天導ルリカは生まれるのを止めた
第五章 わしの中では四つだ
第五章 わしの中では四つだ
造船所の事務所の奥に、図面庫があった。
六畳ほどの板の間に、丸めた図面と帳簿と、船主との手紙が、床から天井まで押しこまれていた。九つの夏に見た本家の書庫と、同じ顔をしていた。
三日目の朝、私は親方に頼んだ。
「ここ、並べ直してもいいですか」
親方の蓬田さんは、胡麻塩頭を短く刈った小柄な人で、いつも耳に鉛筆を挟んでいた。私の顔と図面庫を見比べて、「恭さんの娘さんか」と言った。
「はい」
「好きにしてええ。どうせ誰も、どこに何があるか分からん」
十日かかった。
図面は船ごとに、船は竣工の順に並べた。一本ずつ紐を掛けて、紙の札を下げた。札には船の名と、船主と、竣工の月を書いた。帳簿は年ごとに、手紙は船主ごとに分けた。棚の端に、どの船の図面がどの段にあるかの一覧を貼った。
その次の日に、親方が七年前の汽船の図面を探しに来た。私は札を見ずに、上から三段目の右から四本目を抜いて渡した。
親方は図面を広げて、しばらく何も言わなかった。それから、耳の鉛筆を取って、また挟んだ。
「恭さん。あんたの娘は、えらい仕事をする」
その日から、私は図面庫の番になった。給金も出ることになった。
恭介さんに会ってから、十三日目。
親方に褒められた。
恭介さんは、そうか、と言った。夕飯のとき、もう一回、そうか、と言った。
三回目は、布団に入ってから、板の間のほうで言った。
*
おかみさんは、昼になると事務所に茶を持ってきた。
「灯ちゃん」とは、おかみさんは呼ばない。「瑠璃ちゃん」と呼ぶ。この町では、私は恭さんの娘の瑠璃ちゃんだった。
「瑠璃ちゃんは働き者やねえ。ええお嫁さんになるわ」
「なります」と私は言った。「恭介さんの」
おかみさんは、お盆を抱えて笑った。大きな声で笑って、目尻の涙を指で拭いた。
「ほんまに、あんたは恭さんが好きやねえ。あんな無口なお父ちゃん、よう懐いたもんや」
冗談だと思われていた。
冗談だと思われたまま、私は茶を飲んだ。熱かった。
恭介さんに会ってから、十五日目。
朝、恭介さんが卵を焼いた。黒かった。
わしは焼くのは得意だ、と言った。船の板を火で曲げる話だった。
*
作戦を立てた。
図書館で企画展の計画を立てるときと、同じやり方にした。目的を一行で書く。手段を並べる。一つずつ試す。
目的:恭介さんに、娘ではなく一人の大人として見てもらう。
一つ目は、弁当だった。
朝、恭介さんより早く起きて、麦飯を詰めて、卵焼きを焼いた。卵焼きは、少し焦げた。昼に船台へ持っていった。
恭介さんは足場の上から下りてきて、弁当の包みを受け取った。蓋を開けて、焦げた卵焼きを見た。
「お前が作ったんか」
「はい」
「えらいな」
恭介さんは、私の頭を撫でた。二回撫でた。周りの若い人たちが「恭さん、ええなあ」と言った。恭介さんは「ええだろう」と言った。
撫でられた頭が、温かかった。温かくて、作戦としては失敗だった。
二つ目は、髪だった。
おかみさんに教わって、髪を上げた。首の後ろがすうすうした。借りた鏡の中の顔は、汽車の窓で見た顔と同じで、それよりは少し、目の形がやわらかかった。
夕方、恭介さんが帰ってきた。土間で私を見て、止まった。
しばらく見ていた。
「……大人みたいだな」
「大人です」
「そうか」
恭介さんは草履を脱いで、板の間に上がった。上がってから、振り返った。
「首、寒うないか」
私は首の後ろに手を当てた。寒かった。
恭介さんに会ってから、十九日目。
大人みたいだな、と言われた。みたい、がついていた。
首が寒いか、と訊かれた。寒かった。
*
図面庫の仕事に慣れたころ、夕飯のときに恭介さんが訊いた。
「お前、あの札の付け方は、どこで覚えた。学院か」
私は箸を置いた。
どう答えるか、少し迷った。それから、半分だけ本当のことを言うことにした。
「夢で、です」
「夢」
