本は、読みたい人のところへ行くためにある。私は司書になってから、ずっとそう思って働いてきた。あの帳面を必要としている人は、この部屋に一人しかいなかった。
それから、私は鞄からもう一冊出した。学院の図書室の蔵書印が押してある、布表紙の地図帳だった。
「これも、お願いします」
「これも、証拠ですか」
「返却です。期限が来週の火曜なので」
澪さんは地図帳を受け取って、少し黙った。それから、初めて笑った。口の端だけが、困ったように上がった。
「天導さんって、そういう方だったんですね」
「そういう方でした」
地図帳の南の頁は、もう全部覚えていた。
図書室を出ると、私は裏門へ回った。いつもなら、まだ本を読んでいる時刻だった。
*
夜行が出るまで、まだ何時間もあった。停車場で待つには、学院の制服は目立ちすぎた。
私は屋敷と反対の方角にある市立図書館へ入った。入口の札には、閉館は八時とあった。閲覧室の奥で分厚い本を開き、鞄を膝に置いた。扉が開くたびに、同じ行から読み直した。
閉館の声を聞いて外へ出ると、フミの襟巻きを顎まで引き上げた。着替えを買うのは、南浦に着いてからでいい。
帝都の中央停車場は、夜になっても人が多かった。私は大きな鞄を提げた人たちの後ろについて、切符売り場へ急いだ。
切符の窓口で、「南浦まで、三等を一枚」と言った。
窓口の人は私の制服を見て、少し眉を上げた。
「お一人で」
「祖母のところへ参ります。急な病で」
口から出たのは、図書館の窓口で延滞の言い訳を何百回と聞いてきた人間の、いちばんありふれた作り話だった。窓口の人は頷いて、切符に鋏を入れた。
夜行は九時に出た。
三等車の座席は板張りで、背もたれがまっすぐだった。向かいに行商のおばあさんが座っていて、膝の上の籠から蜜柑を出して、一つ私にくれた。
「寒いねえ、お嬢ちゃん」
「はい」
私はフミの握り飯を一つ食べて、蜜柑を食べた。おばあさんは次の次の駅で降りた。降りるとき、「気ぃつけてな」と言って、もう一つ蜜柑を私の膝に置いていった。
車両には、ほかに人がほとんどいなかった。奥のほうで男の人が一人、帽子を顔に載せて眠っていた。
私は窓の外を見た。暗くて、何も見えなかった。硝子には車内の電灯と、私の顔が映っていた。十四の、頬にまだ丸みの残った顔。フミの襟巻きに顎まで埋まっている。
鞄を膝に抱えた。底に縫いつけた袋の、写真の角が、布越しに指に当たった。
九月の窓のことを考えた。掛け金に手が届かなくて、両手で硝子を叩いた日のこと。あの日から、ずいぶん遠くまで来た気がした。まだ半分も来ていなかった。
*
夜中を過ぎて、汽車は山にかかった。
線路の音が変わった。車輪が鉄を噛む音が低くなって、車体がゆっくり傾いた。窓の外の暗さの質が変わった。夜の暗さから、もっと近くて硬い暗さになった。
トンネルだった。
長いトンネルだった。耳の奥が詰まって、唾をのみこむと、ぷつんと音がした。天井の電灯が一度またたいて、消えて、またついた。煤の匂いが、窓の隙間から入ってきた。
私は目を閉じた。
線路の音だけが続いた。どれくらい続いたのかは、分からなかった。眠っていたのかもしれない。
音が、ふっと軽くなった。
目を開けると、窓の外が明るかった。月が出ていた。山の斜面の向こうに、海が見えた。月の光が、細い帯になって水の上に延びていた。
窓硝子に、顔が映っていた。
十四の顔ではなかった。
頬の丸みが消えていた。顎の線が細くなって、目の形がはっきりしていた。切れ長で、少しきつい。母に似た目だった。黒い髪が、肩のあたりで襟巻きに押されて広がっている。
私はその顔を知っていた。
ゲームの立ち絵だった。十八歳の、成年披露の夜の天導瑠璃。私が何十回も、断罪の場面で見た顔。
私は硝子に手を当てた。硝子の中の人も、手を当てた。指が長かった。
不思議な力で時空が歪み、瑠璃は現代の基準で成人とされる十八歳になった。未成年者ではなくなった。
*
服がきつかった。
制服の袖が、手首の骨の上で止まっていた。肩の縫い目が突っ張って、腕を前に出すと背中がきしんだ。靴の中で、爪先が曲がっていた。
私は靴を脱いだ。
足袋の足を座席に上げて、膝を抱えた。フミの襟巻きだけは、首にちょうどよかった。毛糸は伸びる。
窓の外で、海が少しずつ近くなった。
私は硝子の顔をもう一度見て、それから、鞄の底の写真のことを考えた。写真の中の赤ん坊は、この顔を知らない。写真の中の男の人も知らない。
それでいい、と思った。会いに行くのは、写真の中の赤ん坊ではない。
私は、眠った。
*
南浦には、朝の七時に着いた。
改札を出たとたん、潮の匂いがした。駅前の坂の下に港があって、その向こうに、背の高い鉄の骨組みが何本も立っていた。起重機だ。槌の音が、坂の上まで届いていた。かん、かん、と、間を置かずに。
駅前の古着屋が、ちょうど戸を開けたところだった。
私は制服の上から羽織れる紺の綿入れを一枚と、草履を一足買った。店のおばさんは私の足を見て、「お姉さん、足大きいねえ」と言って、奥から大きいほうの草履を出してきた。
学院の靴は、風呂敷に包んだ。フミの弁当箱と一緒に。
坂を下りた。
港の手前に、黒い板塀が長く続いていた。塀の上から、組みかけの船の肋骨のような木組みが見えた。門柱に、墨の太い字の看板がかかっていた。
蓬田造船所。
門は開いていた。朝の作業の人たちが、材木を担いで出入りしていた。
私は門の前で、一度だけ立ち止まった。
帳簿にあったのは、荷物の送り先だった。もう勤め先が変わっていても、ここなら行き先を聞けるかもしれない。
ゲームでは、門の外に立っているのは、あの人のほうだった。荷物を一つだけ持った瑠璃が、屋敷の門を出てくるのを待っていた。
今度は、私が荷物を一つだけ持って、門の外に立っている。
私は、門をくぐった。