天導ルリカは生まれるのを止めた
第四章 昔、私を抱いていた人
第四章 昔、私を抱いていた人
門の中は、木屑の匂いがした。
地面に鉋くずが積もっていて、草履の裏がふかふかと沈んだ。右手に長い屋根の作業場があって、左手の水際に、組みかけの船が一隻、木の台の上に載っていた。船の横腹はまだ半分しか板が張られていなくて、張られていないところから、肋骨のような骨組みが朝の空を透かしていた。
材木を担いだ若い人が、私の前で止まった。
「姉ちゃん、どこの人や。事務所なら、あっちやで」
「天導恭介さんを、探しています」
「恭さん?」
若い人は材木を担ぎ直して、顎で水際を指した。
「恭さんなら船台や。あのでかいの」
船の横に足場が組んであった。いちばん上の段に、男の人が一人しゃがんで、板の継ぎ目に何かを当てていた。
大きな人だった。
作業着の背中が、足場の手すりより幅があった。首に手拭いを巻いて、袖をまくった腕が日に焼けて黒い。下から「恭さん、お客や」と若い人が怒鳴ると、その人は顔を上げて、こちらを見下ろした。
「わしにか」
声が低かった。槌の音の中でも、はっきり聞こえた。
その人は道具を腰に差して、足場を下りてきた。一段ずつ、右足を少し庇うようにして下りた。最後の段から地面へ下りると、私の前に立った。
見上げなければならなかった。
顎に無精ひげが伸びていた。目尻に深い皺があって、日焼けした額の生え際に、白いものが少し混じっていた。手拭いで手を拭いている。その指が、太かった。私の指を二本合わせても、あの一本に足りないと思った。
「わしに何の用かな」
その人は、私の顔を見ていた。どこかで会ったかどうか思い出そうとして、思い出せない人の顔だった。
私は、この場面を何度も考えていた。汽車の中でも、古着屋でも、坂を下りながらでも。何を最初に言うか。
ゲームでは、門の外で、この人が言う。昔、あなたを抱いていた者だ、と。
私は、それを返すことにしていた。
「昔、私を抱いていた人ですよね」
その人は、手拭いを持ったまま止まった。
意味の分からない言葉を聞いた顔だった。それから、少し困った顔になった。人違いをされたと思ったのかもしれない。
私は綿入れの懐から、写真を出した。
鞄の底の袋で、角が丸くなった写真だった。作業着の襟のよれた男の人が、赤ん坊を抱いている。赤ん坊の左手が、男の人の太い指を握っている。
その人は写真を見た。
長いあいだ見ていた。手拭いが、指のあいだから落ちた。拾わなかった。
それから、写真を持っている私の手を見た。
「……左で持つのは、変わらんな」
小さな声だった。
その人は顔を上げて、私を見た。さっきとは違う見方だった。
「瑠璃か」
「はい」
その人は、何か言おうとして口を開けて、閉じた。もう一度開けて、また閉じた。手をどこに置けばいいのか分からないみたいに、作業着の腿のところで何度も拭いた。拭くものは、もう何もついていなかった。
「……大きゅうなったな」
やっと出てきたのが、それだった。
私は頷いた。
その人はまた黙った。周りで槌の音が続いていた。若い人たちが、材木を担いだまま、遠巻きにこちらを見ていた。
「腹は、減っとらんか」
*
造船所の門を出たところに、一膳飯屋があった。
恭介さんは、戸を開けて「ばあさん、定食を大盛りで一つ」と言った。一つだった。
私の前に、麦飯と、鰯の煮たのと、味噌汁と、卵焼きが並んだ。麦飯は丼に山盛りだった。恭介さんは向かいに座って、湯呑みを両手で包んで、私が箸を取るのを見ていた。
私は食べた。
昨夜の握り飯のあと、蜜柑を二つ食べただけだった。麦飯が甘かった。鰯の骨まで柔らかかった。
恭介さんは自分の前に何も置いていなかった。
「恭介さんは、食べないんですか」
「わしは、さっき食うた」
その人のお腹が鳴った。
ぐう、と、低い声と同じくらい低い音で鳴った。飯屋のおばあさんが、台所の奥で吹き出した。
恭介さんは湯呑みを置いて、耳の後ろを掻いた。
「……朝のは、朝のだ」
何の言い訳にもなっていなかった。それから、私の卵焼きの皿を、私のほうへ押した。もう私の前にあるのに、もっと押した。皿が丼に当たって、かちんと鳴った。
私は笑ってしまった。
笑いながら、麦飯を口に入れて、むせた。恭介さんが慌てて湯呑みを差し出して、それが自分の飲みかけだと気づいて、引っこめて、おばあさんに「水をくれ」と言った。
ゲームのこの人を思い出すとき、いつも浮かぶのは、門の外の三行だった。
送っていこうか。昔、あなたを抱いていた者だ。門柱の影の、日に焼けた横顔。その一枚のために全ルートを回った。あの横顔は、何も言わなくても全部分かっている人の顔だった。