「小さいころから、ときどき同じ夢を見るんです。夢の中の私は、大きな町の図書館で、本を貸す仕事をしています。本に札を貼って、棚に並べて、借りに来た人に渡すんです。名前も違って」
「何という名だ」
「灯、です。灯りの灯で、ともし」
恭介さんは、湯呑みを持ったまま、口の中で「ともし」と一度言った。
笑われるかと思った。笑わなかった。夢の話を、夢の話のまま聞いている顔だった。
「ええ名だ」
恭介さんは、湯呑みを置いた。
「夜の船は、港の灯が見えんと入ってこられん。灯のない港には、誰も寄らん」
それだけ言って、恭介さんは味噌汁を飲んだ。
私はしばらく、自分の名前を人に褒められたことがあったかどうか考えた。一度もなかった。図書館の窓口では、名札の「立花」しか読まれなかった。
*
作戦の三つ目は、作戦ではなかった。
夜、板の間で、恭介さんが図面を引いていた。洋燈の下で、定規を当てて、墨の線を一本ずつ延ばしていた。背中が丸かった。
私は奥の六畳の敷居のところに座って、その背中を見ていた。
見ていたら、言ってしまった。
「恭介さん。私、恭介さんが好きです」
墨の線が止まった。
恭介さんは筆を置いて、振り返った。私の顔を見て、それから、困った顔をした。船台の下で、写真を見る前にした顔と同じだった。意味の分からない言葉を聞いた人の顔。
それから、その顔が、少しだけ和らいだ。
「子どもはそういうことを言わんでいい」
「もう十八です」
恭介さんは、首の手拭いを取って、畳んで、膝の上に置いた。
「わしの中では四つだ」
低い声だった。叱る声ではなかった。
「窓に手をつけとった、あの子のまんまだ。わしは、あそこから先を見とらん。見とらんものは、よう数えられん」
恭介さんは、手拭いの上に手を置いた。
「お前が大きゅうなったのは、分かっとる。分かっとるが、わしの中の瑠璃は、まだ四つで、窓のとこにおる。……それで、ええんだ」
私は何か言おうとした。
言えなかった。この人の中の四つの子は、この人が窓の日からずっと、ひとりで持ち歩いてきたものだった。それを取り上げて、代わりに私を置けと言うのは、今夜はできなかった。
「寝え。明日も早い」
恭介さんは洋燈のほうへ向き直って、また筆を取った。墨の線が、さっきの続きから延びていった。
恭介さんに会ってから、二十四日目。
好きです、と言った。
子どもはそういうことを言わんでいい、と言われた。
もう十八です、と言った。
わしの中では四つだ、と言われた。
四つの私は、あの人の中の窓のところにいるらしい。
少し、うらやましい。
*
帝都の新聞は、南浦には一日遅れで届く。
三十日目の夕方、恭介さんが、新聞を一部持って長屋へ帰ってきた。事務所の机に置いてあったものだった。
恭介さんは、板の間に座って、新聞を広げた。
私は土間で、鍋の火を見ていた。見ているふりをして、恭介さんを見ていた。
社会面の、下のほうの記事だった。帝都の名家、天導家の先の当主が湖で亡くなった件で、警察が分家の当主と、その妹を捕らえた。記事は、そういうことを、硬い字で短く書いていた。
恭介さんは、その記事を長いあいだ読んでいた。
短い記事だった。何度も読み返しているのだと思った。
それから、新聞を畳んだ。角を合わせて、きちんと四つに畳んだ。
「ちょっと、出てくる」
恭介さんは草履をつっかけて、出ていった。
私は鍋の火を落として、少し待ってから、後を追った。
恭介さんは、造船所の船台の下にいた。組みかけの船の、まだ板の張られていない腹の下に座って、骨組みの隙間から夜の空を見ていた。
私は、隣に座った。恭介さんは何も言わなかった。追い返しもしなかった。
しばらくして、恭介さんが言った。
「わしは、あの人の亭主だった」
「はい」
「何も見えとらんかった。あの人が何を考えとるのかも、お前が誰の子かも、あの晩、お前が舟屋で眠らされとったのも」
恭介さんの声が、少し掠れた。
「わしが湖におったら、と、ずっと思うとった」
私は膝を抱えた。
ゲームの筋を、全部話すことはできなかった。それでも、一つだけは言えた。
