天導ルリカは生まれるのを止めた
第六章 進水式
第六章 進水式
図面庫の棚の、いちばん新しい段に、札が一枚下がっていた。
私が来た朝、船台の上で板を半分張りかけていた船の札だった。造船所が自分のところで使う曳船で、恭介さんが図面を引いた。船主がいないから、名前も決まっていない。札には、船の大きさと、起工の月だけを書いて、名前の欄には「未定」とだけ書いておいた。
夏のあいだに、船の腹には全部の板が張られた。
*
八月十五日の夜、南浦の港でも灯籠を流した。
湖の灯籠とは違って、港の灯籠は、引き潮に乗って沖のほうへ出ていく。岸壁に町の人たちが並んで、紙の灯籠に火を入れて、一つずつ水に置いていた。
恭介さんは、灯籠を一つ買って、岸壁にしゃがんだ。蝋燭に火を移すのに、三回、燐寸を折った。
「宗一郎さんに」
恭介さんは、そう言って、灯籠を水に置いた。
私は恭介さんの横顔を見た。宗一郎は、あの家で母が愛した人だった。この身体の、血の上の父親だった。恭介さんは、その人の名を、何でもないことのように呼んだ。
「宗一郎さんには、よう世話になった。船の話を、いちばん面白がって聞いてくれたのは、あの人だった」
灯籠は、岸壁を離れて、ゆっくり沖へ流れていった。
私は灯籠を二つ買った。
一つに火を入れて、水に置いた。懐中時計の蓋を開けてくれた、細い指の人に。
もう一つにも火を入れた。
「二つか」と恭介さんが言った。
「一つは、おじさまに」
「もう一つは」
「内緒です」
恭介さんは、それ以上は訊かなかった。「そうか」とだけ言って、私が二つ目の灯籠を水に置くのを見ていた。
四つの夏の朝より前に、この身体で縁台に座っていた子がいた。パパの指に持ち上げられて、天井の近さに笑っていた子。私はその子の記憶を、絵本の抜けた頁みたいに少しだけ持っている。二つ目の灯籠は、その子に流した。
二つの灯籠は、少し離れて、同じ潮に乗っていった。
*
秋の初めに、機関が載った。塗料の匂いが、長屋まで届くようになった。
「恭介さん。あの船の名前、決まりましたか」
夕飯のとき、私は訊いた。
「まだだ」
十日たって、また訊いた。
「まだだ」
進水式の日取りが決まっても、恭介さんは「まだだ」と言った。親方が「恭さん、名前がなかったら、船名板が彫れんがな」と言うと、恭介さんは「わしが彫る」と言った。
それから何日か、恭介さんは夜遅くまで板の間で何かを削っていた。私が覗こうとすると、背中で隠した。大きな背中だったので、よく隠れた。
恭介さんに会ってから、二百一日目。
船の名前は、まだらしい。
夜、何かを削っている。見せてくれない。
背中が大きいので、何も見えない。
*
進水式の前の晩、私は船台へ行った。
船はもう、台の上で、海のほうへ船尾を向けていた。塗りたての黒い腹が、港の灯を映して濡れたように光っていた。船首の、名前を入れるところには、白い布がかけてあった。
恭介さんは、船台の下で、滑り台の板に獣脂を塗る若い人たちに、何か言っていた。言い終えて、振り返って、私に気づいた。
「どうした。冷えるぞ」
「恭介さん」
私は、恭介さんの前に立った。
「私、やっぱり、恭介さんが好きです」
恭介さんは、黙った。
「娘として、ではないです。四つの子として、でもないです。十九の私が、いまの恭介さんを好きです。卵を焦がすところも、お腹が鳴るところも、定規を逆に持つところも」
言いながら、少し恥ずかしくなった。定規のことは、言わなくてもよかった。
恭介さんは、私の顔を見ていた。
長いあいだ見ていた。船台の下で写真を見たときのように。困った顔でも、和らいだ顔でもなかった。何かを量るような顔だった。
それから、目を船のほうへやった。
「明日は朝が早い」
恭介さんは言った。
「お前も来い。いちばん前だ」
それだけだった。答えではなかった。けれど、「子どもはそういうことを言わんでいい」とも、言わなかった。
*
進水式の朝は、よく晴れた。
船台の周りに、紅白の幕が張られていた。造船所の人たちが、みんな法被を着ていた。港の人たちも、町の子どもたちも、見物に集まっていた。船首から、太い綱が一本、式台のほうへ延びていた。支綱だった。この綱を切ると、船を留めていたものが外れて、船は滑り台を下りて海へ出る。