目の前の人は、何も分かっていなかった。
嘘が下手で、お腹が鳴って、皿を押しすぎる。湯呑みを出したり引っこめたりする。水の入った茶碗を受け取った私が、ちゃんと飲むまで、自分は息を止めて見ている。
あ、好きだ、と思った。
思ってから、困った。
一枚絵の人ではなく、この人が好きだった。麦飯の湯気の向こうで、耳の後ろを掻いている、この人が。
私はもう一口、麦飯を食べた。困ったままでも、お腹は空いていた。
*
食べ終えてから、恭介さんは、なぜ一人で来たのかを訊いた。
私は、短く話した。母の帳面のこと。家に戻ったら離れに入れられて、海の向こうへやられるところだったこと。帳面は、湖の番人の娘に渡してきたこと。
恭介さんは、途中で一度も口を挟まなかった。聞き終えると、湯呑みの底を見て、長く息を吐いた。
「よう来た」
それだけだった。
「あの家のことは、わしはもう、何も言える立場にない。紙に名前を書いたからな。あの親族会で、藤乃とも離縁した」
「法律の上では、もう親子じゃないんですよね」
「紙のことは、よう分からん」
恭介さんは、湯呑みを置いた。
「お前は、わしが抱いとった子だ。それで足りる」
私は、その言葉を大事に聞いた。大事に聞いて、少しだけ、胸の端のほうが痛んだ。
この人は、私を娘として迎えている。
当たり前だった。この人にとって私は、あの写真の赤ん坊で、四つで別れたきりの子どもだった。いま目の前で麦飯を食べていた人が、門の外の一枚絵を見たくて全ルートを回った女だとは、思うはずもない。
「九月の窓のこと、覚えてますか」と、私は訊いた。
恭介さんは顔を上げた。
「二階の窓か」
「はい」
「手を振っとったな。両手で」
私は息を止めた。
「見えてたんですか」
「見えとった」
恭介さんは、飯屋の窓の外の港を見た。
「振り返そうと思うた。振り返したら、あの家の誰かに見られて、お前が叱られる。それで、帽子しか触れんかった」
恭介さんは、湯呑みをまた両手で包んだ。
「わしが最後に見たお前は、あれだ。窓硝子に、ちっこい手を二つ、ぺたっとつけとった」
私は、卓の下で、自分の手を握った。いまの私の手は、指が長かった。
*
恭介さんの家は、造船所の裏の長屋の端だった。
土間と、板の間と、奥の六畳。板の間には図面が何枚も広げてあって、その上に定規と墨壺と、飲みかけの湯呑みが三つ載っていた。部屋じゅうに木屑の匂いがした。
恭介さんは、奥の六畳に積んであった図面の束を、両腕で抱えて板の間へ運んだ。三往復した。
「ここを使え」
「恭介さんは」
「わしはこっちで寝る。慣れとる」
恭介さんは、造船所の親方の家へ布団を借りに行った。
昼過ぎに、恭介さんが、親方のおかみさんと一緒に戻ってきた。
おかみさんは、ふっくらした、声の大きな人だった。布団を一組と、風呂敷包みを一つ抱えていた。
「恭さんが、娘さんの着るもんを買うてやりたい言うてな。うちが一緒に行ってきたんよ。朝、門のとこで若い衆と話しとるのを見たからな。寸法は大丈夫やで」
風呂敷の中は、木綿の着物が一枚と帯と、下駄だった。着物の地は赤くて、白い手毬の柄が散っていた。
私は手毬を見た。それから恭介さんを見た。
「柄は恭さんが選んだんよ」とおかみさんが言った。「うちは、もうちょっと落ち着いたのにしい言うたんやけどな」
恭介さんは、土間で下駄の鼻緒を、太い指で揉んでやわらかくしていた。こちらを見なかった。
「……似合うと思うたんだ」
七つの子の晴れ着みたいだった。
私はそれを着た。寸法は、おかみさんの言うとおり、ぴったりだった。手毬が袖で転がっていた。
恭介さんは、着替えて出てきた私を見て、うん、と一度頷いた。それから、少し笑った。写真のために作った笑い顔より、ずっと下手な笑い方だった。
「よう似合う」
おかみさんが、後ろで何とも言えない顔をしていた。
*
夕方、私は港の通りの文房具屋で、帳面を一冊買った。
藍色ではない、茶色の表紙の、いちばん安いものにした。
夜、奥の六畳で、借りた布団の上に腹這いになって、最初の頁を開いた。板の間のほうから、恭介さんが図面を片づける音がしていた。定規が板に当たる音。ときどき、ひとりごとのように数を読む低い声。
私は、左手で鉛筆を持った。この家では、どちらの手で書いてもいい。
恭介さんに会ってから、一日目。
お腹が鳴った。さっき食うた、と言った。
卵焼きの皿を、もう私の前にあるのに、もっと押した。
手を振ったのを、見ていてくれた。
手毬の着物。似合うと思うたんだ、と言った。
書いてから、読み返した。
日記だった。誰がどう読んでも、恋の日記だった。
私は帳面を閉じて、枕の下に入れた。