「恭介さんは、あの日、湖にいなかったんじゃないです。いられないようにされたんです。電報で」
恭介さんは、私のほうを見た。
「……電報のことを、誰に聞いた」
「帳面を読んだ人には、分かることです」
嘘だった。帳面に、電報のことは書いていなかった。私が知っているのは、画面の中で読んだからだ。その話はできないから、帳面のせいにした。
恭介さんは、また空を見た。
「そうか」
それから、長く息を吐いた。
「そうか」
私たちは、船の腹の下で、しばらく座っていた。夜の港で、どこかの船の灯が、ゆっくり動いていた。
*
翌朝、私は手紙を書いた。
便箋は、港の文房具屋でいちばん上等なものを買った。
天導藤乃様
恭介さんと暮らしています。
恭介さんは元気です。朝、卵を焦がします。
法律上は他人です。あなたが名前を書かせた紙のおかげです。
結婚するつもりです。
お返事は要りません。
瑠璃
封筒の表に、帝都の監獄の名と、母の名を書いた。裏には何も書かなかった。差出人の住所を書けば、あの人はこの長屋に手紙を寄越すかもしれない。恭介さんに宛てて、何かを。
郵便局の窓口で切手を貼って、差し出した。
母は、この手紙を読むだろう。読んでも、ここへ来ることはできない。私を叱ることも、髪を梳くことも、左の箸を右に持ち替えさせることもできない。
郵便局を出たら、潮の匂いがした。
私は気分がよかった。
それから、ときどき書いた。
書くのは、決まって、子ども扱いされた日の夜だった。恭介さんに頭を撫でられた日、飴をもらった日、夜道で「ほれ、手」と言われて、迷子の子どもみたいに手を引かれた日。胸の中に置き場所のないものがたまると、私は上等な便箋を出して、母に書いた。
天導藤乃様
今日は恭介さんに飴をもらいました。
まだ結婚していません。するつもりです。
瑠璃
返事は待たなかった。返事の宛先を渡さなかったのは、私のほうだった。
*
四月二十日の朝、恭介さんは、いつもより早く家を出た。
夕方、帰ってきて、土間で何かを後ろに隠していた。回した手が片側へ寄っていて、隠しているものの端が、脇腹の横から見えていた。
「今日は、誕生日だろう」
「覚えてたんですか」
「四月二十日だ。忘れん」
恭介さんは、後ろに回していた手を、前に出した。
木の舟だった。
掌に載るくらいの小さな舟だった。船体が滑らかに削ってあって、船首が少し反っている。帆柱が一本。帆は薄い布で、糸で縫いつけてある。底を返すと、鉛が埋めてあった。
「……舟」
「五つの誕生日にやるつもりで、作りかけとった」
恭介さんは、耳の後ろを掻いた。
「行李に入れて持ってきて、それきりになっとった。帆をつけて、底に鉛を入れた。ちゃんと浮く。盥で試した」
私は、舟を両手で持った。
五つの子のための舟だった。十九になった日に、手の中にあった。
子ども扱いだった。どこからどう見ても、子ども扱いだった。
私は舟を持ったまま、背伸びをした。背伸びをしても届かなかったので、恭介さんの作業着の袖を引いた。恭介さんが「ん」と言って屈んだ。
私は、恭介さんのほっぺに口づけをした。
無精ひげが、唇にちくちくした。木屑の匂いがした。
恭介さんは、屈んだまま止まった。
長いあいだ止まっていた。土間の外を、自転車が一台、鈴を鳴らして通り過ぎた。
それから、恭介さんはゆっくり身体を起こして、口づけされた頬を、太い指で一度こすった。
「……家族だからな」
そう言って、草履を脱いで、板の間に上がった。上がってから、図面の前に座って、定規を持った。定規の向きが逆だった。
恭介さんに会ってから、五十九日目。
五つの誕生日の舟をもらった。ちゃんと浮くらしい。盥で試したらしい。
ほっぺに口づけをした。
家族だからな、と言われた。
家族なら、していいことらしい。
定規が逆だった。
その夜、私は上等な便箋を出した。
天導藤乃様
恭介さんのほっぺに口づけをしました。
家族だからな、と言われました。
まだ結婚していません。するつもりです。
瑠璃