私は、給金で買った紺の着物を着ていった。手毬の柄のは、畳んで行李にしまってある。
恭介さんは、私を見て、少し眉を上げた。
「手毬のは、どうした」
「今日は、こっちです」
「手毬のも、よう似合うとったのに」
おかみさんが、横で天を仰いでいた。
式台の上で、親方が短い挨拶をした。それから、式台の上の小さな銀色の斧を、手で示した。
「支綱は、女の人が切るもんや。恭さん、誰にする」
恭介さんは、私の背中を軽く押した。
「瑠璃に」
造船所の人たちが、わっと声を上げた。若い人が「恭さん、ええなあ」と言った。恭介さんは、今日は何も言い返さなかった。
私は式台に上がった。
斧は、思っていたより軽かった。綱は、思っていたより太かった。親方が「思い切りな。一回で」と小声で言った。
私は斧を振り下ろした。
綱が切れた。
船首の上で薬玉が割れて、紙吹雪と、鳩が二羽、飛び出した。船が、ゆっくりと動き出した。最初は止まっているのと見分けがつかないくらいゆっくりで、それから、滑り台の獣脂の上を、どんどん速くなった。船尾が海に入って、大きな白い波が立った。見物の人たちが歓声を上げた。
船首の白い布が、風にめくれて、落ちた。
船名板があった。木の板に、太い字が彫ってあった。墨を入れた彫り跡が、朝の光で黒々としていた。
灯丸
私は、斧を持ったまま、その字を見ていた。
「ともしび丸や」と、若い人が読み上げた。「ええ名前やな」
「港の灯か」と、別の人が言った。
「恭さん、なんの名や」
恭介さんは、答えなかった。
船が海の上で、ゆっくり揺れて、止まった。水の上に、自分の影を落として浮かんでいた。傾かなかった。恭介さんは腕を組んで、それを見ていた。
私は、式台を下りて、恭介さんの隣に立った。
「恭介さん」
「ん」
「あれは、何の名前ですか」
恭介さんは、船を見たままだった。
「船の名前だ」
それだけ言った。
私は、船名板の字を、もう一度見た。
港の人たちは、ともしび丸と読んでいた。夜の船が入ってくるための、港の灯。恭介さんが夕飯のときに言っていたことだった。そういう名前なのかもしれなかった。
私は、別の読み方を一つ知っていた。夢の話として、夕飯のときに一度だけ話した名前。
どちらなのかは、恭介さんが言わない限り、分からない。恭介さんは、たぶん、言わない。
私も、盆の灯籠の二つ目を、誰のためのものか言わなかった。おあいこだった。
それで、よかった。今日のところは。
*
式のあとで、餅まきがあった。
船台の上から、造船所の人たちが紅白の餅を撒いた。町の子どもたちが、歓声を上げて走り回った。私は拾わなかった。拾う年ではない、と思った。
恭介さんが、人の頭の上に手を伸ばして、飛んできた餅を一つ、片手で取った。紅いほうだった。
それを、私の手に載せた。
「ほれ」
「……私、もう十九です」
「知っとる」
恭介さんは、そう言った。
私は顔を上げた。
恭介さんは、私の頭に手を置いた。二回撫でた。
「子どもは、餅を拾え」
大きな手が、頭の上から離れていった。恭介さんは、祝い酒の樽のほうへ、親方に呼ばれて歩いていった。右足を少し庇う歩き方で。
私は、紅い餅を両手で持って、その背中を見ていた。
知っとる、と言った。
それから、子どもは餅を拾え、と言った。
どちらも、あの人は本気で言っていた。
*
その夜、私は便箋を出した。
天導藤乃様
恭介さんの造った船に、名前がつきました。
何の名前かは、教えてもらえませんでした。
まだ結婚していません。するつもりです。
瑠璃
それから、茶色の表紙の帳面を開いた。二冊目の、半分を過ぎたところだった。
恭介さんに会ってから、二百十四日目。
船の名前は、灯丸。
何の名前かは、言ってくれなかった。船の名前だ、と言った。
もう十九です、と言った。知っとる、と言った。
それから、頭を撫でられた。二回。
子ども扱いは、まだ止まない。
板の間のほうから、恭介さんのいびきが聞こえていた。祝い酒のせいで、いつもより大きかった。
枕元の棚には、五つの誕生日の木の舟が載っている。その横に、紅い餅が一つ。
私は鉛筆を持ち直して、最後の行の下に、もう一行書き足した。
止めさせるのは、明日からにする。